紅瞳の秘預言13 発動

 海を行く連絡船・キャツベルトの手すりにもたれかかり、ルークは顔を突っ伏している。爽やかな潮風も、彼の気分を清める役には立たないようだ。それどころか、風に含まれる塩分が肌にねっとりとまとわりつくような感触が、慣れぬルークには気持ち悪くてたまらない。

「うぅ……ねみー、だりー、きもちわりー……」
「みゅー……みゅー……」
「……かわいい……」

 ミュウは、ティアの胸元でぐっすり寝入ってしまっている。船に乗る前から足元がおぼつかなかったため、慌ててティアが抱き上げた途端寝息を立て始めたのだ。よほど眠かったのだろうと周囲が溜息をつく中、抱いている彼女はほんわかとどこか呆けたような笑みを浮かべていた。背後でそれを見ているイオンとアニスがドン引きしているのにもお構いなしに。
 もっとも、カイツール軍港を出港したのが早朝のかなり早い時間だったということもある。それはまるで疫病神を追い出すようで、出港時のルークはそれも相まって大変に不機嫌だった。
 何故ジェイドを連れているだけであんな扱いをされなければならないのか、キムラスカとマルクトの国際感情をあまりよく理解出来ていないルークには分からない。ここまで自身を守ってくれている軍人に対して無碍な扱いをされていることに、ルークは腹を立てていたのだ。
 ただ、出航して時間が経った現在ではその腹立たしさよりも、睡眠不足とそれに付随する気持ち悪さの方がルークの中では上位を占めているのだが。

「まあ、お前さんが朝に弱いのは今に始まったことじゃないけどな。大丈夫か? ルーク」
「……もーちょっと気分良くなったら寝るー。今部屋に戻れそーもねえ……」
「そうしろそうしろ」

 ぐったりしたままのルークは、ガイの自分を気遣う声にも反応が鈍い。小さく肩をすくめて金髪の青年は、赤い髪を軽く撫でてやった。その光景を少し離れて眺めていたジェイドは、くっくっと肩を揺らして笑う。

「困りましたねえ。このままでは貴方、船酔いしますよ」
「……船酔いってどんなんだ?」

 手すりに身体を預けたまま、ルークは視線だけをジェイドに向けて問う。そう言えばルークは船旅すらも初めてなのだと心の中で呟くジェイドの横からひょこっと顔を出し、アニスが人差し指を立てながら答えた。

「そーですねえ、頭がくらくらして足元がふらふらして、胸とかお腹とかが気持ち悪くて吐きたくなっちゃうって感じですぅ」
「……あー、それで酔うっつーんだな。酒に酔うのと感覚としては似たようなもんか」

 自分の知っている感覚の中からアニスの言う船酔いに似た症状を引っ張り出す。が、その言葉に反応したのは当のアニスではなく、ルークの育て親を自認するガイだった。

「ちょっと待て。俺、お前に酔わせるほど酒は飲ませてないぞ。いつ飲んだ」

 軽く額に青筋を立てながらゆっくりと詰め寄るガイに、ルークが慌てて身体を起こす。ふるふると首を振りながら後ずさりするその頬を、つーと冷や汗が伝った。

「あ、やべ。何でもない何でもない」
「何でもないじゃ無いだろう。あれか、料理酒が勝手に減ってたとか騒ぎになったあれ、お前が飲んだのかー!?」
「うわわわわ、だって良い匂いがしたんだもん! ちょっとくらい良いじゃねーか、高いもんでもないだろー!」
「庶民にしてみれば十分高いわっ!」

 早速口論が始まるが、周囲は呆れ果てて止めようともしない。しばし続いていた応酬が止まったのは、小さく溜息をついたジェイドがルークの襟元をぐいと引っ張った時だった。

「とりあえず。貴族ですから食前酒くらいは当たり前なのでしょうが、午前中からおおっぴらに飲んだだの飲まないだのという言動はおやめなさい。品性が疑われますよ」
「あうう……はーい」

 げんなりとした顔で大人しくなったルークの襟から手を離し、ジェイドはガイに向き直った。にっこり微笑むと、どういう訳かガイは背筋を震わせる。その笑顔の裏にあるものを感じ取ったのかも知れないが、周囲で見ている仲間たちにはそれは分からない。

「ガイも、そう言った話はせめて船室でなさい。よろしいですね?」
「う……わ、悪かった」

 ぽりと頬を掻いて、青年も素直に大人しくなる。その2人を見比べて満足げな笑みを浮かべたジェイドは、ルークに視線を戻した。

「まあ、船酔い防止策として寝てしまうというのも良い案ですね。親子喧嘩で気分も晴れたでしょうし、部屋でお休みなさい。ルーク」
「……おう。って誰が親子だ」

 穏やかな表情のままさりげなく言葉にされた単語に、ルークは頷きかけて気がついた。むすっと頬を膨らませて問うが、答えたのはジェイドでは無く彼らの様子を見ていてぷっと吹き出したイオン。

「ガイがお母さんでルークが子ども、ですね」
「いや、俺、男なんですけど。お母さんですか? イオン様」
「だって、お父さんはジェイドだと僕は思うんです。それにガイはとても面倒見が良いので」

 ジェイドが自分を何だと思っているのかと同行者たちに訪ねたとき、俺の父上だと答えたのはそう言えばイオンだったなあ、とぼんやりとルークは思った。思ってから、まだそんなこと言ってるのかよと頭の中だけでツッコミを入れる。眠気が襲ってきて、手を使う気力がいまいち湧かない。眠くはないはずのガイも同様の気持ちなのか、肩をがっくりと落としていた。

「まだ主張してるんですかぁイオン様〜」

 代わりにツッコミを入れてくれたアニスに、これまた頭の中だけで感謝するルーク。この際何故ガイがお母さんなのか、その辺りも突っ込んでくれないかなあと淡い期待を抱くが、それは気を取り直した当のガイの言葉によって幻に終わった。

「あー、そりゃともかくルークは俺が連れてくわ。このままだとここで寝るぞ」
「う゛ぁーい」

 ひょいと腕を取られ、ガイの肩に掛けられる。自身の足だけで歩かなくても良いのだと気づき、ルークは大人しく身を任せることにした。正直なところ、気を抜いた瞬間に眠りに落ちてしまいそうだ。ガイは足を進めかけて、ふとジェイドを振り返る。

「後で操舵室覗きに行きたいんだけど、旦那つき合ってくれないか?」
「構いませんよ。私もキムラスカの譜業には興味がありますからね。……と言ってもディストほど詳しくはありませんし、大した箇所は見られないと思いますが」

 青年の興味津々な表情に、ふわりと笑みを浮かべて頷くジェイド。一使用人とマルクト軍人という組み合わせでは、キムラスカの連絡船の操舵室を見学したいと申し出て何処まで許されるものだろうか。それでも、譜業の見学が出来そうであることにガイは上機嫌だった。

「そりゃ分かってるさ。ほらルーク、行くぞ」
「あー……うん」

 既に半ば眠りに落ちかけているルークの身体を軽く揺すり、ガイは与えられている船室の方へ歩き出した。その背中を見送ってからジェイドは、ちらりとミュウを抱きしめたままのティアに視線を送る。

「ティア、ミュウと一緒にルークの様子を見ていて貰えますか?」
「えっ!? あ、はいっ、分かりました。イオン様はどうなさいますか?」

 どこか上の空だったティアは、名を呼ばれてはっと我に返ったように頷いた。それでも、導師に視線を向けたのはさすが教団の一員と言うところであろうか。

「僕たちもご一緒させてください。ルークが回復するまで一緒にお茶でも」
「あ、じゃあお部屋に戻りましょう。アニスちゃんがお茶菓子の準備しますねー」

 当のイオンはアニスと顔を見合わせて、年齢相応の無邪気な笑みを浮かべる。そんな彼らの表情を見渡して、ジェイドは穏やかに頷いた。

「では、私はもうしばらく風景を堪能していますね。ごゆっくりどうぞ」


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