紅瞳の秘預言11 悲鳴

 2つの影が飛び去り、ライガたちもこちらにまったく興味を示さずに撤退していくのを見送ってからルークは、自分もしゃがみ込みながらゆっくりとジェイドの身体を下ろした。先ほどから軽く眉がひそめられ呻き声が漏れるのは、斜に差し込んでくる日の光が眩しいからだろうか。
 しばらくすると腕の中でぼんやりと瞼が引き開けられ、夕日よりもずっと赤の深い瞳が微かに覗いた。未だ眼鏡を掛けていないせいか、それとも見慣れない表情のせいか幼く見える顔を、ルークとその回りに駆け寄ってきた同行者たちが覗き込む。

「大佐ぁ? 大丈夫ですかあ?」

 彼らを代表するかのように、アニスが声を掛ける。しばらくジェイドは虚ろな視線を彷徨わせていたが、やがてアニスの大きな瞳を認めると眼を細めて微笑んだ。

「……アニス、ですか」
「ジェイド!」

 思わずうるっと眼を潤ませたアニスの横で、ルークも眼を見開いて名を呼んだ。背を支えている腕を引き起こすと、軽く頭を振りながらジェイドは床に座り込む。そうして自分の周囲を取り囲む者たちの顔を確認し、手で口元を隠した。ひょっとしたら、表情を見られたくなかったのかも知れない。

「ルーク……迎えに……来てくださったん、ですか?」
「ったりめーだろ。マルクトの使者が一緒に来なかったら、親書の意味あんまねえんじゃねえの? いくらイオンに仲介頼んでるって言ったってさ」

 視線を逸らしてしまったジェイドに機嫌を損ねたのか、頬を膨らませたルークの口調が少し荒くなる。ちら、と視界の端で少年の表情を伺った彼に、ガイがずっと持っていた眼鏡を手渡す。裸眼のままでは、いつものように眼鏡の角度をずらして表情を隠すなど出来ようはずもない。

「旦那、これ」
「ああ、助かります……確かに、ルークの言う通りですね。お手間を取らせました」

 眼鏡を掛けながら済みませんと小さく囁かれ、はっとルークが眼を見張った。しばし激しく瞬いた後、やはり頬を膨らませる。だがその意味合いは先ほどとは異なっていたようで。

「助けて貰ったんならありがとう、だろ? 自分で言ったんじゃねえか」
「……ああ、そうでしたね」

 フーブラス川での何でもないやりとりを持ち出され、ジェイドは苦笑する。一度目を閉じて、穏やかな表情のまま「ありがとうございます」と言葉に出して応えるとやっと、ルークもにこっと微笑むことが出来た。
 が、次の瞬間場の空気がぴん、と張り詰めた。

「やはりこちらに来ていたか。ルーク」

 じゃり、という足音と共に、低い声が聞こえた。はっと名を呼ばれた少年が振り返ると、どこか呆れたような表情を浮かべたヴァンが立っている。振られた首の勢いに乗り、朱の髪がふわりと空気の中をなびいた。

「ヴァン師匠っ!?」
「船に乗って先行しろ、と言ったはずだがな。まさかお前が、私の言いつけを守らないとは思わなかったぞ」

 ぎろ、と軽く睨み付けられただけで、ルークの背筋はぞくりとすくみ上がる。それだけの眼力を持つヴァンを前にして、それでも少年は一瞬だけ息を飲み、そして自身の意見を口にした。

「すいませんでした。でも、俺がこうしたかったから」
「優しさが悪いとは言わん。だが、時にはそれが身を滅ぼすこともある。良く覚えておくことだ、ルーク」
「……はい」

 ヴァンの諭しに頷くルーク。だがその言葉に納得が出来ていないのは、少年の表情からも明らかだ。一瞬ヴァンが眉をひそめたのを、ティアとガイはその視界に納めていた。ガイは訝しげに首をかしげ、ティアは冷たい視線で兄を見つめ続ける。アニスはイオンに寄り添いながら最初から胡散臭げな表情を浮かべており、イオン自身は顔に感情を浮かべてはいない。どこか突き放したような表情で、彼らのやりとりをじっと見つめている。

「グランツ謡将までおいででしたか」

 そんな中、唯一ジェイドだけは普段と同じ笑みをその端正な顔に浮かべていた。ルークの肩を無断で借り、ゆっくりと立ち上がるとかちゃりと指先で眼鏡の位置を直す。その仕草は既に、彼らの知る普段のジェイド・カーティスのものだ。

「無様なものだな、『死霊使い』殿。こちらの手を煩わせないで貰おうか」
「それはそれは、済みませんでした」

 どこか不機嫌な口調で吐き出された言葉を、飄々と受け流す。普段より返す言葉が少ないようにルークが感じるのは、ジェイドが相手の……ヴァンの出方を伺っているからだろう。
 が、ヴァンがそれに気づいたかどうか。ともかく彼は呆れたように首を軽く振り、小さく溜息をついた。

「まあいいだろう。結論として問題は解決したのだからな……それより、よろしいでしょうか? イオン様」
「何でしょう、ヴァン」

 視線を向けられた導師は一瞬眼を細め、それから普段よりは冷たい視線で己の配下であるはずの男を見据えた。音叉を象った杖を握りしめる手に、どうしてか力がこもる。

「こちらに来る際にカイツールのアルマンダイン伯より兵と馬車をお借りしております。私は馬車で戻りますが、導師はいかがなさいますか?」

 心理的に優位にあるせいか、問いを口にするヴァンは薄く笑みを浮かべている。まるで、この場の支配者は自分であるかのように。
 己が敬うべきローレライ教団の導師を前にして何と傲慢なことか、とどこかまだふわりと浮遊した意識の中、ジェイドは思う。
 そんなジェイドの表情を微かに伺ってから、イオンは首を縦に振った。

「ジェイドの体調がまだ優れないようですので、馬車を使わせていただきます」
「……お手数をおかけします、イオン様」

 小さく頭を下げ、胸元に手をやって感謝の意を示すとイオンも、そしてヴァンもほぼ同時に頷く。それからヴァンもまたジェイドと同じように胸に手を当て、イオンに対し頭を下げた。

「承知いたしました。準備が整うまでしばしお待ちを」

 顔を上げるとそのまま振り返り、背後を顧みることもなくヴァンは去っていく。その広い背中が城の中へすっかり消えてしまってから、ガイがぼそりと呟いた。

「……また謝らなかったな、ヴァン謡将」
「港でのやりとりからすると、今回についてはあくまで六神将が個人的に動いている、ということなのかしら」

 ティアが、軍港での一部始終を思い出しながら言葉を紡ぐ。あの時ディストとヴァンは、どう見ても命令に背いた部下とそれを叱咤する上司の会話を交わしていた。さすがに個人的な行動までは上司であるヴァンも責任を取りきれない、ということだろうか。

「ディストはあまり上からの命令を聞くタイプではありませんから、恐らくそうでしょうね」

 ジェイドが緩やかに微笑みながら答えた。本名のサフィールではなく通称で呼んだのは、それが場の雰囲気に相応しいからであろう。今彼らが思考しているのはジェイドの幼馴染みであるサフィールではなく、六神将のディストが起こした事件についてだからだ。
 今回の彼らの動きは、本来はアッシュからの要請によるものだ。もっとも彼の思惑は形にならず、結果としてジェイドの望んでいた通りにことは運んだ。さすがに、よもや己が拉致され人質にされるなどという展開になるとはジェイド自身、考えてもいなかったことなのだが。
 いずれにせよ、それをルークたちは知るよしもない。教える意味もなく、また知られると自分が実は六神将と繋がりのあるスパイなのではないかと余計な疑惑を持たれる可能性もある。故に、ジェイドはその点に関しては知らぬ存ぜぬを決め込むことにした。
 不意に、くいくいと袖を引かれた。ジェイドが視線を移すと、そこには自分に並ぶように立ち上がっていたルーク。軽く周囲を伺うと、ジェイドにだけ聞こえるように小さな声で言葉を紡いだ。

「そう言えば、ディストからあんたに伝言があるんだ。承りました、だって。それと、左のポケットにデータ入れた音譜盤入ってるから使ってくれって」
「そうですか。ありがとうございます、ルーク」

 承りました。
 言伝を頼まれた彼には意味不明であろう、たった一言の伝言。それを耳にして、ジェイドはほっと小さく息を漏らす。そして、コーラル城でディストが入手したであろうルークの身体状態のデータも手に入った。恐らくディストも同じデータは持っているはずで。
 これで、また少しだけ自身の生存に道が繋がったのだと、ルークは知らない。
 まだ己がレプリカであることすら知らぬ少年に、大爆発などという事象を教える気などジェイドには毛頭無いのだ。

「あと、運動機能が戻るのに少し時間掛かるって言ってたな。歩けるか?」

 自分の顔を覗き込んでくるルークの碧の瞳に、ジェイドは薄く眼を細めた。そう言えば未だ、足元がふらつく。薬物投与による肉体の意図せぬ睡眠であったから、体内で薬物の中和がされるまでこの異常は続くのだろう。

「ええ、何とか。……もうしばらく、お手間を取らせます」

 だから彼は、素直に少年の肩を借りることにした。


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