紅瞳の秘預言09 襲撃

 マルクト側の検問所は、旅券とジェイドの笑みひとつで簡単に通ることが出来た。僅かに距離を置いたキムラスカ側の検問所に到着し、ジェイドは国境警備兵に旅券を示す。
 この冷戦状態の中、平然とマルクトの軍服を纏ったまま越境しようとする優男の心境を兵士は疑ったに違いない。だが、示された旅券を見た瞬間その表情が分かりやすく硬直するのを、ジェイドの後ろにくっついてきた一同は興味津々に見つめていた。

「こ、国王陛下より、すぐにお通しするよう勅命を受けております。どっどうぞ!」
「ご苦労様です」

 にっこり微笑んだジェイドが、その笑みに背筋を凍らせた兵士を後に検問所を通り抜ける。続く全員がキムラスカ領域へ入りきるのを確認し、傍にいた別の兵士に声を掛けた。

「ああ、馬車の手配をお願い出来ますか? この人数で、カイツール軍港までなのですが」
「了解しました。手配が済みましたらお呼びしますので、それまでお待ちください」
「お願いします」

 笑みを浮かべたまま用件を済ませ、振り返る。正式な手続きを踏んだ出入国が初めてだったルークは、すうと空気を大きく吸い込んでから勢いよく吐き出した。

「はー、やっとキムラスカに帰ってきたんだなー」
「ここから先が長いぞー。家に帰り着くまでが遠足っつーだろ」

 背後から聞こえた茶化すようなガイの声に、肩をすくめながら振り返るルーク。その表情は、かなり明るい子どものものだ。にんまり眼を細め、くるりと身体ごと向き直る。

「いや、俺、遠足なんて初めてなんだけどな? それに、こんな遠足はもう勘弁して欲しいぜ」
「ま、そりゃ確かにそうだな。ティアも、次は穏便に願うぜ?」

 はは、と笑いながらルークに答え、ガイは傍にいたティアを振り返った。え、と一瞬きょとんとしたティアだったが、すぐにガイの言葉に気づき頬を赤らめた。

「わ、分かってるわ!」

 ぷい、と顔を背けたティアを見て、ルークは可愛いところもあるんだと感心していた。


 子どもたちのはしゃぐ様子を、ジェイドは少し距離を置いて見つめていた。ちらと周囲に意識を向けると、自分に対する敵意の籠もった視線が突き刺さってくるのが分かる。それを承知で、ジェイドは自分のスタイルを崩さない。
 敵意も殺意も、恨みも妬みも、もうすっかり慣れてしまっているから。いっそ殺してくれれば、少しは楽になれるのかも知れない。

 ──それにしても、キムラスカの土を踏むのは久々ですねえ。

 心の中で独りごちる。
 マルクトの死霊使いとはいえ、キムラスカに入国したことがないわけではない。
 もっとも、以前キムラスカ領に入った時は正式な旅券すら携えてはいなかったのだが。
 携えていたのは、右手から取り出した槍。時には暴走覚悟で外した譜業眼鏡。
 槍と、今は封じられている譜術を以て、キムラスカの兵士を多数屠った。
 その自分が戦争を止めるための全権大使としてキムラスカを歩くという事実を、ジェイドは苦笑しつつも受け止めている。
 自分はマルクト軍最強と誉れも高き譜術士でありながら、同時に皇帝より最大の信頼を受ける懐刀であるのだから。

「どうしたんです? ジェイド」

 名を呼ばれ振り返ると、緑の髪の導師と視線が合った。当たり前のように、導師守護役の少女が少年の一歩後ろに立っている。

「いえ、別に。何かご用でも?」
「ご用と言いますかー、大佐、さっき馬車とか言ってませんでした?」

 問いかけに答えたのはアニスの方だ。先ほどの兵士との会話を聞かれていたらしい……まあ、聞かれて問題のある話でもないのだが。

「ええ。手配しておきました」

 だから素直に頷くと、ラッキーとばかりに顔を綻ばせたアニスとは違いイオンは不思議そうにジェイドを見上げてくる。

「徒歩でも大丈夫なんじゃないでしょうか? ヴァンの話ですとそれほど遠くないようですし」
「それはグランツ謡将の足で測った場合の基準ですよ。カイツールとカイツール軍港は名前こそ同じですが、かなり距離があると以前聞いた覚えがあるので」

 『記憶』の中ではその言葉を真に受け、徒歩で移動したためにかなり時間を取られた。ルークがふて腐れた顔をしたことをちらりと思い出す。
 それに、出来ればここで食われる時間はなるべく少なくしておきたかった。軍港を、血で染めぬために。

「ほら。私年寄りですから、少しでも楽したいですしね」

 その思いを作り笑いでごまかしながら、ジェイドは言葉を続ける。と、その足元にいつの間にかちょこんとあるのは、青い毛玉。

「みゅう。ジェイドさん、お怪我まだ痛いですの?」

 ぱちぱちと身体に比して大きな瞳で見つめられ、一瞬だけ顔をしかめた。まさかジェイドも、『馬車に乗って楽をしたい』理由を肩の傷と結びつけられるとは思わなかったのだ。
 けれどすぐに顔を作り、ジェイドはしゃがみ込むとミュウの頭を軽く撫でた。少なくとも、今の状態を言うのであれば嘘はついていない。

「いいえ。傷はイオン様とティアのおかげですっかり良くなっていますよ」
「それならいいですの。ご主人様、ジェイドさんが痛いのはいやだって言ってましたの」
「おやおや。ルークに心配させるなんて、やはり年ですね〜」

 苦笑しつつ立ち上がる。じっと自分を見つめているイオンに「本当に大丈夫ですよ」と笑ってみせると、少年はどこか納得がいかない表情のままそれでも頷いてくれた。
 夜遅くまで傷を診てくれていたイオンには、傷が綺麗に繕われたのが表面上のみであることはすっかりばれてしまっている。内部組織は現在、ジェイド自身の身体が再構築を行っている最中だ。
 だが、そうであってもジェイドは歩みを止めるわけにはいかない。ピオニーより託された親書を守り、ルークを守ってバチカルまでたどり着かねばならないのだから。

「馬車の準備が整いました。ご案内いたします」

 不意に聞こえた足音の方向に視線を向けると、先ほど馬車の手配を頼んだ兵士が歩み寄ってきていた。思ったより早い展開にほっと胸をなで下ろし、ジェイドは手を叩くと子どもたちに声を掛ける。

「ありがとうございます。はい皆さ〜ん、馬車に乗りますよ〜」
「馬車? やりぃ、楽出来る〜」

 一番に喜んだルークの笑顔を目にして、赤い瞳を細めた。あの無邪気な笑顔を、いつまで見ることが出来るのだろうかと。

 ──さて、間に合うか。

 『記憶』と現実を突き合わせてジェイドが検討した結果、差し当たっての懸念は『妖獣のアリエッタ』だった。
 この世界では彼女の『母』であるライガの女王は死んでおらず、故に彼女から母の仇と付け狙われることはない。しかし女王のことはさておいてもアリエッタはやはり六神将の1人であり、敵であることに変わりはなかった。
 そして、この世界が概ね『記憶』と同じように時を進めているのであれば……彼女はアッシュの要請により、魔物を引き連れカイツール軍港を襲う。ルークを足止めし、コーラル城へと誘うために。
 そうして、廃墟の城へ誘い込まれたルークはディストの手に落ち、アッシュへの同調フォンスロットを開かれる。それはこれまでの7年間を無事で生きてきた彼らの、カウントダウンの始まり。
 たった2年ではあったが、『記憶』のおかげでジェイドは早期に研究を再開することが出来た。その中で判明した事実のひとつが、完全同位体同士のフォンスロットを介した同調が大爆発を促進させる、ということ。もっとも、大爆発の初期症状はオリジナルからレプリカへの音素流入であることから、これは容易に推定出来る。同調により音素の流入がスムーズに起きてしまうのだ。
 無論、同調させないからといって完全に大爆発を止められるとは思っていない。2人がまったく同一の振動数を持つ存在である以上、さらに何らかの処置を施さねばいずれ大爆発は起きてしまう、とジェイドの研究成果は語っていた。それ以上研究を進めるには……もう1人、協力者が必要になるだろう。
 いずれにせよ、アリエッタとの接触がまず問題となる。フーブラス川での邂逅が無かったためタイミングがずれている可能性はあるが、それでも急がなければならない。
 少しでも流れる血を減らし、ルークを守るために。


 到着した軍港は未だ血の臭いもせず、連絡船も破壊されぬ姿のまま海面に浮かんでいた。行き来する兵士や船員たちの姿に、ジェイドは密かに胸をなで下ろす。それから、キムラスカ領入りしたときと同じような視線が再び己に集まるのに気づいて、苦笑を浮かべた。

「目立ってますね」

 イオンが肩をすくめた。ルークやティアも、兵士や船員の視線がジェイドに集中していることにはさすがに気づいているようで、ちらちらと青い服を伺っているのが分かる。

「ああ、注目されるのは慣れています。どうぞお構いなく」
「注目っていうか悪目立ちって言いませんか? 大佐ぁ」
「いえいえ、いい男が立っているだけで視線を集めるのは注目と言うのでしょう? アニス」

 アニスとの軽口の叩き合いが自分の気をかなり紛らわせてくれることに、正直に感謝する。それを少し遅れて歩きながら聞いているルークの肩ががくんと落ちているのを、気配だけで確認した。

「うわ、自分で言うか」
「……私はミュウの方が……」

 そのルークに寄り添っているティアは、相も変わらずミュウを見てほわんと顔を綻ばせている。キムラスカ領内に入ったせいか、何となく全員から緊張感が失われつつあるのをジェイドは認識していた。『記憶』が無ければ、自身も少しは気を緩めていただろう。


PREV BACK NEXT