紅瞳の秘預言13 発動
そうして始まったティアの譜術授業は教師役が張り切りすぎたせいか一晩中続き、気がつくと夜が明け始めていた。結果としてルークは睡眠時間をろくに取れず、キャツベルトに乗り込む前からふらふらの状態だったのである。ミュウは途中で幾度かうとうとしたものの、ルークが起きていることに気づくと必死で眠い目を擦りながら起きていた。自分はルークに仕える身であるから、起きているべきだと幼子なりに思ったのだろうか。
同じように徹夜したティアの方は平然としたものであり、ルークは何でお前は平気なんだと眠い目を擦りながら文句を付けていた。彼女曰く「軍人ってね、まともに睡眠を取れないことも良くあるの。だから少しくらいの徹夜には慣れてるわ」とのこと。うつらうつらしながらルークは、軍人にだけは絶対になるまいと心に決めていた。
その代償としてキャツベルトの船室でぐっすり眠っていたルークが目を覚ましたのは、そろそろ昼食の時間になろうかという頃であった。寝惚け顔で起き上がり周囲を見回すと、テーブルを囲んでいたティア・アニス・イオンが揃って顔を向けてくる。
「んぁー……あれ、今何時だ」
「ルーク様ぁおはようございますー♪」
「おはよう、ルーク。そろそろお昼かしら」
「おはようございます、ルーク。眠気は覚めましたか?」
「おはよう。んー、すっかり」
ぐっと背を伸ばし、軽く頭を振ると眠気はすっかり吹き飛んでいた。ベッドから足を下ろして靴に納め、よっと勢いを付けて立ち上がる。
「それは良かったです。昼食前ですから、お茶でも軽く如何です?」
「ああ、今お茶淹れるわね」
「おう、貰う。ありがとう」
イオンとティアに礼を言いながら、室内を見回す。ジェイドとガイの姿が見えないが、朝方の会話から恐らくは連れ立って操舵室にでも行っているのだろうと見当はついた。同乗しているはずのヴァンは朝から姿が見えない。彼はまた別行動だろうか。
と、ふとルークはイオンが小さく溜息をついたのに気がついた。その表情も少し落ち込んでいるように見える。
「……どした、イオン。船酔いか?」
少年の隣の椅子を引き、腰を下ろしながらルークが問う。と、イオンは弾かれたようにはっと顔を上げた。それからルークに顔を向け、いつものように柔らかい笑みを浮かべてみせる。
「え、いえ。僕は昨夜はゆっくり休ませていただきましたので、大丈夫ですよ」
その口調に僅かながら震えが混じっていることにルークは気づいた。が、イオンの表情からそれは聞かない方が良いと察知したのだろう、小さく頷くことで少年は答えに代えた。とはいえ、気になるのは仕方が無い。
「んじゃあ、何か気になることでもあるのか?」
言葉を変えて問うと、今度はイオンはこくりと頷いてくれた。
「はい……和平交渉がちゃんと上手くいくかどうか、ちょっと心配で」
「んぁ、大丈夫だろ? 俺が頑張って伯父上に話してやるからさ。父上と母上にも頼んでみるし」
とん、と自分の胸を叩いてみせる。自身の身分を他人に利用されるのは気に食わないけれど、半ば強制とはいえ自分がやるのだと決めたことだ。それに、何となく弟のように感じているイオンが困った顔をしている方が、ルークには気に食わない。
だから、自分が仲介を請け負ったことでイオンが笑ってくれるのが、素直に嬉しかった。
「よろしくお願いしますね、ルーク」
「和平交渉かあ。ほんと上手くいくといいですねぇ、イオン様、ルーク様」
にこにこ笑って頭を下げるイオンと、その横に座ってテーブルに頬杖を突きながら同じように笑うアニスを見比べながらルークもほんの少しだけ顔を綻ばせた。そこへ、紅茶をトレイに乗せたティアがやってくる。
「……本当にそうね。はいルーク、お茶よ」
「おう、ありがとなティア」
笑顔のまま礼を言うと、ティアはどういう訳か頬を赤らめてそっぽを向いた。聞こえるか聞こえないかの微かな声でこちらこそ、と答えながら。
夜の海は、月の光に照らされて幻想的な光景を描いている。昼間よりも下がった気温は肌に心地よく、時折風がふわりとくすんだ金の髪を遊ばせる。青の軍服は半ば夜の闇に溶け込みつつもなお、その存在を主張していた。
ジェイドは何故、自身が今甲板に立っているのかと目を閉じて物思いに耽っていた。
外の空気を吸いたかったのか、風に当たりたかったのか。
──誰かに呼ばれたのか。
「……さて、困りましたねえ。誰にも呼ばれる筋合いは無いのですが」
軍に所属する船であるが故か、夜の甲板に人はほとんどいない。見張りは譜業に任せているらしく、少し意識を集中させてみるとそこかしこで音素が僅かな動きを見せているのが分かる。
午前中は、ほとんどの時間を1人で過ごした。端から見ればぼんやりと風景を眺めているように見えたのだろうがその実、封印術の解除に意識を集中させていたのである。『記憶』での経験があるせいか解除は順調に進んでおり、そろそろ中級譜術も全解禁出来そうだとほっと胸を撫で下ろしていた。ルークたちを守るためには、無様に斬られるような役立たずではいられない。
午後は主に船内の見学に当てた。恐らくは監視目的であろうが、同行してくれたガイがまめに説明をしてくれたため、ディストほど譜業には詳しくないジェイドでも理解は容易かった。日が沈んでからは食事を済ませた後、部屋に戻っていたはずだ。
ふと気がついたとき、ジェイドの足は自然に甲板へと向かっていた。ディストとの会話と『記憶』の分析をしていて、少し疲れが出たと感じたために休憩を取ろうとしていたところだったのでちょうど良い、と彼は足の動きに任せてこの場を訪れたのだ。
『記憶』の中に、キャツベルトで起きた出来事はほとんど残っていない。船内の見学も、『そう言えばどこかで聞いたことがある』程度にしか覚えていなかった。ケセドニアで乗り換えた後にディストの襲撃を受けたことだけははっきりと覚えているが、今のディストがそんな行動に出ることはまず無いと言って良い。
だから、自身が何故このような行動に出ているのか、ジェイドには皆目分からなかった。船内では少しの間ルークと別行動を取っていたような気もするが、ぼんやりとしか思い出せない。
「私の知らないところで、何かありましたかね」
瞼を開き、暗い海を見つめながら彼はぽつんと呟いた。
歌え。
「!?」
唐突に、ひとつの言葉が脳裏を占拠した。
歌え。我に繋がる、七の歌を。
「誰、」
問いの言葉を最後まで口にする前に、彼の唇は旋律を紡ぎ始めた。
歌詞と旋律自体は、『記憶』の中にはっきりと刻まれている。が、ジェイドがその歌を歌うのは初めてのはずだった。
「トゥエ・レィ・ズェ・クロア・リュオ・トゥエ・ズェ」
夜の空気から浮かび上がった闇が、彼の周囲をふわりと舞う。
第一音素譜歌・眠りの歌ナイトメア。
「クロア・リュオ・ズェ・トゥエ・リュオ・レィ・ネゥ・リュオ・ズェ」
今は遠くにしか見えぬ大陸から、地がゆったりと手招きをする。
第二音素譜歌・守りの歌フォースフィールド。
「ヴァ・レィ・ズェ・トゥエ・ネゥ・トゥエ・リュオ・トゥエ・クロア」
潮の音に紛れ、風が淡い色の髪を弄ぶ。
第三音素譜歌・聖なる歌ホーリーソング。
「リュオ・レィ・クロア・リュオ・ズェ・レィ・ヴァ・ズェ・レィ」
場を満たす水は、波の形を取り踊り狂う。
第四音素譜歌・癒しの歌リザレクション。
「ヴァ・ネゥ・ヴァ・レィ・ヴァ・ネゥ・ヴァ・ズェ・レィ」
ぽう、と熱を帯びた光が浮かび上がる。それは、命の火。
第五音素譜歌・裁きの歌ジャッジメント。
「クロア・リュオ・クロア・ネゥ・トゥエ・レィ・クロア・リュオ・ズェ・レィ・ヴァ」
光はきらきらと降り注ぎ、星屑のように甲板を照らす。
第六音素譜歌・破邪の歌グランドクロス。
「レィ・ヴァ・ネゥ・クロア・トゥエ・レィ・レィ」
耳には聞こえぬ音が、歌に合わせてメロディを奏でる。
大譜歌の最後を彩る、第七の譜歌。
力を持つ者がその全てを歌い終えたとき、ローレライとの契約は成る。
ジェイドが大譜歌を完全な形で耳にしたのは、ただの一度だけだ。
『記憶』の中……エルドラントでのヴァンとの最終決戦において、その身からローレライを解放するための手段として、ティアが歌いきったその時だけ。
その一度で、ジェイドは全ての歌詞と旋律を記憶していた。
だが、そもそも第七音素を扱う素養の無い……即ち譜歌の本質を導き出すことの出来ないジェイドに、その契約を成すことは不可能だ。故に彼の口からこぼれ落ちたそれは、ただの歌としての体裁しか為してはいない。
そのはずである──例えジェイド・カーティスが、第一から第六までの6種の音素を自在に操れる存在であるとしても。
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