紅瞳の秘預言06 創傷
夜が明けるよりずっと早く、ルークたちはセントビナーを出立した。日の光はやっと地平線の向こうから微かに差し込み始めているだけで、空の色はそのほとんどが夜のまま。
「……これを見越しての軍宿舎、かよ。さすがだねえ、旦那」
隊列の殿を務めるガイが、自分の目の前をふらふら歩くルークを支えながら苦笑する。神託の盾騎士団がセントビナーに向かっているらしい、という情報を手に入れたグレンがジェイドに伝え、そのジェイドがルークたちを強引に叩き起こして出立させたのだ。いつの間にかタルタロスの姿も見えなくなっており……こちらはアスランが深夜のうちに動かしたのだが、ティアはその手際の良さに感心したものだ。
街を出てしばらく後、見慣れた白い鎧を着けた一団がセントビナーへと入っていく様子が遠目にも見えた。マルクト軍の宿舎でなく街中の宿屋に泊まっていたなら情報の伝達が遅れ、即刻発見され捕縛された可能性が高い。
今頃はジェイドの師匠でもあるマクガヴァンもと元帥が、神託の盾を率いてきた……恐らくは六神将の誰かを相手に、一歩も引かぬ論戦を繰り広げている頃であろう。
「お褒めにあずかり光栄ですよ。このくらいは予測しておかないと、戦場で生き延びるのはなかなか大変ですから」
先頭に立ち案内を務めているジェイドの表情は、まだ薄暗い中では分からない。極度に指向性を高めた譜石の明かりを利用して移動しているため、彼らの視界にはっきりと映るのは今歩いている少し先方の地面だけだ。ただ、うっすらと明け始めているせいか少しずつ、少しずつ周囲が本来の色を取り戻しつつあるのだが。
「……ね、ねみぃ……」
朝に弱いルークは、ガイに支えられる形でやっと進んでいる状況だ。アニスとティアが振り返り様子を伺いながらあきれ顔をしているのにも気づかず、時折頭を左右に振って落ちそうな意識を無理に引き戻している。あまりに足元がおぼつかないため、普段ルークの傍をちょこちょこ歩いているミュウはしっかりとティアが確保済みだ。
「ところでルーク……は無理ですね。イオン様、足は大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です。靴って、ちゃんと調整して貰うとこんなに歩きやすいんですね」
1人マイペースでとことこ歩いているイオンは、にこっと笑って答えた。ジェイドが手配したシューフィッターにより、ルークとイオンの靴は長距離の徒歩移動に彼らの足が耐えられるように調整されている。靴の内側から伸ばしたり、中敷きを調整したりするだけで靴の履き心地はこれほど変わるのか、と2人は顔を見合わせて驚いていた。
「痛むようでしたら、遠慮無く言ってくださいね。まさかカイツールまでずーっとおんぶして移動するわけにもいきませんが」
「ルークなら俺がおぶっていくよ。旦那、年だろ?」
くすくす笑いながらそう言ったジェイドに、にいと眼を細めながらガイが応じる。半ば眠りながらの移動であるルークもこの会話は何とか聞けていたらしく、露骨に顔を歪めた。
「や〜め〜ろ〜……俺、そんなガキじゃ〜ねえし〜……」
「えー、ルーク様もイオン様もトクナガで連れてってあげますよぅ?」
アニスが笑ってそう言ったのに、ティアが「え?」と首をかしげた。聞き慣れない固有名詞が言葉の中に入ったのを聞きとがめたのだろう。
「アニス、トクナガって?」
「ああ、そう言えばご存じありませんでしたか。アニスが背負っている人形です。使うところを見ると面白いですよ?」
ちょいちょい、とアニスの背中にぶら下がっているどこか不気味だけど愛嬌のある人形を示し、ジェイドが楽しそうに笑う。大暴れ──アニス曰くのダンスを見たことを思い出したらしい。
「みゅ? トクナガさん、おもしろいですの?」
「ええ、とっても。ミュウも機会があれば見せてもらうといいですよ」
「分かりましたですのー」
何故か仲の良いジェイドとミュウの会話を聞きながら、ティアはぼんやりとアニスの背中を見つめている。そこにくっついて時折ぶらぶらと揺れる人形……トクナガを、じーっと、穴でも開きそうなほどに。
「トクナガ……そのままでも可愛いのに……」
「ティアさん、どうしましたですの?」
ミュウが不思議そうに見上げてくるのに、はっとしてティアは「な、なんでもないわ」と首をぶんぶん横に振ってごまかした。
やがて夜もすっかり明け、飛び飛びだったルークの意識がやっとまともに起動した頃。
街道を外れた一行は、小さな広場を見つけそこで朝食を取ることにした。とは言っても、ジェイドが出がけに軍の食堂からせしめてきたおにぎりなのだが。
「なージェイドぉ、橋が落ちたって本当かよ」
もぐもぐと頬張りながらルークが問う。「行儀が悪いぞ」と水を差し出しながら、ガイもジェイドに視線を向けた。こくりと頷いて、ジェイドは口を開く。
「ええ。マクガヴァンもと元帥がおっしゃってましたよ。先日起こった地震と濁流でフーブラス橋が流されたそうで。資材の調達は何とかなったんですが、修復はこれからというところですかね」
そこまで言ってしまった後、はむ、とおにぎりを口にする。イオンはジェイドの出した名前に聞き覚えがあったのか、膝の上におにぎりを持った手を置いて尋ねた。
「マクガヴァン? 昨日ジェイドがご挨拶していらした将軍も、確か同じ名前でしたよね」
「親子ですからね。もと元帥はグレン・マクガヴァン将軍のお父上にあたります。現在のセントビナーの住民代表を務めておられるんですよ」
とんとん、と自分の頬を指先で突きながらジェイドは答える。それが自分への合図だと気づいてイオンは、慌てて自分の頬に手をやった。ご飯粒がひとつくっついているのが分かり、指で取って口に運ぶ。
「はー、元軍人さんが住民代表だったわけですねぇ。そりゃあ、しっかり頑張ってくれそうです」
「ええ」
イオンの手に濡らしたハンカチを渡しながらアニスが納得したように頷くと、ジェイドも満足げに眼を細めた。ティアが虚空に視線を逸らせ、地図を思い出しているのか伸ばした人差し指をくるくると回しながら言葉を紡ぐ。
「まあそれはともかく。橋が使えないとなると、フーブラス川を自力で渡るしかないわけですね」
「みゅみゅ〜。ボク泳げませんですの〜」
結局ずっとティアに抱かれていたミュウは、今も彼女の膝の上で主食の草を食んでいる。その大きな眼が下から自分をじーっと見つめているのに気がつくと、ティアは慌ててその頭を撫でた。
「ああ、ミュウは大丈夫よ。私が連れて行ってあげるから!」
「ありがとうですのー!」
可愛い物好きと小さな聖獣の緊張感のない会話を、おにぎり3つを胃の中に納めて満足げな様子のルークはぼんやりと聞いていた。が、ふと顔を上げるとガイに視線を移す。
「なーガイ、橋掛けなきゃいけないほどの川ってどんなんだ? ちゃんと渡れんのか?」
「ん? ああ。季節にもよるんだが、この辺で今頃だとそうだなあ……深さはいっても腰くらいまでじゃないかな。アニスもいることだし、浅めのところを探して渡るから大丈夫だろ。ただ、幅は結構あると思うぞ」
「ふうん」
ガイから説明を受けても、ルークにはいまいち分からなかった。小さな川ならチーグルの森で越えたことがあるけれど、どうも大きさが異なるせいか想像がつかないらしい。
ガイとルークの会話を聞いていたアニスが、ぽんと手を叩いた。ルークの知識の偏りは彼女も知っているから、どんな会話をガイと交わしていたのかすぐに結論に達する。
「そか、大きい川って見たことないんだ。渡るとき、足滑るから気をつけるんだよ?」
「わ、分かってらぁ!」
朱赤の髪を持った子どもは、顔を髪の色よりも真っ赤にして頬を膨らませた。
「と、わ、たっ」
「ルーク、落ち着いて。次はその右よー」
「ロープ持ってくれば良かったですかねえ。はい、ちゃんと踏ん張りなさい」
「ご主人様ー、頑張ってですのー!」
ルークの足元で、石がぐらぐらと揺れる。そうでなくとも危うい足取りに、渡りきってしまった仲間たちはある者ははらはらしつつ、ある者は微笑ましく見つめている。
「も、もうちょっと……うわわわわっ!」
「ルーク、手を!」
もう少しで渡りきる、というところでルークは足を滑らせ、派手にバランスを崩した。背後に倒れそうになり慌てて虚空に伸ばした手を、岸で待っていたジェイドとガイが同時に掴む。そのままぐいと岸に引っ張り上げると、ルークの身体はガイをクッションにする形で着地した。
「うわっ!」
「あ、ガイ悪いっ!」
「おっと」
ジェイドもバランスを崩してしまい、地面に倒れ込む。それでも彼は、とても楽しそうに笑っていた。
いや、本当に楽しいのだろう。
少なくとも、今この瞬間は平和だから。
「ルーク、ガイ、大丈夫ですか?」
「あっぶなーい。だから気をつけてって言ったのにー」
「う、うっせー!」
イオンとアニスに覗き込まれて、がばりと起き上がったルークは顔を真っ赤にしていた。足元を濡らしてはいるが特に怪我をした様子もなく、それを確認してガイはほっと一息をつく。
「ははは。ま、良かったじゃないか。どうだ? 感想は」
「も、もーやらねーぞぉこんなことー! 靴ん中まで水入るし足元不安定だし滑るしー!」
くしゃくしゃとガイに掻き回される髪はほとんど濡れてはいない。流れる水はせいぜい膝ほどまでの深さしかなかったし、ただ応援していたミュウ以外の全員が浅くて渡りやすい箇所をルークに教えていたのだから。最初は子ども扱いされて嫌がっていたルークだったが、川の中程までさしかかった頃には「おーい、次どっちだー!」と素直に指示を仰ぐようになっていた。
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