白の逢着

 殺せませんでした。
 いえ、殺す意味はもう無い。

 白い雪の向こうに少年の姿が消えた後、ジェイド・カーティスはそっと自分の胸に手を当てた。
 あれは幻だったのだろうかと己に問うが、無論答えが出るはずも無い。
 吹雪舞う故郷の街で目の前に現れた、遠い昔の自分。感情をまるで浮かばせることの無かった、可愛げの無い少年。
 己の目の前に現れた少年は、恐らく既にネフリーの人形を複製してしまっていただろう。つまり、フォミクリーの初期段階はクリアーしていたと言うことだ。
 だから、殺しても意味が無い。いずれはサフィールがジェイドの譜術を研究し、弱点を取り除いて譜業での再現に成功するだろう。
 いや。昔の自分を手に掛ける意味など、ジェイドにはもう存在していない。この世界からフォミクリーが無かったことになってしまえば、愛しい我が子たる朱赤の焔が世界に生まれて来ないのだから。

 出来ないんじゃない。しないんだ。意味が無いから。

 ずきりと、胸の奥が痛む。遠い昔から自分が積み重ねて来た過ちのひとつを、今更ながらに見せつけられたからだろうか。

 ああ。
 昔の私は、こうでしたね。
 自分には何でも出来ると思っていたから。
 出来ないことは出来ないのでは無い、意味が無いからしないだけなのだと自分に言い聞かせて。

 これから20年を越える長い時間をかけて、ネビリムの死や数々の体験を経てやっと『彼』はそれが過ちであると言う結論に辿り着くことになる。遅ればせながらゆっくりと自分の中にある感情を育て、少しだけ普通の人間に近づいて。
 それを教えてくれたのは、自らが生み出した技術によって誕生した朱赤の髪の、複製体の少年。
 彼を生み出した技術を、ジェイドは何度も葬り去りたいと思った。けれど今は、そうで無くて良かったとほんの少しだけ思う。

「傲慢かも知れません。それでも、私がいなければ──フォミクリーが無ければ、ルークは誕生しなかった」

 ルークが生まれていなければ、ジェイドは恐るべき死霊使いとしてその一生を終えていた。
 本来のルークはアッシュと名を変えること無く、鉱山の街で死んでいた。
 キムラスカはマルクトの大地を蹂躙し、一時の栄華に酔う。
 滅びたマルクトで生まれた疫病はやがてキムラスカに入り込み、彼らの生命をも奪って行く。
 そして……惑星オールドラントは障気によって破壊され、宇宙の塵となって消えていた。

 彼らに未来を与えてやれることで、ほんの少しだが胸の奥に凝っている罪悪感は薄れるような気がした。自分に感情をくれた、朱赤の髪の少年に。
 ただ、ジェイドの感情を育ててくれた短い髪のルークはもういないのだけれど。
 心を壊したルークを失い、彼に未来を手渡すためにジェイドは5年の歳月を駆け戻って来た。『未来の記憶』のおかげで世界はほんの僅かずつ預言を外れ、ジェイドが『知る』よりも更に明るい未来へと進みつつあるように思える。
 こことは違う世界でジェイドの犯した罪を、彼の心の中に残したままで。
 ふと空を見上げ、ジェイドは問う。

「ローレライ。これは、貴方の悪戯ですか?」

 答えが返って来ないことは、最初から分かり切っていた。第七音素を操ることの出来ないジェイドには、第七音素意識集合体の声は聞こえないのだから。

「心配しなくても、私はルークを守ります。そのために私は戻って来たのですから」

 そのためにだけ、自分は『今の世界』にいるのだから。

「あー! ジェイド、いたー!」

 朱赤の焔の、元気の良い声が届いた。振り返ったジェイドの視界に、その焔は色鮮やかに燃え上がる。揺れている毛先の金は、『記憶』の世界ではとうの昔に見られなくなっていた色だ。

「……ルーク」
「みゅー! ジェイドさん、探したですのー!」

 僅かに目を見開いたジェイドの脚に、この雪の中を必死に走って来たのだろうチーグルの仔が飛びついて来た。思わず抱え上げ、空色の毛皮に降り積む雪を軽く叩いて落としてやる。ぶるりと頭を振るって自分でも雪を落とし、ミュウはジェイドの顔を確認するとにこーと無邪気に笑った。
 ルークも、やっとのことでジェイドの目の前に辿り着く。そうして、彼の顔をぐいと睨み付けた。

「ったく、どこ見てもいねーから心配したんだぞ! いくら故郷だからってー!」
「……済みませんでした」

 朱赤の髪にも、白い雪の欠片がいくらか積もっている。それを払い落としながらジェイドは、謝罪の言葉を口にした。この子を知らなかった頃の彼とは違い、感情の籠もった言葉を。
 主に続けとでも言わんばかりに、聖獣もぺしぺしと小さな掌でジェイドの腕を叩きながら声を上げた。

「良かったですのー。ジェイドさん、寒くて震えてたらどうしようかと思ったですのー」
「ミュウも済みません。余計な気遣いをさせてしまいましたね」

 小さな頭を撫でながらジェイドが答えた言葉に、焔と獣の視線が同時に鋭くなった。握った拳を振り上げて、不機嫌そうに文句を言って来る。

「余計じゃ無いですのー!」
「そうだぞー。何でお前に気を使うのが余計なんだよ、ったく!」

 ジェイドの言い方がよほど不満だったのか、ミュウは自分を抱いてくれている腕にがっしりとしがみついた。ルークも空いている腕にやはりしがみつき、冷え切った青い腕を温めるように頬をすり寄せる。
 ぽかんと自分を見つめている真紅の視線に気がついて、ルークは顔を上げた。不機嫌そうに眉をひそめ、ジェイドの腕をしっかりと抱え込んだまま無理矢理歩き始める。

「ほら、何ぼけっとしてんだ! みんな心配してるんだからな、さっさとホテル帰るぞ」
「……ええ。帰りましょう」

 そう言えば、この子どもたちは自分を探しに来てくれたらしい。それを思い出し、ジェイドも足を進めることにする。己はこの寒さなど慣れているけれど、子どもたちに風邪を引かせる訳にはいかない。
 同じことを、小さな聖獣と朱赤の子どもも考えていたようだ。ミュウが大きな耳をぶるりと振るい、ジェイドの顔を見上げて提案して来る。

「みゅ〜。ジェイドさん、身体冷え冷えですの〜。ホテルに帰って、お部屋でぬくぬくするですの〜」
「先に風呂入ろうぜ風呂。その方がきっと暖まるし!」

 ルークも負けじと口を挟んで来た。ふたりの顔を見比べてジェイドは、苦笑しながら少しちゃかすような言葉を返す。彼らが純粋に、自分を案じてくれていることが分かっているから。

「そうですね。年のせいか、冷えて腰に来ちゃってますよ」
「やっぱりかー。ほんとに無理すんなよ?」

 楽しそうに笑う炎の色を髪に宿した少年と、大きな目で見つめて来る空の色を全身に纏った聖獣の仔。彼らと共に歩みを進めながらジェイドは、心の中で呟く。

 どうか、この子がこのまま幸せに生きて行けますように。
 私の全てを賭けて、私を人間にしてくれたこの子を護りましょう。

 私は、そのためだけにこの世界にいるんです。


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