紅瞳の秘預言13 発動

 ルークが睡眠不足であるのは確かだ。しかし、それにはジェイドも知らない正当な理由があった。
 昨晩のカイツール軍港にまで話は遡る。
 ミュウを連れティアの部屋を訪れたルークは、恐る恐る扉をノックした。どうぞ、という声が聞こえたのを確認して、そっとノブを回して中を覗き込む。

「ティア。ちょっといいか?」
「ええ、入って。どうしたの?」

 椅子を勧めてくれたティアに手で礼をして腰を掛けると、膝の上にミュウを乗せてやる。ぴこぴこと大きな耳を動かして、上機嫌な顔でミュウは声を上げた。

「みゅみゅ〜。あのあの、ご主人様、ティアさんとお勉強したいですの」
「お勉強?」
「こら、先に言うなブタザル」

 きょとんと眼を丸くしたティアの前で、ルークはチーグルの身体をべし、と軽く膝に押し付けた。さほど圧力を掛けなかったのは、彼が口にした言葉が実にティアの部屋を訪ねたその理由だったから。しばらく青い頭をぐりぐりと撫でてから、ルークは意を決したように口を開いた。

「……あのさ、ほら。俺とお前、第七音素が共鳴したせいでぶっ飛ばされたんだったよな。んでティア、俺のこと第七音譜術士かって聞いたよな」
「ええ、そうね」

 ティアもその時のことを思い出し、こくりと頷く。当初ティアは、ルークを箱入りの環境で育てられた第七音譜術士と思い込んでいたのだ。それが第七音素すら知らぬ、本当の意味での箱入り息子だと知ったのはそれから程なくだったが。

「ってことは俺、ちゃんと勉強すればえーとその第七音素、使いこなせるようになるんだよな」
「そうね」

 一所懸命に自分の顔を見ながら問いかけるルークに、再びティアは頷いた。第七音素を扱う素養は先天的に与えられるものであり、かの『死霊使い』はそれを持ち得ないため譜歌を操ることは出来ない。だが、ティアとの間で疑似超振動を起こしたルークにはその素養が備わっていることは明白で、つまりは。

「音律士の素質はなさそうだけど、治癒譜術を中心に扱う治癒士としてなら……え?」

 そこまでを口にしてやっと、ティアはルークの言いたいことを理解した。夜中になってからこっそりと訪れたのは、誰かに見られるのを恥ずかしいと思っているからだろう。ルークはそう言う性格なのだと、ティアは旅の中で理解し始めていたから。

「ティア、俺にやり方教えてくれ。良く分かんねーけどその治癒士とか言うのなら、怪我とか治せるんだろ?」

 赤い髪の少年は少女をまっすぐに見つめ、真摯な表情で頼みを口にした。

 第七音素を扱うように出来ていますから、やりようによっては怪我を治したりも出来るんですよ。

 自分の身体を検査しながら、ディストが口にした言葉をルークは覚えていた。あれは確か、身体検査に使用された音機関の機能についての話だったはずだ。
 その後、ディストから別れ際に返されたジェイドは、シンクに痛めつけられたはずの傷がかなり治癒していた。ジェイドによればディストにも第七音素を使う素養は無いということだったから、ディストがあの音機関を利用してジェイドの傷を治したのだろう。
 それなら……第七音素を使うことが出来るはずの自分なら、きちんと学ぶことさえ出来れば。

「……確かに出来るわね。でも、いきなりどうしたの?」

 ティアは一度座り直し、姿勢を正してルークの顔を真正面から見つめた。それは、ルークの話を真剣に受け止めるという証。

「……だって……誰かが痛いの、いやなんだ」

 ルークの言葉は少ない。だが、ティアには彼の言いたいことが何となく分かるような気がする。自分の目の前で誰かが血を流すのを、この少年は嫌がっているのだ。

「それが戦闘よ」
「分かってる。戦うことになったら相手を殺さなくちゃならないんだってのも。でも」

 それでも少しきつめの口調で告げると、ルークは小さく頷いた。視線がティアから外れ、テーブルに落ちる。青いチーグルが心配そうに少年の顔を見上げ、彼とティアを見比べている。ミュウはミュウなりに、主に気を遣っているのだろう。

「せめて、一緒にいてくれてる奴が痛いのだけでも、軽くしてやりたい。俺がろくに何も出来ないせいで、ティアやイオンやみんなに迷惑かけてるし……どっちつかずって、怒られるかな」

 恐る恐る上げられた碧の目は、不安げに揺れている。テーブルの上に置かれた両手は拳を握りしめ、小刻みに震えている。
 剣を握り戦うと決めたことも、この少年は忘れてはいない。
 けれど、自分の周囲で誰かが傷を負い倒れ臥すのを見てもいられない。
 剣を振るって戦うか、治癒譜術を会得して治療に専念するか。
 ルークはどちらを選ぶか、どうしても決められなかった。

 目の前で見た光景が、ルークの脳裏に蘇る。
 青い上質の布地が、じんわりとどす黒く色を変えていく様。
 ぐったりと力無く垂れ下がった、青いグローブに包まれた腕。

 ジェイドの軍服が色を変えるのは、もう嫌なんだ。

 唇を噛み、言うべき言葉を探しているルークの顔をじっと見つめていたティアは、ふっと表情を緩めた。ルークの拳にそっと自分の手を重ねると、少年の瞳が驚いたように見開かれる。

「分かったわ」
「え?」
「確かに、治癒譜術を使える人が1人でも多い方が助かるわ。イオン様はお身体が弱くてあまり譜術を使うことはできないし……ルークが手伝ってくれたら、きっともっとみんな痛くなくてすむわね。剣を振るうかどうかは、その時々の状況を見て決めれば良いことよ」

 それは、ティアなりの考えだった。
 今はルークが前衛に立って戦わねばならないような布陣だが、バチカルに戻れば彼はファブレ公爵の子息として、王位継承者としての立場に戻り前線に出ることはまず無くなるだろう。それでもマルクトとの緊張状態が続いている今、戦場に立つ可能性が消し去ることは出来ない。ならば、死んではならない存在である彼には前衛としての戦闘よりも、後衛にいて第七音素を利用した譜術を駆使した戦闘の方が相応しいはずだ。
 未だ経験豊富とは言えない彼女の思考は甘いものだ。実際には、ルークの父であるファブレ公爵はホド戦争の折自ら陣頭に立って指揮を執り、ガルディオス家を攻め滅ぼしている。王家に連なる者といえど、前線に立たないわけでは無いのだ。
 だが、今の彼らにはそれを指摘する存在は無い。この会話を唯一客観的に見ているのは青いチーグルの仔であり、彼はあまり意味を理解出来てはいなかった。

「あ、じゃあ!」

 故に。

「その代わり、厳しく行くわよ? バチカルに到着するまでに、基本を覚えて貰わなければならないものね」
「お、おう!」
「みゅみゅ! ご主人様、良かったですの! 頑張れですのー!」

 彼らはティアの甘い思考に則り、ルークの第七音素を操る素養を高めることを決めた。もっとも、基礎となった思考が甘いだけでその結果が悪いものであるとは言い切れないのだが。
 ともかくそういう結論に達したことを受けて、ティアはルークの眼を見つめ直した。その表情は真剣で、見つめられたルークも思わず気を引き締める。

「じゃ、まずは基礎学習からね。……っと、そう言えばルーク、第七音譜術士については詳しいことは知らなかったわね」

 俄然やる気になった新米教師は、ふと記憶を辿るように視線を空に向けた。タタル渓谷で初めてまともに会話を交わしたときには、ルークは第七音譜術士という単語すら知らなかった。ここに辿り着くまでの旅の間にも、詳細を説明した記憶はティアには無い。
 そして、ルークはティアの言葉に素直に頷いた。指先で弄っている朱赤の髪は、先端が金の色へと変化している。単にそういう髪質なのか、それとも傷んでいるのか。

「ああ。そういうの勉強するより親の顔とか歩き方とか、そもそも言葉覚える方が重要だったしな」
「そうね。譜術にしても譜歌にしても、それを紡ぐための言葉は必要だし……第一、言葉を覚えてないとこうやって話も出来ないものね」
「そうだなー」
「じゃあ、本当に最初の最初からね」

 そう口にしたティアの表情は、どこか楽しそうな笑顔だった。自分が誰かに何かを教えられると言う立場になったのが、この少女にはとても嬉しい出来事なのかもしれない。


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