白の逢着

 一瞬、激しい風が吹き荒れた。積もっていた雪が巻き上げられ、あっという間にジェイドの視界を白く閉ざす。

「うわっ」

 吹き付ける風を避けるように顔を腕で覆った、その一瞬だけで少年は方向感覚を失う。ふるりと頭を振った後目を開いた時にはジェイドは、自分がどちらの方角から来てどの方向へ向かっているのかも分からなくなっていた。
 たった今の瞬間に天候が変化したのか、少年の周囲は激しい吹雪に見舞われていた。普段なら僅かなりと雪の間に見える街の光も、今ジェイドの元には全く届かない。代わりに雪と風に煽られて音素たちが放つ光が、純白の光景をほんのりと照らし出している。

「……参ったな」

 漏らした言葉の割には、ジェイドの顔に困惑の表情は浮かんでいない。視界が奪われたとは言え、ここはあくまでもケテルブルクの街中にある公園の一角。知らない場所では無いし、ましてや街の外などと言う危険な場所でも無い。
 それに、しばらく待っていれば状況は好転するだろうと言う楽観的な予測を少年は持っている。最悪の事態になっても、金の髪の少年や泣き虫の幼馴染みが探しに来るのでは無いだろうか。
 くるりと周囲を見渡して全方位が白で閉ざされていることを悟った少年は、肩に掛かった雪を払いのけながらつまらなそうにぽつりと呟いた。

「風で吹き飛ばした方が早いかな」

 ジェイドの思考は、自身に可能な行動を主軸に展開される。確かに今の場合も、周囲を舞う白い雪を譜術で消し去ってしまえば話は早い。だが、さすがにそれは躊躇われた。

「風で飛ばすにしろ火で溶かすにしろ、周囲に被害が出るかな。複製すればいいけれど怪我でもされたら僕には治せないし、面倒だなあ」

 もっとも、その躊躇いの原因に周辺への被害の懸念は存在しない。彼にとって世界とは、『破壊されても複製再生すれば良いもの』なのだから。ただ、その複製が少しばかり面倒なだけ。

「……ま、良いか。このくらいなら、しばらく大人しくしていれば収まるさ。変に動いても、体力を消耗するだけだ」

 あくまでもその面倒を回避するために、真紅の瞳の少年は穏便な手段を選択した。そこに、同じ街に住まう隣人たちへの気遣いは微塵も存在しない。
 気遣い、と言う概念そのものが、少年の中には存在していない。存在するとすればそれは、共に住むたった1人の妹に対してだけだろう。だがそれすらも、他人が定義する同じ言葉とは概念を異にしていた。
 壊れたら直せば良い。それはごく自然の道理。
 だが、ジェイドにとって『直す』とはつまり、複製を造り出して取り替えることだった。この年齢で既にこの少年は、譜術を用いて複製品を生み出す技術『フォミクリー』を独自に生み出しており、その譜術の研究に熱心になっていた。
 少年には、理解することが出来なかった。
 そうして生み出された複製品は、オリジナルと同じ外見を持ちながら別の存在であることを。

 そのことに彼が気づくには、20年以上もの歳月が必要となる。


 ひときわ強く、風が吹いた。
 一瞬腕で覆った顔を上げたとき、ジェイドはそこにあり得ない色彩を見た。
 白い雪の中に、ぽっかりと佇んでいる青。
 マルクトの軍服とも見えるそれは、けれど細部がかなり異なっている。ここまで制服を改造している軍人を、ジェイドは知らない。
 ケテルブルクは戦争を忌避する金持ちが逃げて来るリゾート地であり、軍人は港や街に常時部隊が駐留している。だから、軍服自体はそう珍しいものでも無い。ジェイド自身、危険だと言われている雪山にこっそり登ったことがばれて怒られたことも何度かある。
 だがそんなジェイドにも、今目の前にいるこの軍人は初めて見る姿だった。
 風の中を舞う、長く伸ばされた髪。ジェイドの持つそれと同じ色は、色と温度の無い世界にどこか暖かみを与えている。
 そして何よりも、眼鏡を透かして見えるその人物の瞳。
 ジェイド自身以外に持つ者を知らない真紅の、だが彼よりもずっと優しい光を持つ瞳が少年をじっと見つめていた。

「……あんた、誰」

 整った顔立ちに感情を乗せること無く、ジェイドは尋ねる。そこに、年長者への敬意は微塵も存在していない。唐突に現れたこの軍人と思しき男に対し警戒心を抱いているのは当然のことだが、それを差し引いても少年が僅かなりとも尊敬の念を抱く相手は、ゲルダ・ネビリムただ1人だけだから。

「名は、伏せて置きます。意味がありませんから」

 形の良い唇から漏れたのは、適度な音程の涼やかな声。激しい風が吹き荒れているはずのこの場所で、その声は確かにジェイドの耳に到達する。
 どうしてかそれを不思議に思うことも無く、少年は淡々と言葉を続けた。

「何の用? 任務で来たわけでも無さそうだね」
「貴方に、会いに来たのでしょうね」

 自身の行動をまるで何かの憶測のように語るその口調は、語尾の違いに目を瞑ればジェイドと良く似ている。だがそれにも気づくこと無く少年は、彼を僅かに細めた眼で睨み付けた。

「僕に?」
「ええ、貴方に。ジェイド・バルフォア」

 彼が呼んだ自身の名を、ジェイドは冷たい表情で聞いている。その間にいつの間にか、彼は目の前まで歩み寄って来ていた。
 すらりとした長身と、端正な顔立ち。この男は軍属ではあっても戦に出るような人物では無い、とジェイドは思う。どちらかと言えば後方任務……そう、研究者。
 彼はきっと、その笑みの下に冷酷な思考を秘めているのだろう。軍属の研究者と言うものは、その対象に感情移入していては任務が成り立たないのだから。

 それなら、僕と同類なんだろう。ピオニーならきっと、そう言うな。

 ジェイドは、自分の思考に関する方向性を一般人と比較したことは無い。単に意味が無いと考えているからであるし、代わりに浅黒い肌の皇子が考えてくれるからでもある。彼によれば自分は、その能力や思考などが研究者向きだと言うことらしい。第三者から見てもそうなのであれば、やはり自分は研究者に適した人間なのだろう。
 ぼんやりと考え事をしているジェイドに、目の前の軍人はほんの僅か首を傾げた。そうして、涼やかな声で問う。

「道に迷いましたか?」
「見れば分かるだろ。この吹雪の中じゃあ、ヘタに動くより収まるのを待っていた方が安全だ」

 ぶっきらぼうな少年の答えに、男は苦笑を浮かべる。軽く肩をすくめながら「そうですね」と頷いて、それからくるりと周囲を見渡した。相変わらず真っ白な風景が広がり、ややもすれば上下の感覚すら分からなくなりかねない。もっともジェイド自身、そして目の前の男も恐らくは、自分の置かれた環境に何の恐怖も抱いていないのだろうけれど。

「凍えませんかねえ」
「譜術で火くらい起こせるよ」

 あくまでも感情を抑えた声で、ジェイドは男の言葉に応える。と、レンズの向こう側でほんの少し、真紅の瞳が見開かれた。だがすぐに、男はふわりと眼を細める。

「雪で見えませんが、ここは街中でしょう。建物を燃やさないでくださいね」
「分かってる」

 たしなめられて少年は、思わずふて腐れた声を上げた。その丁寧な言葉遣いが、やたら勘に障ったのかも知れない。こういう言葉遣いをする人間に限って、腹の中にはどす黒いものを持っているものだ。
 だから、この男は信用出来ないし、するつもりも無い。
 自分と同じ眼を持って、怪しすぎるから。

「僕をどこかに連れて行こうとか思わないわけ?」
「……何を言いたいのか分かりませんが、理由も意味もありません。雪除けを理由にしたところで、避難のしようも無いですしね」

 唐突な問いに、少し間があった後平然とした口調で答えが返る。
 年端も行かぬ少年を前にして、この軍人が特に行動を起こさないことをジェイドは不思議に思ったのだろう。問われた軍人の方は、何故そのようなことを尋ねられたのか薄々と感付いているのかも知れない。
 目の前にいる少年が唐突に現れた自分を警戒しているのだと言うことくらい、その目を見れば分かるから。
 故に男は必要以上に近づくことは無く、左の腕を右手で抱えるようにして立っている。ジェイドはそれを、左手に軽い障害があるのだと思った。もっとも、それを確認するようなことはしない。
 無駄だから。

「それに、貴方はここでしばらく待っていれば誰かが来てくれるでしょう?」
「まあね」

 男の言葉に、ジェイドはつまらなそうに頷く。ケテルブルクの街の中なのだから、確かに待っていればネビリムあたりが探しに来てくれるはずだ。見るからにジェイドは子どもだから、保護者がいることくらいこの軍人にも分かるのだろう。


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