紅瞳の秘預言02 出発

「わっ悪かったな! だから気をつけるって言ってるだろっ!」
「これは失礼を。本当に気をつけてくださいね」

 普段の笑顔のままで、ルークをかわす。それから、ふと思い出したかのように先ほど棚上げにしていた問題を引き出す。

「……ところで、先ほど誘拐などとおっしゃっていましたが」
「知るかよ。7年前に俺はお前らに誘拐されたんだ」

 む、と頬を膨らませるのは、機嫌が悪くなったサインとしてはかなり分かりやすい類のものだ。全員の視線がルークに集中したのを場の空気だけで確認し、ジェイドは言葉を返す。

「……まあ、確かにファブレのご子息ならばマルクトが荷担していてもおかしくない、とは思われそうですね。あいにく先帝の時代の話ですし、私は聞いたこともありませんが」
「けっ、言ってくれるぜ。そのおかげで俺はそれまでの記憶、すっかり失くしちまったんだからな! 10歳にもなって赤ん坊に逆戻りだぞ!」

 吐き捨てるようなルークの叫び。
 室内は、一瞬にして静まりかえった。

「──」

 お前が眼鏡の位置を直すのは、表情を読まれたくない時の癖だろ。

 ピオニーにそう指摘されたのはいつだったか。
 指先でブリッジを押し上げてしまってから、ジェイドはそのことに気づいた。

「あ、赤ん坊っ? どういうこと、それ?」

 純粋な疑問からだろう、そう尋ねたのはアニス。失礼ですよアニス、と止めかけたイオンの言葉を遮るように、ルークの答える声が漏れる。今度は小さく、呻くような声。

「だから、ほんとにすっかり失くしてたんだよ。思い出も、歩き方も、言葉も──親の顔も」
「……!」

 頭を抱え込み、テーブルに突っ伏すルーク。ミュウが服の裾を掴み、心配そうにじいっと見上げている。ティアが口元を抑え込んでいるのは、ここで何か声を掛けても全て逆効果にしかならない、と思っているからだろうか。
 おろおろしながらアニスが、そっと声を掛けた。

「ご、ごめんなさいっ。あたし、そういうわけじゃ……」
「……んや、いいや。悩んでても治るわけじゃねーしな」

 髪を掻き上げながら、ルークが身体を起こす。吹っ切れたような表情を浮かべている顔をかすめ、さらりと流れ落ちる朱赤の髪がテーブルの上に美しい模様を描いた。

「まあそういうわけなんで、俺がまともに記憶あるのはここ7年分くらいだ。誘拐ってのも人づてに聞いただけなんで、実感なんざありゃしねえ」

 おまけに、とルークは言葉を繋いだ。誰かに吐き出してしまいたかったのだろうと感じ、ジェイドは小さく頷いて先を促す。

「記憶にある7年は、全部屋敷の中のことだけだ。俺、屋敷の外……正確には敷地の外だな、出たことねえんだよ。伯父上……国王陛下の命令らしいけど」
「なるほど。それならば分かりますね……屋敷の中でしかいられないのであれば、自分が金を払って物を買うという知識など必要ありませんから」

 ジェイドが口を添える。それでやっとティア、アニスやイオンもルークの偏った知識について理解出来た。
 子どもは、小さな箱庭の世界で生きるだけの、最低限の知識しか与えられなかったのだと。

「うん。……そうだよな、ここは屋敷の外だ。俺の知らないことばかりの世界だ」

 頷くルークに、ジェイドは薄く笑みを浮かべた。その表情に気づいたアニスが一瞬ぽかんと見とれるほどの、優しい笑みを。が、その表情はすぐに消え、アニスが気づいた時にはジェイドの笑みはいつも通りのものに戻っている。

「分かっていただけてありがたく思いますよ。では、……そうですね、その世界に少しばかり貢献してはいただけないでしょうか?」

 よろしいか、と視線を向けたイオンは、淡く微笑んで頷いてくれた。一方、話を持ちかけられる形になったルークは目を丸くしている。

「貢献って、何がだ?」
「ご協力いただけるまで詳細をお話しするわけにはいかないのですが」

 前置きをして、ジェイドは話を進めた。『記憶』と同様の展開を進めたいこともあるが、それを除いてもルークという存在はあの皇帝より託されている任務には必要だ。
 あくまでも『存在』が、なのだが。

「我々は、マルクト皇帝ピオニー9世陛下の勅命により、キムラスカ王国に向かっています」
「キムラスカへ? こんな艦を使ってなんて、まさか宣戦布告ですか!?」

 ジェイドの言葉に、ティアが顔色を変える。確かにタルタロスという巨艦を使用してマルクト軍人がキムラスカへ向かう理由としては、それが一番適切であろう。
 もっとも、マルクト側の意図としてはイオンの保護と安定した航行速度、なおかつ本来の用途とは異なる用途に使用されるためのカモフラージュ。そのため、現在の乗員は本来よりも少なく140名ほどでしかない。
 それも、今は。

「違いますよう、その逆です」

 ウィンクしながらアニスがティアの言葉を否定する。ちちちと人差し指を振って、余裕の表情だ。もっとも彼女は導師守護役として任務内容を知っているのだから当然だが。

「宣戦って……キムラスカとマルクトって、そんなに仲悪いのか? 休戦してるってのは聞いたけどさ」
「少なくとも、今の皇帝陛下が即位なさるまではかなり。今も落ち着いているとは言い切れません。あくまで休戦であって、終戦しているわけではないので」

 ルークの疑問にジェイドは、皮肉を挟むこともなく正直に答える。キムラスカの王都バチカル、それも上層に構えられているファブレ家の内側だけで生きることを強制されていた子どもに、わざわざ遠い隣国の話をする者はいない。
 何も知らされないとは、そういうことなのだ。

「そうなのか……それで、俺に何させたいんだ?」

 ジェイドの簡潔な説明に納得したのか小さく頷いて、ルークは質問をぶつけてくる。無論、これは想定内だ。

「先ほども申しましたとおり。ご協力をいただけない場合は詳細はお話し出来ないんです。内容をお話しした上で力添えをいただけない場合、貴方の身柄はこちらで抑えさせていただかなければならなくなります」
「それ、事実上の強制って言わねえか? それに、てめーらに都合良すぎるじゃねえか」
「まあ、そう取られても結構です」

 己の知識の働く範囲では、ルークはかなり賢い。それが分かっているからこそ、ジェイドは知識を広げさせるべく分かりやすい説明を欠かさないように気をつけていた。
 この少年が、少しでも良い未来を手に入れられるように。

「済みません。これには僕の存在も絡んでいるんです。ですから、ジェイドも慎重になってくれているんですよ」

 イオンもそれをどこかで察知しているのか、ジェイドに助け船を出すように口を挟んでくれる。にこっと無邪気に微笑むイオンの表情に向き合っていたルークは、少し意識を奥に沈めた後、顔を上げた。

「……まあ、こっちも助けて貰ったしな。それに、さっきのアニスか、の言い分からすりゃ戦争止めるために行くんだろ? そんくらいなら、力貸してやってもいいぜ」

 腕を組んで小さく頷いたルークは、それでも少しふて腐れている。半ば強制的に従わされるわけだから、ジェイドにも気持ちは理解出来た。

「ちょっとルーク、態度大きすぎるわよ」
「いいだろ、ちょっとくらい」

 その態度をたしなめようとしたティアには、ルークは「分かってねえなあ」と言わんばかりのじとっとした目を向けた。そうして……彼女が、自分を守る立場であることを思い出してか、こう切り出した。

「そういうティアはどうなんだ、この話乗るのか?」
「え?」

 話を振られ一瞬絶句したティア。だが、そこから思考を立ち上げるのも、思考を完了させるのもほんの数瞬で終了させる。
 彼女はこくりと頷いて、答えた。

「……そうね。少なくともこの艦がキムラスカに向かっているのは確かみたいだし、お世話になればそれだけ安全に帰してあげられると思う。身分を隠す必要もないものね」

 彼女の意見にルークが満足したのか、それはジェイドには分からない。だが彼に視線を戻したルークの顔が既に結論を出している表情であることに、ジェイドは胸をなで下ろした。

「……ってことだ」
「助かります。ファブレ公爵と言えばホド戦争で名を知られた人物、マルクト国内にはまだ当時の怨みを胸に抱く者も多く存在しますのでね」
「…………あー、何か聞いたことある」

 これは事実。
 ホド戦争において、戦争の名にその地名を記されたホドの領主ガルディオス伯爵家を襲撃し滅ぼしたのは、ルークの『父』にしてファブレ公爵家当主クリムゾン・ヘアツォーク・フォン・ファブレ。
 勝利の証として持ち帰られたのはガルディオス伯の首級とその宝剣。剣は今、公爵家に高々と飾られているはずである。外界のことはほとんど知らないルークも、父の戦功であるそれらの事実を邸内のどこかで話を聞いていてもおかしくはない。
 ガルディオスの遺児である金の髪の青年は……そろそろ、消えたルークを捜してマルクト入国を果たしている頃だろうか。

「まあその話はおいおい」

 もっとも、この話を今取り上げるべきではない。まだこの世界では、ジェイドを含めたマルクトの人間……いや、キムラスカも含めてそのほとんどはガルディオスの遺児が生存していることすら知らないはずなのだから。
 故にジェイドは、会話の内容を本来の話題に戻すことにする。


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