不可視の残陽

「旦那ぁ、いるんだろ?」

 扉の開かれる音に重なるように、青年の声が室内へと響く。窓際に座って風に当たっていたジェイドは、声のした方向へと顔を向けて微笑んだ。

「そろそろ夕食ですか? ガイ」
「ああ。……さすがに正確だな、旦那の体内時計」
「季節と場所が分かっていますからね。後は気温の変化で、そろそろだと思っただけですよ」

 つかつかと歩み寄って行くガイの言葉に、彼は軽く首を振った。さらと流れた長い髪を掻き上げながら、簡単な言葉で種明かしをして見せる。

「なるほどねー。でも普通は分かんないもんだぜ、それじゃあ」
「そうですね。普通は時計や日の高さで確認するものでしょうから」
「まあなー……お、良い感じの夕焼け。預言は確認してないけど、明日もきっと良い天気だぜ」

 説明されれば、自分に可能では無いけれど納得出来る。そう考えつつ窓から外を見ると、沈みつつある夕日が空を明るい朱に染め上げていた。太陽の周辺は金の光が眩しくて、ガイは一瞬だけルークの髪の色を思い出す。
 髪を短くする前は、朱赤と金のグラデーションだったから。
 ふと、廊下の向こう側からばたばたと騒がしい足音が近づいてくるのに気づき、2人は同時にそちらの方へ顔を向けた。威勢良く扉を通り抜けて来たのは、今ガイが思い出していた当の少年。その髪はすっかり短く揃えられており、毛先を彩っていた金の色は失せてしまっている。

「ジェイドー、めしめしめしー! ……あれ、ガイ?」
「何だ、ルーク。お前まで来たのかよ」
「ルーク、走らなくても夕食は逃げませんよ。皆、私たちが席に着くまでちゃんと待っていてくれます」

 駆け込んで来た少年の勢いに苦笑を浮かべ、ジェイドは小さく溜息をつきながらたしなめる。それでもルークはすたすたと勢いのまま歩み寄り、満面の笑みを浮かべながらジェイドの手を取った。

「いや、そうなんだけどさー。俺が早く飯食いたくて!」

 軽く引っ張る感覚は、青い衣の軍人を急かしている少年の意識がもたらすもの。だが、その肩から聞こえる微かな声がジェイドを押し止める。

「それは構いませんが、ルーク。ミュウが肩の上で目を回してますよ?」
「え?」

 指摘されて、慌ててルークは視線を肩にやる。と、そこには。

「みゅううううう〜〜……ご、ごしゅじんさま、いそぎすぎですの〜〜」

 ジェイドの言葉通り、辛うじて襟にしがみついてはいるものの大きな眼をくるくる回しているミュウがいた。廊下を走っていたルークの意識から、チーグルの存在はすっかり抜け落ちていたらしい。

「げ、悪いブタザル」
「みゅう〜〜〜。でも、でもご主人様、気持ちは分かるですの〜」

 慌ててジェイドの手を放し小さな頭を撫でてやると、青いチーグルはぶるりと耳を震わせた。そうして、眼の回りが収まるのを待ってひょいとジェイドの膝へと飛び降りる。みゅう、と一声上げると、ジェイドの手がふわふわと頭を優しく撫でてくれた。

「ボク、ジェイドさんのご案内するですのー。だから、ご主人様と一緒に来たですの」
「おや。ありがとうございます、ミュウ」

 軍人の顔を見上げて楽しそうに鳴くチーグルに、ジェイドもふわりと穏やかな笑みを浮かべる。鼻先に指を持っていってやると、小さな小さな両手がきゅっと握りしめた。

「何だ、今日は俺が旦那連れて行こうと思ってたのに」

 最初に部屋を訪れていたガイが、しょうがないと言うように苦笑しながら肩をすくめた。途端、くるりと振り向いたルークは頬を膨らませていて、まるでだだっ子のようにむくれている。

「やーだ。案内役はミュウでも、連れてくのは俺だー」
「はいはい、分かりました。貴方がたにお任せしますので、敷居に躓かせたりしないでくださいね?」

 だんだんと床を踏み鳴らして主張するルークに、半ば呆れ気味のジェイドの声が届く。困ったように微笑んでいる彼の顔を見て、朱赤の髪の少年はしょげたように身をちぢこめた。

「うぐっ……き、気をつける……」
「まあまあ旦那、ルークもこう言ってることだし。俺もいるから大丈夫だって」

 思わずガイが2人の間に入り、ジェイドをたしなめる。ぽんぽんと青い肩を叩いてやると、「しょうがないですね」と僅かに首を傾けながら苦笑混じりの言葉が返って来た。空色のチーグルが膝から駆け下りるのを待って立ち上がり、ジェイドはくすりと肩を揺らして微笑む。

「お手数をお掛けします。戦場だと1人で走れるのですがね」
「みゅ〜。ジェイドさん、早く行くですのー」

 扉のすぐ側まで走って行っていたミュウが振り返り、小さな手で彼らを招く。この小動物は、本気で案内役を買って出るつもりなのだろう。その仕草に頷いて見せながら、ガイはジェイドに寄り添うように足を進めた。

「まあ、殺気は分かりやすいからなー。旦那の場合、狙って来る相手も多かったんだろ」
「そうですね、日頃の行いが悪かったもので。後、血の臭いもですね」

 気配を感じ、肩越しにガイを伺うジェイドの表情はあくまでも穏やかで、血生臭い言葉がとても似合うとは思えない。
 と、ルークがジェイドの正面に回って来た。その手には、青い軍服の軍人が愛用している杖が握られている。椅子の側に立てかけられていたものをいち早く見つけ、持ってきたものだ。

「うー、メシ前に物騒な話は無しな! ほら、杖!」
「はい、済みません」

 数秒空気を掻いた青い手が、ルークが突き出した杖に当たる。指で辿りつつその杖を手に収めると、ジェイドはその先端でかつっと床を叩いた。
 空いている手が伸ばされると、ルークは当たり前のようにその手を取って自分の腕に絡ませた。ガイがジェイドの背中に手を添えたことを確認して、彼らはゆっくりと歩き出す。
 いつの間にかこれは、ある種の恒例行事になっていた。どこかに移動する前に必ず誰かがジェイドを迎えに行き、その案内をすると言う習慣。
 本来ならば必要では無いその行動が、ジェイドにとっては有り難い習慣になったのはいつのことだろうか。
 旅を共にしている子どもたちが彼を労ってのことだと、理解出来てからだろうか。

 ジェイド・カーティス大佐の真紅の瞳は、光を捉えることが出来ない。


 エンゲーブで初めてジェイドと会った時、ルークは彼の真紅の瞳から目を離すことが出来なかった。くすんだ金髪と深い青の軍服に引き立てられるようなその赤い色は、少年の関心を引きつけた。普段彼が見せている優しく温かい赤と、ライガの住処で女王と対峙したときに彼が見せた恐ろしく冷ややかな紅が、いっそうルークの意識にその瞳を刻みつける。
 血のような色の瞳が光を認識しないことを知ったのは、彼と共にタルタロスに移った時。森の中で杖を使って歩いていた彼をルークは、足でも悪いのだろうかと考えていた。だが副官がその手を恭しく取り、艦内を導く様を見ていて奇妙に思った。はっきりしたのは、その後の尋問の際に副官がルークとティアの容姿を口頭でジェイドに説明した、その時。
 恐る恐る尋ねると、「自分の過ちで光を失いました」とジェイドは明かしてくれた。己に施した譜眼の実験が、時を経るうちに本来の機能を奪っていったのだと。

「20歳ほどで色の判別が難しくなりまして、30歳前には光と影しか分からなくなっていました。今はもう、光を見ることも出来ません」

 ふわりと浮かべた笑顔はとても優しくて、けれど少しずれている目線が彼の言葉を裏付けている。掛けている眼鏡は視力矯正のためでは無く、自身が目に付与した音素吸収能力を軽減するためのものだと言う。光や色を感じる能力を失っていても、その譜は未だ正常に動き続けているのだそうだ。
 ジェイドから光を奪ったその元凶は、同時に彼を戦の最前線から遠ざけるための材料となる。かつて彼が放った閃光により失明したキムラスカのニコラス・スティール将軍が退役を余儀なくされたことがあったが、ジェイドもまた現役を退かざるを得なかった。
 だが、彼の聡明な頭脳を若い皇帝は惜しんだ。故に、幼い頃を共に過ごした彼を前線からの引退を機に側仕えとして迎え、文官として重用した。その際、軍の地位である『大佐』の位は剥奪されぬままであり、故に現在でもジェイドは大佐と呼ばれる地位にある。
 そして時は流れ、ジェイドはマルクトとキムラスカの間に和平を結ぶための特使として、キムラスカへ派遣されるに至ったのだった。

「気配や音素を感じることは出来ますから、杖さえあれば1人で出歩くのにさほど支障はありません。戦闘も、乱戦で無ければどうにかなります。一番分かるのが殺気と言うのは、少々情けない気もしますがね」

 小さくつかれた溜息。その意味を、その時のルークは理解出来なかった。


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