紅瞳の秘預言13 発動

 がた、と音がした。途端、歌い手の周囲を舞っていた音素たちがさあっと散り、光は消える。それらにまるで気づかなかった様子のジェイドが振り返ると、そこにはどこか困った表情を浮かべているルークがいた。

「え、あ、えっと、ごめんジェイド」

 居心地の悪そうな顔をして、赤い髪をがしがしと掻きながらルークはジェイドに歩み寄ってくる。きょろきょろと周囲を見回しているから、何かを……誰かを捜しているのだろう。

「邪魔するつもりじゃ無かったんだ。ヴァン師匠に呼ばれて来たんだけど」
「構いませんよ、終わりましたから。グランツ謡将はおいでになっていないようですが」

 ヴァンの名を聞き、微かにジェイドの眉が歪められた。
 人気の無い夜の甲板に少年を呼び出すとは、何の用件であろうか。少なくともヴァンが、ルークにする話を他人に知られることを恐れているのは理解できるのだが。
 『記憶』に存在しない空白の時間に、何かが起きたのだろうか。
 そう思考するジェイドの脳裏から、自身に歌を促した声の存在は完全にかき消されていた。今重要なのは、そのような些末事では無い。目の前にいる少年を、悪意から守ることだ。

「全部聞いていたんですか?」
「えー。うん、まあ、多分」

 肩に掛かっている髪を指先で弄びつつ、ルークは視線を逸らす。何だろう、と不思議そうに首をかしげるジェイドの視線に、ちらりと自身の視線を絡めてからルークは、ぼそりと呟いた。

「ジェイド、歌上手いな」
「お褒めにあずかり光栄です。歌ったのは初めてなんですがね」

 真紅の眼を細め、賞賛を素直に受け入れる。この少年の言葉は何のしがらみも無く、素直な言葉として受け止めることが出来た。

「そうなんだ。なあジェイド、今の歌って譜歌か?」
「おや。どうしてそう思われます?」
「んー、何となく」

 首を捻って「何でかなー」と呟くルークの表情は、『覚えて』いるこの頃の彼よりもずっと幼く、それでいて素直なものだ。その表情が自分に少しでも心を開いてくれている証拠のように思えて、ジェイドは小さく息を吐いた。そうして、言葉を続ける。

「昔、一度だけ聞いたことのある譜歌です。私が歌っても、意味は無いんですけどね」

 そう、ジェイドが記憶していてもまったく意味の無い歌詞と旋律。
 それでも彼は、ずっと胸の奥にそれを大切にしまい込んできた。

 いつか必要になったときに、一音の間違いも無く歌えるように。

 馬鹿じゃないですか、私は。
 覚えていても、歌えても、何の意味も持たないのに。

 ジェイドの心境を知らず、ルークは無邪気に笑う。以前ジェイド自身が言った言葉を思い出し、口に乗せた。

「そう言えば、ジェイドは第七音素使えないって言ってたもんな」
「……ええ。ですから譜歌を歌っても、それはただの歌でしか無いんです」

 意味のない笑みを顔に貼り付けて感情を隠し、ジェイドはルークの言葉に頷いた。と、朱赤の髪の少年は形の良い眉を軽くしかめて考え込む表情になる。ほんの少し間があって、再び口を開いた。

「んじゃ、俺が歌ったらちゃんと譜歌になるのかな……あ、無理か。何か象徴がどうとか言ってたもんな」
「おや、ちゃんと覚えていましたね。えらいえらい」

 少し唇の端を緩めながら頭を撫でてやると、「子ども扱いすんなー」と膨れながらもルークは大人しく撫でられていた。
 この少年は分かっていないだろうが、ジェイドが歌ったのはユリアの譜歌だ。それは他の譜歌と異なり、その象徴を理解することが出来なければ力を発揮することは出来ない。──大譜歌に関してはどこか違っているような気もするが、いずれにせよ第七音素を扱えねば意味は無いだろう。
 ティアの譜歌について説明した事項を、ルークはきちんと覚えていた。この子は本当に、基本となる知識を教えれば聡い。ジェイドとしても教え甲斐のある子どもに知識を与えるのは、悪い気はしなかった。


 ようよう捉えた。我が半身。
 歌声は意味を成さずとも、護りの力場は成った。

「うわ、何っ……っ!」
「ルーク!?」

 突然、ルークが頭を抱えて手すりにもたれ込んだ。顔色を変えたジェイドの目の前で、少年の全身が淡い光を帯び始める。

「頭の、中に、声っ……」

 苦しそうな呻き声とその光は、『記憶』の中でジェイドは何度も見ていた。
 書き換えられたパッセージリングの譜を修正すべく、ルークが己の力を発動させたその時に。
 レムの塔で、自身が死ねとまで言って強制した義務を果たすべく、ルークがローレライの鍵を振り下ろしたその時に。
 即ち──超振動。

 ──アクゼリュスでは無く、ここが初めてでしたか。

 ほんの僅かな間でそれを理解し、端正な顔を歪めながらジェイドは素早くルークの背後に回った。彼の超振動は主に掌を介して発せられるため、正面にいたのでは力の直撃を受ける可能性があるからだ。
 そっと白い肩に触れてみると、特に何の問題も無く掴むことが出来た。邪魔をすることの無い音素たちにジェイドは心の中で礼を告げ、ルークの身体をしっかりと支える。少年の全身は熱を持ち始めていて、体内で音素が暴れているらしいことが外部からでも確認出来た。

 その力、我に見せてみよ。
 そなたの心は、譜眼の主が守ろうぞ。

 朱赤の髪を掻きむしっていた両手が、不意に前方へと差し伸べられた。ぶるぶると震える両腕は、何かに抵抗するように強張っている。

「その力って何だよっ! ちょ、か、勝手に動かすなぁっ!」

 ルークの悲鳴に、ジェイドの眉がひそめられた。先ほどの言葉といい今といい、ルークは自分に聞こえない誰かの声を聞き取っているように思える。
 ルークに聞こえて、ジェイドに聞こえない声。アッシュとの同調フォンスロットが開かれていない今、該当する存在はただひとつ。

 ──ローレライの干渉か……止めるのは、無理か。

 一瞬でジェイドは分析を済ませる。『記憶』で何度か見た光景とは違い、今のルークはローレライからの干渉により強制的に超振動の力を引きずり出されている状態だ。このまま止めてしまっては、ルークの体内で暴走を始めた第七音素が出口を見失い、彼の身体に悪影響を及ぼす。
 それを防ぐには、素直に超振動を発動させるしか無い。そうなると問題は、何を標的とするか。
 船は論外。海に撃ち込むと言う手もあるが、今のルークの力によってどの程度の体積が消え去るのかが分からない。ひとつ間違えば海は荒れ、船が巻き込まれる可能性は大いにある。遠くに見える大地に命中させでもしたら、どれほどの被害が出るだろうか。
 であるならば、答えはひとつしか残っていない。完全に危険性が消えるわけでは無いが、海や大地より影響は少なくて済むはずだ。

「っ……空を、撃ちなさい!」

 支えているルークの身体を、海側へと向ける。前方へ突き出されている腕の下に自分の手を添え、ほんの僅か掌の方向を上に向けた。その瞬間ぱん、と何かが弾けるような破裂音と同時に衝撃波が2人の身体を襲う。

「わっ!」
「……っ!」

 バランスを崩しかけたルークを支えようとして、ジェイドも数歩よろめいた。それでも何とか少年の身体を受け止め、しっかりと抱きしめる。
 耳の傍でごうと音が鳴り、突風が2人の身体を船の外へと運び出しかけた。どれほどの体積かは分からないが空気が消滅し、真空と化した空域に外部から空気が流れ込んだことによる、突発的な風。だがそれはすぐに収まり、船体が僅かに揺れたもののこの程度であれば航海に影響は無いだろう。

「う……わっ、まだ……っ!」
「ルーク!」

 が、ルークの腕はまだ前方へと掲げられたままだ。再びその手に、音素が収束されていく。一度では収まらないのか、と舌打ちをしながらジェイドは突風で乱れたルークの髪を掻き上げ、耳元に唇を寄せた。混乱している少年にもはっきりと聞き取れるように、少し口調を強める。

「落ち着いて! 体内にある音素の流れを意識しなさい!」
「た、体、内っ……う、くっ」
「意識出来ましたか? 貴方の中には音素の流れがあります、暴れている音素はそこから飛び出してしまっただけです!」

 自分を導く声に従うように、ルークは必死に音素を抑えようとする。少年の身体を腕の中に抱えたままジェイドは言葉を繋いだ。恐らくローレライは完全同位体であるルークの動作確認をしたいのだろうが、これ以上意識集合体にルークを任せるわけにはいかない。
 だって、ローレライはアッシュも、ルークも救えなかったから。

「少しずつで良い、暴れている音素をその流れに乗せて行きなさい。ゆっくり、深呼吸して」
「……すぅ、はぁ……すぅ、はぁっ……」
「そう、ゆっくり息を吸って、吐いて」

 ジェイドの誘導に導かれるように、ルークの呼吸音が大きくなる。意図的に声を出しながらの深呼吸は、僅かずつ彼の心臓の働きを落ち着けていった。それと共に無駄に力が入っていたルークの身体が脱力を始め、体重がジェイドの身体にかかってくる。

「貴方の身体も、貴方の心も、流れている音素すら貴方自身のものです。惑わされないで、貴方は誰のものでも無い」

 だから、どうか自分を見失わないで。
 少年を抱きしめながら、その耳元でジェイドは祈るように囁いた。


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