紅瞳の秘預言04 脱出
「……彼は、7年前以前の記憶がありません。そして、記憶のある7年間はずっとバチカルの公爵邸に軟禁されていました。これは分かりますね」
「え? ええ」
突然説明を始めたジェイドに、ティアは眼を丸くした。もっとも内容は聞いたことのある話だったから、小さく頷くことで返答に代える。
「そして、自分でお金を出して買い物をすることを知りませんでした。屋敷の中だけで生活している限り、必要のない知識です」
「……?」
訥々と言葉を続けるジェイド。不思議そうに首をかしげるティアをその視界の半ばほどに収めながら、ジェイドはルークの前髪を掻き上げてやった。朱赤の色が少しずつ透け金に変わる髪を、指先で軽く弄ぶ。
「10歳になるより前の記憶を持たない以上、ルークは実質的に7歳の子どもです。その子は、小さな世界の中だけで生きるように育てられたのでしょうね。その一生を、バチカルの屋敷の中だけで生きるように」
「……え?」
吐き捨てるような言葉。その語気の強さと内容の奇妙さに、ティアは半ば呆然とジェイドの顔を見つめた。奇妙な言葉の意味を理解しきらないうちに、ジェイドがさらに言葉を続ける。
「外の世界で生きるために必要な知識なんて、初めから与えられなかったんですよ。この子は何も知らない……自分が何を知らないのかも知らない、全くの無垢として戻ってきた。それをいいことにね」
「なっ……!」
そこまで言われてしまえば、ティアにもルークがこれまで置かれていた環境の異常さが分かる。
何も知らぬ無垢の存在に、必要最低限の知識だけを注ぎ込まれ……周囲の思い通りに作られた子ども。
「そんなことって……だって彼は、公爵家のご子息で!」
「ええ、本来ならおかしいんですよ」
ティアの反論に、ジェイドも頷く。
気がついてみれば、何と異常であったことか。
「公爵子息にして高位の王位継承権を持つ者が、そのような扱いを受けているのはね。屋敷ぐるみ……恐らくは国までもが協力して、彼を洗脳しているようなものです。いえ、記憶がないのを良いことに都合の良いように構築したと言うべきか」
ジェイドは言葉を次々と紡ぎながら、必死に怒りを抑えていた。
手がかりはいくらでもあったのだから。
あの時、誰かが気づいていれば。
自分がその異常に、少しでも気づいていれば。
障気渦巻く魔界の海で、それに気づけぬままあの子を壊したのは、私だ。
自分の胸を自らざくりと抉り、ジェイドは言葉を続けた。
「ですがその異常事態は、ある1つの事項を考慮に入れることで愚かにも成立してしまうんです」
「1つ、ですか?」
「ええ。──預言です」
ティアが息を飲む音が、やけに大きく響いた。
この時点ではどちらかと言えば大詠師寄りの思考を持つティアに、これを告げるのははっきり言って賭けだ。もしかしたら、アニスと組んでモースへ伝えられてしまうかもしれない。
それでもジェイドは、『記憶』の中ではルークに想いを寄せていたティアを信じたいと思っている。そう考えている自分に気づき、ジェイドは僅かに唇の端を歪めた。ルークという存在が『記憶』の中にある経験を通し、どれほど自分を変えたのかが分かったから。そして、きっとティアをも。
故に、ジェイドはさらに言葉を紡ぐ。
「特に上層階級には……毎日の夕食の献立すら頼るほど、預言に依存しきっている人間も多数存在しますからね」
「それは……だって、預言を一度詠んでいただくだけでも、相応のお金がかかるのに」
「資金さえあれば、そうしたい平民の方々も多いようですよ。まあそれはさておき」
この時点でまだ知らされてはいないが、ティアは魔界のユリアシティで育った人間だ。ユリアシティもまた外殻大地の多くと同じく預言は遵守されるものという考えを持つ世界ではあるが、まだこちらに来て日の浅いティアはこの外殻大地で預言がどれほどの扱いを受けているのか、あまり詳しくは知らないだろう。それは分かっていたが……分かっていたからこそ、あえてジェイドは話を続けた。
「例えば預言で、この子を外に出せば何らかの問題が起こると詠まれている場合。当然外には出せません。生かされているのはただ、キムラスカ王家にとって重要な形質である、赤い髪と碧の眼を後世に伝えるため」
一例として挙げたのは、こう考えられてもおかしくないとジェイド自身が組み上げた凡例だ。もっとも、ジェイドが知らないだけで実際にそう言った例があったかもしれない。
そして、形質。
本来の『ルーク』であるアッシュが表向きの任務に就いていないのは、その容姿が一因であろう。『鮮血』と謳われるほど赤い髪を持つ青年が例えばキムラスカの国内を堂々と歩けば、すぐに王家縁の者と知れてしまうだろうから。さらに現在のルークの容姿を知る者……例えばファブレ公爵夫妻やナタリアが、ほんの僅か色が違うだけで同じ姿をしているアッシュを見てしまえば、その正体など容易に知れる。そして、バチカルの公爵邸に住まっている『ルーク』の素性すら。
「もしくは、キムラスカにとって重要な運命を背負っていると詠まれた場合。外に出して害されると、キムラスカの運命すら共に潰えるかもしれません。ならば、その運命の時まで閉じこめて、何も知らない道具として育てるのが容易い」
こちらがジェイドの『記憶』にあった真実。ルークは預言の通りにアクゼリュスで殺され、キムラスカ繁栄の生け贄にされるために生かされている。それは両親も恐らく知っているはずだ。少なくとも、父たるファブレ公爵は。
その繁栄が、実はほんの僅かな間のことでしかない、とこれもまた預言に記されている。そこまではまだ詠まれていないのかも知れないが、愚かなことだ。
「預言を遵守するということは、今のオールドラントではこういうことなんですよ。ティア」
そこまで言ってしまってから、ジェイドが小さく息をついた。ジェイドらしくもない、かなり感情に任せた発言であったそれらをずっと聞いていたティアは、言葉もなく呆然としていた。ルークがまた小さく呻いた声に、はっと意識を取り戻す。
「……さすがに、酷すぎます。いくら何でも、そこまでして預言を守る意味があるのかしら……」
「私も、そう思います」
預言遵守を旨とするユリアシティで育ち、預言遵守を是とするモースの下についた彼女の口からそんな言葉が聞けた。
どうやら賭けには勝ったようだ、とジェイドはほっと胸をなで下ろした。
不意に、「みゅう」と可愛らしい鳴き声がした。2人が声に引かれて視線を下ろすと、朱赤の髪に寄り添う青いチーグルの子ども。
「ええとええとジェイドさん、ティアさんと何のお話してるんですの? ボク、よく分からないですの」
「ああ、済みませんねミュウ」
確かに、今の話はミュウには少々難しすぎるだろう。だが、かえって理解されなくて助かったとジェイドは心の中で呟く。ルークを慕うこのチーグルに、話の内容はあまりにも酷すぎる。
「要するにですね、ルークは今まで外に出たことがなかったので外での決まりをあまり良く知らないのですよ。ですから、もしルークが困っていてあなたに分かるようなことがあるのでしたら、助けてあげてください」
「はいですの。ボク、ご主人様をお助け出来るよう頑張るですのっ」
分かりやすい言葉を選び、ジェイドはミュウに教えた。こくんと頷き、ガッツポーズをとってみせるミュウの愛らしさに、ティアの口から「かわいい……」と言葉が漏れる。ジェイドも確かにそうですね、と言葉にはせずに同意した。
「ええ。それと……そうですね、こちらの方が重要ですね」
少し考えてから、さらに言葉を繋いだ。手を伸ばして小さな聖獣の頭に触れ、グローブ越しに短い毛の感触を楽しむ。
「ミュウ。ルークと、いつでも一緒にいてあげてください。初めて外に出たのですから、きっと心細いと思うんです」
「みゅうっ。当たり前ですのー。ボクはいつでも、ご主人様と一緒にいるですの」
ミュウの純粋な好意が、『記憶』の中のルークをどれだけ救ったかジェイドは知っている。
『知らない』ことを知らぬ仲間との諍いが増えていく、あの旅路の間も。
ユリアシティで、自分も含めた仲間が皆ルークを見放したあの時も。
障気を浄化した後、ルークの身体が音素乖離へのカウントダウンを始めた時も。
ミュウはずっと傍にいて、ルークの心を守っていたのだ。
だから、ジェイドはミュウにルークの心を託すことにした。
自分では、守りきれない。
「う、あ……あっ……?」
またいくつかのうめき声を上げた後、ルークの瞼が動いた。ゆるゆると現れた碧の瞳が、ぼんやりした状態のまま周囲を見回す。
「ルーク?」
「ご主人様っ?」
ティア、そしてミュウが呼びかける。ジェイドは僅かに離れたところから、ルークがのそりと起き上がる様子をじっと見つめていた。軽く頭を振ると、さらさらと朱赤の髪が流れる。
「……あ、あれ。俺、寝てたか……?」
「寝ていたというか、気絶したんですよ。気分はいかがです?」
意図的に、感情を込めない声で呼びかけた。今の感情を言葉に乗せると彼には関係ない怒りか、もしくは今の彼には意味の分からない哀れみが現れてしまうだろうから。
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