不可視の残陽

「えーと……腰くらいまでかな。結構ラムダスとかにも文句言われたんだけどさ、あまり髪伸ばすと先の方傷むからって」
「腰ですか……生まれてからずっと伸ばしていたのでしょうね」

 長さを聞かされて、ジェイドは脳裏にその頃のルークの姿を再構成してみる。当時の髪型までは再現出来ないけれど、それでも初めて会った時この少年が取っていたであろう姿は何となく把握することが出来た。
 そして、そこまで長い髪だとどうしても気になることがある。自身、そこまで伸ばしていた訳では無いがピオニーや部下たちが気に掛けてくれていたのは、その質。

「手入れの仕方にもよりますが、腰まであったのでしたらさすがに、毛先は水分が無くてぱさぱさだったのではありませんか?」
「あー、それはある。あと……後ろだけじゃ無いんだけど、毛先の方色が抜けちゃっててさ。だから先の方だけ金髪だったんだぜ。やっぱレプリカだからなのかな……」

 自分の短い髪を指先で摘んで苦笑しつつ、ルークは僅かに目を伏せた。自身が複製体であることに引け目を感じてしまっている幼子の気配を敏感に察知して、ジェイドはその頭をゆっくりと撫でる。

「傷んだ髪の色が抜けると言うのは良く聞く話です。ですから、貴方がレプリカだからと言うことではありませんよ。色素の定着が弱いのかも知れませんが、いずれにせよ単なる体質です」

 世界を知らなかったが故に、全ての劣化を己がレプリカだからと言う理由に押し込めてしまうルーク。ジェイドが穏やかに語る言葉は、そんな少年に僅かずつではあるが自信を付けさせて行く。

「……そか。ありがと」

 照れくさそうに頬を指先で掻き、ルークは改めてジェイドの顔を見つめた。彼はルークが自分を見ていることは分かっても、どんな表情をしているかを見ることは出来ない。そのせいなのか、ジェイドはゆっくりとルークの頬に手を戻し、ゆるりと撫でながらぽつんと呟いた。

「一度で良い。貴方の顔を、この目で見てみたかった」
「え?」

 こぼれ落ちた言葉の儚さに、ルークははっとした。
 真紅の瞳が、じっと自分の顔を見つめている。本来ならばそれだけで叶うはずのジェイドの願いは、恐らく未来永劫叶えられることが無い。

「愚か、ですよね……私がこうなったのは自分の過ちのせいなのに、今まで悔やむなんてことも無かったのに……今になって、あんなことをしなければ良かったなんて考えている自分がいる」

 ジェイドが泣いたところを、ルークは見たことが無い。だが、今彼の目の前にいるジェイドは涙こそ流していないものの、それは確実に『泣いている』と言える表情である。

 ああ、この人は今、悲しいんだ。

 そう気づいてルークは、頬に当てられたままのジェイドの手に自分の手を重ね合わせた。

「……俺も、あんたの目で俺の顔を見て欲しかったな」

 そうしたらきっと、今とは違うジェイドの感想が聞けたから。ジェイドが自分の目で見た、ルークの感想を。
 だけど、それは叶わないことだからルークは、軽くジェイドの手を握る。すり、と頬をすり寄せて少年は、精一杯笑って答えた。

「でも、見えないもんはしょうがないさ。好きなだけ触ってくれよ、それで俺の顔が分かるんなら」
「……はい。ルーク」

 光を宿さない瞳を細め、ジェイドは少し哀しげに笑った。彼にはきっと、ルークが瞳を潤ませているのを必死で我慢していることは分からないだろう。もっとも彼は、気づいていても口には出さないのだけれど。


 食堂までたどり着くと、テーブルの上にはすっかり食事の準備が整っていた。ちょうど椅子から立ち上がったところらしいナタリアと、サラダの載った大きな器を抱えてきたアニスがルークたちに気づき、視線を向ける。

「あら、カーティス大佐。今お迎えに行こうと思ってましたのに」
「やっぱり行ってた〜。ルークってばずるいなあ、もう」

 ナタリアはいつものようにおっとりとした笑みを浮かべて彼らを迎えたが、対照的にアニスはぷうと頬を膨らませる。イオンの側仕えであることもあり、アニスがジェイドを迎えに行く頻度が低いのが原因だろう。

「ルークもガイも、いつの間にかいなくなっているんですから。ああそうそう、アニスが『てめーら後で覚えとけよ』って言ってましたよ?」

 ちょこんと椅子に座っているイオンが、にこにこ笑いながら自身の守護役である少女の声真似をしてみせた。途端アニスがサラダボウルを取り落としそうになり、慌てて抱え直しながら顔を引きつらせる。

「きゃーイオン様、聞いてたんですかー!?」
「ちょっと聞こえただけですよ。それに、僕だってジェイドを迎えに行きたいなあとは思っていましたから」

 青ざめた顔のアニスに、イオンはくすりと肩を揺らす。身体があまり丈夫で無いイオンは、それを気に掛けるアニスの意向もありその行動はのんびりとしたものだ。そのせいもあってか、『ジェイドを迎えに行く』習慣が根付いてからイオンがその役を引き受けた回数は数えるほどしか無い。

「次に機会があれば、僕たちが行きましょうね。アニス」
「はぁい。次はアニスちゃんがイオン様と一緒にお迎えに行くんだからね、予約〜」
「あ、ああ、わ、悪かった。じっ次回は頼むから、な、な、にじり寄るのやめてくれ〜〜〜」

 少年導師の言葉を受けて、気を取り直したのか守護役の少女はびしりと人差し指を立てた。ガイににじり寄って行くと、金の髪の青年は慌てて後ずさりする。その足音と台詞を耳にして、彼の女性恐怖症は相変わらずのようだとジェイドは苦笑を浮かべた。その足元で、空色のチーグルが楽しそうにくるくると回る。

「みゅみゅ。ボクもジェイドさんのお迎えに行くですのー!」
「お前はいつもジェイドの膝独占してるだろうが。それで満足しやがれ」
「みゅ〜……」

 主と崇めるルークに抱き上げられ、額をつつかれてミュウは大きな袋状の耳をしょんぼりと垂れ下がらせた。確かにこのチーグルは、休憩時などにジェイドの膝の上にいることが多い。最初の頃は、その光景を見てうっとりと目尻を下げているティアを正気に戻すのに苦労したことが何度かあった。さすがに食事の時は、視覚を持たないジェイドの邪魔になるからとミュウはルークやティアが引き取るのだけれど。
 サラダをテーブルに置いて、アニスが足音も軽く駆け寄って来た。ジェイドの腕を取りながら見上げると、その気配に反応したのか彼も顔を向けてくれる。この敏感な反応のせいもあり、ルークは初対面からしばらく経つまでジェイドが視覚を持たないことに気づかなかった。僅かに逸れている視線も、掛けている眼鏡のせいかさほど気にはならない。

「んーでもこれは良いよね。たーいさー、お席まではアニスちゃんが案内しますぅ♪」
「おやアニス、ありがとうございます」

 くい、と軽く腕を引くアニスにジェイドはふわりと微笑んだ。
 子どもたちと旅をするようになってからこんな反応を見せるようになったのだと、幼馴染みでもある皇帝は口にしたことがある。作り笑いでは無く、心の底からの笑顔を。

「食前酒をお持ちしますわ。席でお待ちになってくださいね」

 アニスを手伝い、ジェイドの背中に手を添えて席まで誘導したナタリアは、そう言い置くと小走りに厨房の方へと去って行った。ガイが引いた椅子に腰を下ろしてジェイドは、はにかむような笑顔を見せる。

「済みません。皆さんには、いつもお手数をおかけしますね」
「旦那にはいろいろと世話になってるんだ。このくらいお安い御用さ」

 彼のすぐ隣に席を取っておいたガイが、青い眼を細めた。彼らにしてみれば通常時にジェイドの行動を手助けすることは、既に当然の日課になっている。
 その代わり、魔物やヴァンの部下たちとの戦闘に突入した場合には例え目が見えないとは言えジェイドがリーダーであり、ルークたちは彼に情報を渡すと共にその指示を受けて戦う。
 それが、今の彼らにとっては当たり前なのだ。

「あ、大佐」

 ナタリアと入れ替わるように、厨房からティアが出て来た。その手には出来たてのサーモンソテーが乗せられた大皿がある。ふわりと湯気が上がる皿からは、美味しそうな香りが食堂中に漂って行く。その皿をティアは、ジェイドの正面にそっと置いた。

「今日は生きの良いサーモンが手に入ったので、厨房の方に頼んでソテーを作って貰ったんです」
「そのようですね。良い香りですよ」

 自身の好物であるサーモンのソテーを目の前にして、ジェイドは満面の笑みを浮かべる。ほっとしたようにティアも表情を緩め、「良かったです」と頷きながら席に腰を下ろした。彼女が感情表現を不得手としていることは、長い付き合いでジェイドも知っている。だから、こう言った行動が実は純粋な好意から来ていることも理解していた。
 やがて戻って来たナタリアから酒瓶を受け取り、ガイがそれぞれに注いで回った。そうして全員が、それぞれの席に腰を落ち着ける。

「皆さん、揃ったですのー!」

 今日はルークの側にちょこんと座っているミュウが、そうジェイドに教える。小さく頷いて、ジェイドは見えない目で一同を見渡した。恐らくは同行者たちの気配を辿っているのだろう。

「はい。では、いただきましょうか」
『いただきまーす』

 全員を確認したらしいジェイドの一声を合図に、一同は早速食事に取りかかった。


 視覚が無いとは思えないほどスムーズに食事を進めて行くジェイドをちらちらと伺いながら、ルークは少しだけ顔の筋肉を緩めた。
 自分の顔を分かって貰ったことで、彼とは少しだけ距離が近づいたような気がする。
 彼の悲しげな表情を見たことで、もう一歩近づけたような気がする。

 だから、大丈夫だよジェイド。
 あんたがいるこの世界は、みんなで護ってみせるから。


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