紅瞳の秘預言11 悲鳴

 ジェイドの錯乱状態などという代物を、ディストは初めて見た。彼の知っているこの幼馴染みはごく稀に激怒することはあるものの普段は冷静沈着……というよりは冷徹で残酷で、その内面を意味のない笑顔で覆い隠して人当たりの良い軍人を演じている。
 彼の感情を揺さぶる問題はピオニー皇帝の生命に関することか、ネビリム先生……そうでなければフォミクリー。このくらいは、ディストもよく知っている。ただ、そこにかのルークレプリカが加わるとは思ってもいなかったけれど。
 そして、彼の口から明かされた『ジェイドがいくばくかの年月を遡ってきた』という事実を脳内で整理する。ジェイドの精神に変化があったのであれば、まず間違いなく『繰り返された年月』の中にその原因が存在するであろうから。
 前提として、ジェイドが嘘をついているなどとはディストはこれっぽっちも疑っていない。
 少なくともルークがアッシュのレプリカであることと、オリジナルであるアッシュがダアトに移った後ヴァンによって都合の良い思考を刷り込まれたことは事実だ。あまり表に出されることのないアッシュの健康管理を精神状態のチェックも含め一手に引き受けていたのは、フォミクリー研究の一環として医学を修めていたディストだったのだから。


 その後、コーラル城を訪れたルークから健康診断と称して採取したデータは、ジェイドの危惧を現実化するものであった。
 アッシュと振動数を完璧に同じくする、完全同位体。
 それは、第七音素意識集合体ローレライに、もう1人の完全同位体が存在することを示している。

 本来ならば第七音譜術士が2人揃わねば起こすことの出来ない超振動を、単体で引き起こせる存在。
 それも道理。
 ルークとアッシュには、既にローレライという完全同位体が存在している。オールドラントの大地の中にその存在を置いているというローレライがあるからこそ、この2人は単体……否、ローレライとの共振により超振動を引き起こせるのだ。
 そもそもヴァンがオリジナルルーク……アッシュを手中にしたのは、単体で超振動を起こせる能力が備わっていたからだ。レプリカルークはあくまでアッシュの替え玉として作成されたに過ぎず、彼が劣化しているであろうとはいえアッシュと同じ能力を持ち合わせていたのは単なる偶然に過ぎない。
 だが、それを知ればヴァンは何のためらいもなくレプリカルークをも己の手駒として操り、アクゼリュス崩壊の鍵とするだろう。アッシュにアクゼリュスを破壊させるよりもアッシュを失う危険度は低く、故に預言を破るための第一手としては申し分ない。

「……いえ、もう知っていますね。スピノザがいますし」

 記憶の底を軽くさらって、ぼそりとディストは呟いた。
 誘拐されたアッシュとすり替えられたルークがファブレ家に戻った時点で、その記憶異常を訝しんだ両親が医師による診断……そして身体検査をさせたことは想像に難くない。ならば、未だキムラスカにいるスピノザがそのデータを入手し解析するのは至極簡単だ。
 そして、2人のルークが完全同位体であると分かれば、スピノザはヴァンにそのことを伝えているはず。

 アクゼリュスについての預言はディストも知っている。街の崩壊と共に『聖なる焔の光』と称される存在がそこで死に、その結果キムラスカとマルクトの戦争が再発する。そして、キムラスカは勝利をきっかけに未曾有の繁栄へと導かれるという、下らない預言。
 己の野望を隠蔽するために、そして野望への第一歩とするためにヴァンは、アクゼリュスに関する預言をその通り再現させようとする大詠師モースと通じ、共謀している。
 本来の『聖なる焔の光』であるアッシュを預言から逃し生き延びさせるためには、鉱山の街で死す代替品が必要だ。ファブレの目をごまかすためもあって製作されたのが、今のルーク・フォン・ファブレ。即ちレプリカルーク。
 ヴァンは何らかの方法でルークを誘導し、その超振動によってアクゼリュスの街を滅ぼさせる気だ。彼の地がセフィロトツリーを制御する要所のひとつであることも知っているディストには、効率的な破壊方法も推測がつく。
 坑道最奥部に存在するパッセージリングを破壊すれば良い。それでアクゼリュスの地は支えであった柱を失い、魔界へと崩落する。15年前にマルクトが行ったホド崩落と要領は同じだ。もっともあれは偶然の産物であったのだけれど。

「外殻大地の破壊、大地と人間のレプリカへの総入れ替えですか……ネビリム先生も、ジェイドもいない、レプリカの世界」

 そもそもサフィール・ワイヨン・ネイスが六神将の1・死神ディストとしてローレライ教団に身を置いているのは、マルクト軍にて放棄・封印されたフォミクリーの研究を継続できるというその一点があったからだ。資金調達も研究材料の提供も、ローレライ教団というある種の不可侵領域の内側では容易いことである。それに何より、己を勧誘してきたヴァンの言葉にほんの一瞬ではあるが籠絡されたからだ、とディストは自嘲する。

 ヴァン・グランツという男は、その秘めた野望を無視して語るならば大変に魅力的な存在だ。
 アルバート流剣術を修め、ユリア・ジュエの血を引く者としてその譜歌を歌うことが出来、譜術すらやすやすと使いこなす。
 人格的にも妹を慈しみ、部下への気配りも忘れず、それでいて戦においては冷静な判断を即座に下すことも出来る。
 言葉のひとつひとつには重みがあり、優しさと厳しさを兼ね備えた彼の言葉に頷く人物は数多い。例え、一度は彼に刃を向けた存在であろうとも。
 その言葉と笑みの裏に、恐ろしい野望が隠されていようとも。

 そのヴァンが、赤子同然の存在であったレプリカルークを籠絡するのは大変容易い所業であっただろう。
 ヴァンにより『ルーク』で無くされたアッシュすら彼の言葉に惑わされ、その配下として動いている。
 ディスト自身、彼の誘いに応じて今こうやって六神将となっているのだから。

「でも、ほっとしました。ジェイドがヴァン総長に籠絡されなくて、良かった」

 ディストは呟いた。
 彼は、ヴァンが自身に苛烈な実験を強制しながらその場を訪れることがなかった『カーティス博士』を強烈に憎悪していることを知らない。ただその著書を数多く所蔵しているから、興味を持っているのだろうと考えているだけだ。
 ジェイドの著書は譜術研究を中心として多岐に渡っており、マルクトを離れた後でもディストは手段を駆使して著書を手にしている。ディストと同じくそのほとんどを読破しているらしいヴァンにしてみればジェイドは、手の内に納めるに足る存在であるはずだ。
 そうなっていないのはジェイドがヴァンよりも年長であり、神託の盾を統べる主席総長にまで上り詰めたヴァンが己の計画を具体的に紡ぎ始めた頃には既にマルクト軍で重要な地位にあったためだ。数年の後に帝位に就いたピオニーへの忠誠を誓い、その懐刀となった彼にローレライ教団の一員であるヴァンが接触するには、物理的にも心理的にも距離がありすぎた。この点では、如何に毛嫌いしている相手といえどディストはピオニーに対する感謝の念を隠すことはない。

「ピオニーがいなければ今頃、私とジェイドは並んでレプリカ計画を進めていたのでしょうかね。ああ、ぞっとする」

 椅子の上で、ぶるっと細い身体が震えた。冗談ではない、あの男の道具などとは。


「ディスト。何ぼさっと考え事してんのさ?」

 声変わりする前の少年の声で名を呼ばれ、ディストははっと顔を上げた。声のした方向に視線を向けると、魔物の背でふて腐れたように頬杖を突いているシンク。コーラル城を出るときに、アリエッタの『お友達』がちゃんと拾ってきている。足止めという地味ながら苦労する作業を押し付けられ、かなり機嫌が悪いようだ。

「いいえ。……アッシュはダアトに戻りますかね」
「戻るんじゃない? あいつ、妙に真面目なところあるからね。やれやれ、リグレットに雷落とされそうだよ」

 かぶりを振ってディストが問い返すと、シンクはそっぽを向きながらもきちんと答えてくれる。荒んでいる割に妙に真面目な部分のあるこの少年を、ディストはそれなりに気に入っていた。……生まれるのに手を貸したための親心ではない、と当人は信じている。

「それは助かりました。その後は確かバチカルでしたっけね……アリエッタ、シンク、少しお話をしましょう。それから、カンタビレがどこにいるかは分かりますか?」
「え? あ、はいです。ええと、カンタビレは……キムラスカかな?」
「多分シェリダンの西の魔物討伐。何でそんなこと聞くんだよ」

 ピンク色の髪の少女が考え込んだのに、森色の髪の少年が助け船を出す。案外この2人、姉弟としてもやっていけるのではないだろうか。
 そんなことを心の片隅で軽く思考しつつ、ディストは頷いた。

「良いでしょう。アリエッタ、見つけたら私に教えてください。緊急で書面を送りたいので」
「はい」
「話って何さ。それに、カンタビレはモースとは仲悪いじゃん」
「いいんですよ、その方が。あの無能大詠師に余計な知恵を付けたくはないですし」

 ぺろ、と薄い唇の間から舌を出して笑ってやるとシンクは、気持ち悪いとばかりに視線を逸らした。

 ジェイドが笑ってくれた。
 ジェイドが私を頼ってくれた。
 ジェイドが私に、弱音を吐いてくれた。
 ならば私は、ジェイドのために動きましょう。

 貴方の声にならない悲鳴は、もう聞きたくない。


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