紅瞳の秘預言06 創傷

 ぱん、と布を通したせいか柔らかめの破裂音が響いた。音の発生源であるところの両手のひらを合わせたまま、ジェイドが集まった視線の中央ににっこり笑って立っている。足音もせず、気配もさせぬままいつの間にかグレンとは別れていたらしい。

「旧交を温めるのも結構ですが、そろそろこちらの話も聞いていただけませんかねえ?」
「おわっ。そっちの話は終わったのか?」

 慌てて数歩退いたルークが口火を切る。「はい、それはもう」とすっきりした笑顔で答えたジェイドは、くるりと全員の顔を見回した。

「今夜は軍宿舎で1泊して、明日カイツールに向かうことにしました」
「そっか、カイツールまで行けばすぐキムラスカだしな。タルタロスでか?」

 卓上旅行が趣味だというガイが、脳裏にマルクトの地図を広げながら頷いた。街の郊外に置いてある巨大陸艦の名を挙げると、ジェイドは首を振った。ただしガイの期待していた縦ではなく、横に。

「いえ。神託の盾の襲撃で結構ダメージを受けましたので、部下共々戻すことになりました。ここからカイツールまでは徒歩で向かいます」
「えー残念だなー。もうちょっと中見てみたかったんだけど!」

 セントビナーにたどり着くまでの短い間、寝る間も惜しんで艦内を見学して回った譜業好きの青年は、心底残念そうに地団駄を踏む。その横で、ミュウをティアにもぎ取られる形になったルークがげっそりと肩を落としていた。

「うぇ、歩くのか?」
「そうなりますね。……そうか」

 ルークの問いに頷いてから、ジェイドは軽く眼を見張った。口元に手を当て、ほんの僅か思考を巡らせる。そうした後で見返したのは、朱赤の髪と緑の髪。

「ルーク、イオン様、後で靴の調子を見ておきましょう。シューフィッターを呼びます」
「え? 何でだよ」

 きょとんとジェイドを見返したルークの横で、ガイがぽんと手を打った。

「あー。徒歩で長距離移動したことないからな、ルークは。靴擦れでもしたら大変だ、屋敷の中走り回ってるのとは訳が違う」

 厳密にはタタル渓谷で目覚めてから辻馬車に乗るまでの間を徒歩で移動しているのだが、それをガイは知らない。が、それはともかくあまり長距離の移動に慣れていないルーク、そしてイオンのことをジェイドが気遣っているのだとガイにはすぐに理解出来た。

「イオン様もそんなに長く歩きませんものね。お言葉に甘えちゃいましょ」
「そうですね。お願いします、ジェイド」

 ガイの言葉に納得したアニスも頷き、イオンもにっこり微笑んで同意した。ティアは特に不満があるわけでもない表情……というよりはミュウを胸に抱いてご機嫌のようだ。残る1人……朱赤の髪の少年だけが頬を膨らませている。

「って、歩くの決定かよ! だりー」
「まあ、仕方がない面もあるんですよ。前にガイも言っていましたが、タルタロスで国境まで向かうと恫喝外交と取られる恐れがありますからね。マルクトとしては穏便にことを進めたいんです」

 ジェイドが丁寧に説明をし直す。が、ルークはやはり不満らしくジト眼で自分より高い位置にある端正な顔を睨み付けた。

「なら馬車だってあるだろ」
「それもそうですね。あるようでしたら手配しておきますが……神託の盾に街道を抑えられたら終わりですよ?」
「むっ……」

 人差し指を立てられての説明に、ルークの口は閉じられた。不満は不満だが、これ以上何を言ってもこの飄々とした態度を崩さぬ死霊使いに敵うとは思えない。
 と、不意にルークの脳裏に浮かび上がった記憶があった。金髪の育て親に視線を向け、その記憶を確認することにする。

「……そういや、カイツールまで行けば師匠に会えるかもしれないんだよな。ガイ」
「ん? あー、そうだな。カイツール拠点にルーク捜すって言ってたから」
「はは、やりぃ」

 急に問われたガイも、少し前の記憶をさらって返答を出す。と、途端にルークの表情が明るくなった。徒歩で遠距離を歩き通す苦労よりも、その先で待っていてくれるであろう師の存在が少年にとっては大きいものなのだ、とガイとジェイドには思えた。

 ──まあ、旅券を持ってきていただけるのですから助かりますが。

 ジェイドが心の中でぼそりと呟いた言葉は、誰にも聞こえるはずもなく消えていった。


「カーティス大佐!」

 ルークたちを軍宿舎に送るというグレンに任せたジェイドの背後から、聞き覚えのある声がその名を呼んだ。振り返った先にいたのは、グレンよりも若い、少し赤みがかった銀髪の青年将校。

「フリングス将軍。これはご無沙汰しております」

 グレンと相対したときよりは柔らかな笑みを浮かべ、ぴしりと敬礼を見せるジェイド。アスラン・フリングスも返礼し、書面を取り出してジェイドに手渡した。

「ご苦労様です。陛下の命により、第三師団の引き継ぎに参りました」
「ありがとうございます。可愛い部下たちですので、よろしくお願いします」
「もちろんです。作戦が上手くいったようで何よりですね」
「ですが、死者を0には出来ませんでした」
「13名と聞き及んでおります。……極限の努力を為された結果でしょう」

 書面に眼を通し、ペンを取ってさらさらとサインを書き込む。戻された書面を確認してしまい込むと、アスランはちらりとあらぬ方へ視線を向けた。ジェイドも釣られてそちらを見ると……一瞬見えたのは、朱赤の長い髪。

「……あれが、例の『焔』の子ですか。確かに焔の髪ですね」
「ええ」

 こくりと頷いて微笑むジェイドを、アスランの穏やかな目が見つめている。


 アスランは、ジェイドが『記憶』を持つことを知っている1人である。外部からの支援も必要だろうとピオニーが引きずり込み、半ば強制的に話を聞かせて協力を約束させたのだ。
 もっとも、『記憶』の話を聞いてすんなりそれを受け入れたアスランも大人物であろう。ピオニーがジェイドの言葉を信じたのは、曲がりなりにもその証拠となり得る意見書を眼にしていたから。なのにアスランはジェイドの話を聞き、すぐさま「分かりました。自分で良ければ、何なりとお手伝いさせていただきます」と微笑んでみせたのだから。

「ちょっとひねていますが、優しい子ですよ。心を壊させてしまうまで気づけなかった私は、何と愚かなんでしょうね」
「今は気づいていらっしゃるんですから大丈夫ですよ」

 ルークを、その仲間たちを見るジェイドの視線は、国の内外を問わず恐れられ脅威の的とされている『死霊使い』の名に似合わぬ柔らかく、優しいものだ。2年ほど前から時折見せるようになったその優しい表情が『記憶』に由来するものであることに、事情を知らされたアスランが気づかない道理はなかった。

「……あの子には事情は?」

 ルークの名を呼ばぬまま問うアスランに、ジェイドは小さく首を横に振った。どこか寂しげに視線を落とし、呟くように答える。

「話していませんし、話すつもりもありません。本来ならば、私1人の胸に納めておくはずだったわけですし」
「そうですか。ご無理をなさらぬよう」

 ジェイドの変化に気づいたピオニーが問いただすまで、ジェイドは『記憶』を持つことを誰にも打ち明けなかった。それでいて、『記憶』の内容を確認すべく様々な調査を行っていたことが、後で判明している。
 つまり……ジェイドは、誰にも協力を請うことなく1人で戦うつもりだったのだ。
 『記憶』の中に刻み込まれた、平和にはなったけれど幸福ではない結末と。
 心を壊し、身体を壊し、少年の存在すら食いちぎる『運命』と。
 オールドラントに刻み込まれている預言とジェイドの『記憶』が語る預言、ふたつの『預言』との戦いを、ジェイドは孤独に戦い抜く決意をしていたのだ。
 それを知って激怒したピオニーが、アスランを協力者として巻き込んだ。さすがにローレライ教団やキムラスカまでを巻き込むわけにはいかなくとも、せめてマルクトの内部でだけでも力になるように、と。

「私は無理をする人間ではありませんよ? フリングス将軍には、巻き込んでしまって申し訳なく思っております」
「お構いなく。貴方は、護るべき何かのためには無理をする方だと思っておりますのでね。陛下からも『無茶するんじゃねえぞ』とのお言葉をお預かりしております」

 ほら、あいつ重要なことは1人で抱え込むタチだろ。俺も気をつけるが、あまり城を離れるわけにもいかないからな。
 だから頼む、アスラン。ジェイドと『焔』の力になってやってくれ。

 ピオニー自らが頭を下げての頼み事に、否を唱えることはとても出来なかった。
 だからアスランはわざとピオニーの口調を真似、ジェイドに釘を刺す。知っている以上、そして細部は異なれど概ねその通りに進んでいく世界を見ている以上、『預言』と戦う覚悟が出来ているのは1人だけではないのだと。

「もう少し言葉遣いには気をつけて欲しいんですがねえ。ともかく、無茶はしないように気をつけないと、後で何を言われるか」
「本当に」

 ですから、貴方はその優しい眼差しを失わないでくださいと。
 アスランは口にせず、そう思うだけに留めた。


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