不可視の残陽

 それから数ヶ月。アクゼリュスの惨劇を経て、彼らは世界を救うための旅路を共に歩むようになった。
 そんなある日、ジェイドはルークに対しちょっとした『お願い』をした。

「貴方の顔を、触らせてはいただけませんか?」

 それは本当に小さなお願いで、何でも無いことのように思えた。だからルークは、わざわざそんなことを願い出て来たジェイドの気持ちを測りかねて首を傾げる。

「顔? そんなの、別にかまわねえけど……何でまた」
「私の目はかたちを捉える役には立ちません。モノの形を知る方法は、触ることだけなんですよ」

 にこ、と微笑みながらジェイドは答えた。視覚を失いつつある中で聴覚が発達したらしく、彼は声の聞こえる方向に顔を向けて会話をする。ただ、光を捉えることの無い瞳が寂しい色に揺れていて。

「ルーク。貴方がどんな顔をしているのか、私は知りたい」

 彼の言葉を聞いて、はっとルークは目を見張った。
 ジェイドと初めて会ったときに、ルークは彼の顔を見て覚えた。だが、視覚を持たないジェイドはルークの声は知っていても、その顔がどう言ったものなのか未だに知らない。
 キムラスカ王族の血縁者であるルークが赤い髪と碧の瞳を持っている、と言うことは副官から口頭で伝えられたため、知っている。けれど、そこまでだ。あくまで『知っている』だけで、『見た』訳では無い。
 そして、ルークはフォミクリーによってこの世界に生まれ出たレプリカ。フォミクリーの開発者であるジェイドにとっては、我が子とも言える存在である。
 自分とジェイドが逆の立場だったら、とルークは考えてみる。暗闇の世界はきっと魔界よりも暗くて、それを想像しただけでルークはぶるりと身体を震わせた。
 そんな世界の中にいたら……いや、だからこそきっと自分は彼の顔を知りたいと思うだろう。どんな顔立ちをしているのか、短くなった髪の毛はどう言う手触りなのか。
 自分が世界に生まれさせた我が子の顔かたち。色は分からなくても、触ればかたちは理解することが出来る。そのくらいなら、ルークにも理解することは出来た。
 だから、少年は小さく頷いた。

「……ん、いいぜ」

 顔に触れさせると言うことは、ある意味生命をその手に委ねると言うことでもある。それでもルークはジェイドの手が届く距離にまで歩み寄り、グローブを外したその手を取って自分の頬に触れさせた。

「ありがとうございます。それでは、失礼しますね」

 壊れ物を触るように、そろそろとジェイドの指がルークの肌をなぞる。つい、と滑らせた指先に引っかかりを覚えて、「おや」とジェイドは小さく首を傾げた。

「肌が少し、荒れているようですね。初めての旅で、苦労させてしまいましたか」
「そりゃまあな。海あり山あり砂漠あり魔界あり、だもんよう」

 軽く指先で触れられただけで肌の状態を看破され、ルークは思わず頬を膨らませた。ぷに、とジェイドがその頬を指先でつついたのは、弾力を確かめるためだろう。

「ああ、でも貴方は若いですから、きちんと栄養を摂って眠る生活を送ればすぐに戻りますよ」
「……飯はちゃんと食ってるよ」

 膨らせっぱなしの頬をふにふにとつつき続けるジェイドに、少年は不機嫌な口調で言葉を返す。くすり、と微かな笑い声がジェイドの口から漏れた。

「貴方、確か好き嫌いが多いでしょう? 育ち盛りなんですからいろいろな栄養を摂らないと、年を取ってから苦労しますよ?」
「う。ジェイドだって、嫌いなものあるじゃんか」

 父親と言われてもおかしくない年齢の男性にたしなめられて、思わず口答えをしてしまうのは子どもの証拠と言われても致し方ない。それがおかしいのだろう、くすくすと笑い声が吐息に紛れて聞こえた。

「私はもう成長が止まっていますから。それに、嫌いと言っても食べるときはしっかり食べているんですよ。変な話ですが、味や好みよりも栄養を優先した思考になってしまっていて」

 元々あまり面白みが無く合理的な思考を持つジェイドであるが、それが食にも及んでいると聞いてルークは目を丸くした。屋敷に軟禁されていた7年の間、楽しみと言えばヴァンとの剣術の稽古やガイとの会話、そして食事くらいしか無かった少年にとって、味覚や好き嫌いを基準にしない食事の選択と言う考え方はどうにも理解出来ないものなのだろう。

「……はー、そう言うもんなのかね」
「ええ。面白みの無い考え方で済みません」

 頬を弄っていた指が離れ、ルークの顔はジェイドの掌に包まれた。そのままじっと手を動かさず、ジェイドは見えない目でルークを見つめている。

「いや、俺から見ると結構新鮮だなーって思う。でも、嫌いなもんは嫌いなんだよなぁ」
「子どもだからと言って、わがままはいけませんよ?」

 あくまでも穏やかな口調のまま、ジェイドはたしなめた。瞬間、彼の手の中で少年が頬を膨らませたのが圧力と感触で分かる。

「誰が子どもだよ」
「7歳は子どもですよ。私が妻を娶っていれば、その年齢の子がいてもおかしくはありません」

 不満げな少年の言葉を苦笑混じりに返してジェイドは、柔らかい頬を軽くさする。それから片手を離し、指先でそっと瞼を辿った。

「目は……少し目尻が下がっているようですね。優しい眼なんでしょう」
「うん、少し垂れ目。優しい眼なんて言われたこと無いなあ」
「そうですか?」

 少し考えながら言葉を漏らしたルークの言葉に、ジェイドは首を傾げた。視覚を持つ者から見るとルークの目は優しく見えないのだろうかと思考を巡らせつつ、彼の指は瞼から鼻筋、そして唇を辿る。

「鼻筋は真っ直ぐ通っていて、口元は引き締まっていて……ああ、とても整った顔立ちですね。不機嫌な表情で無ければ、見ていて心地の良い面差しなんでしょう」
「そ、そっかな?」

 掛け値の無い褒め言葉に、思わずルークの顔の温度が上がる。微妙な温度変化に気づき、目を瞬かせたジェイドの『視界』から逸れるようにルークは、ついと視線をあさっての方向に向けた。
 見えないことは、分かっているけれど。

「そんなに褒められると、照れるな」
「ふふ。女性に人気のありそうな顔ですね、きっと」

 自身の顔を伝うジェイドの指の感触が、ルークには全く不快に思えない。けれど、彼の口から流れ出た言葉にはつい頬を膨らませた。

「えー、顔だけ?」
「中身はわがままお坊ちゃまですからねえ。最近は成長しましたけれど」

 くすくすと微笑むジェイドの顔を、ルークは視界の端で捉えた。視線を戻し、その穏やかな笑顔を真っ直ぐに見つめるとジェイドは、まるでそれを待っていたかのように少年の髪に自分の指を絡める。ゆっくりと手を降ろすと、短い髪は細い指にまとわりつくこと無くさらりと流れた。

「髪は手入れが行き届いていますね。色はキムラスカの王族ですから赤くて……貴方の髪はきっと、燃えるような明るい赤でしょうか。夕焼けの空のような……違いますか?」

 指先で数本を弄びながらジェイドが尋ねる。枝毛の確認をしているのかも知れないが、ルークの髪は短くなってからこっち、女性陣が好んで手を入れるためにほとんど傷みが無い。髪が長い頃は人付き合いの仕方が酷過ぎて、ほとんど人を寄せ付けることが無かったからなのかも知れないが。

「違わないよ。俺、レプリカのせいかアッシュよりも髪の色、薄いんだ。アッシュは真紅って言うのかな、結構深みのある赤で……ええと、色の感じは分かるんだよな?」

 口頭で色を説明してしまってから、ルークは慌てて尋ねる。少年が狼狽えているのが分かったのか、ジェイドは苦笑を浮かべつつゆっくりと頷いて答えた。

「ええ。ずっと昔になりますが、見えていた頃のことは覚えていますから」
「そっか」

 自分の説明をジェイドが理解してくれていたことに、ルークはほっと一息をつく。再び少年の髪の中に差し込まれた長い指の感触が、どこか心地良い。
 顔の位置が分かっているせいか、ジェイドの目はまっすぐルークに向けられている。見えていないことが分かっていても、間近に端正な顔があることでほんの少し少年の頬が火照った。
 ルークの顔の温度が上がったことに気づいたのか気づかなかったのか、ジェイドは少し思考を巡らせるような表情を浮かべた後唇を動かす。

「……そう言えば、以前は伸ばしていたんですよね。どこまであったんですか?」

 今はもう、うなじに掛かる程度にまで短くなっているルークの髪。ジェイドと巡り会った頃にはその髪は長く伸ばされていたけれど、その頃をジェイドは知らない。ほとんど触れることも無かったせいで、『髪が長い』と言うことは知っていても『どれだけ長いのか』は知らなかったのだ。


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