紅瞳の秘預言14 転回

 ローレライ教団の中枢都市・ダアト。教団開祖の名を冠するその地は、表向きは導師イオンの下教義に従い穏やかに生きる者たちの街である。が、その裏側ではイオンを中心とする改革派と大詠師モースを中心とする保守派の勢力抗争が激しさを増していた。
 その中心部とも言える神託の盾本部。居住区にまで戻ってきたディストは、譜業椅子から降りると自身の足で己が所管する研究室へと向かっていた。今は一刻も早く、幼馴染みの役に立つために働きたくてたまらない。

「ディスト、てめえ!」

 怒りの感情がこもった声で自分の名を呼ばれ、浮き立った気分を削がれたように振り返る。声の主たる黒衣の青年は、早足につかつかと歩み寄ってきた。いつもしかめられている眉が角度を増していて、これは完全に怒っていますねとディストは苦笑する。まあ、それも当然だろう。
 助かった、探す手間が省けたと心の中で呟きながら、ディストは真紅の髪を持つ青年の名を口にした。

「ああ良かった。アッシュ、いましたか」
「いましたか、じゃねえっ! てめえ、俺の指示を無視したな!」

 ぐいと胸倉を掴み上げられても、ディストが動じることは無い。確かにコーラル城へルークを呼び出したのは、アッシュの要請という名の脅迫に従ったものだ。しかし今のディストには、全てにおいてジェイドの意向が最優先事項となっている。故に、2人のルークがフォンスロットを通じて同調することは無い。
 ジェイドが、それを望んでいないから。

「はいはい落ち着いて。話ならちゃんと聞きますから、ここじゃなくて私の部屋に行きませんか?」

 自身の服を掴んでいる青年の手を軽くタップして、ディストはすぐ近くに迫っていた研究室の扉を指差した。

 ディストに与えられた研究室はある程度の広さを持ちながらも窓が閉め切られているために薄暗く、そして大量に積まれた研究書類や音機関などにより狭苦しさを感じさせる。ぼんやりと明かりを灯した音機関のひとつにコーラル城で入手した音譜盤を入れ、手早く操作して画面を立ち上げた。それからディストは、背後に渋々ながらついてきたアッシュを振り返る。

「暴れないでくださいね。大抵はスクラップですけど、危ないものとかそこら辺に転がってたりしますから」
「けっ」

 対するアッシュは不機嫌さを隠そうともせず、足元に転がっていた小さな金属の箱を爪先で蹴った。がつ、という重みのある音を立てたそれは、壊れて動かない小型の音機関である。細かい部品取りには一から作成するよりも手間が掛からないため、ディストはそういったスクラップの回収などにも積極的なのだ。

「てめえ、何で指示した通りにしなかった? 俺はあのレプリカの同調フォンスロットを、俺に向けて開けと言ったはずだ」

 濃い碧の瞳でぎらりと睨み付けられる。普通ならば背筋を震え上がらせるようなその眼光も、今のディストには何の効果も持たない。薄い唇の端を引き、にんまりと笑みを浮かべながらアッシュに向き直った。

「自分の身代わりに殺すレプリカを何に使うんですか、貴方。まあそれはともかく、危険だから止めたんですよ。普通のレプリカでしたらいざ知らず、貴方とレプリカルークでは問題が起きることが分かりましたのでね」
「危険? 問題だと?」

 ぴくり、とアッシュの片眉が動いた。規則的なしゃっしゃっという音が始まり、それと共に音譜盤に記録されたデータをプリントアウトした紙が続けざまに吐き出され、トレイの中に溜まっていく。

「大爆発ってご存じですか?」

 トレイの中から紙の束を取り出してケースに収めながら、何でもないことのようにディストは尋ねた。アッシュの要請を実現させなかった、最大の理由。

「……何だ、それは」

 アッシュは顔をしかめ、尋ね返す。やはり知らなかったかと小さく頷いて、ディストはまた別のケースを取り出した。印刷音はずっと続いており、空になったはずのトレイはいつの間にか印刷済みの紙で満たされている。

「オリジナルと、完全同位体であるレプリカとの間に起きる現象です。まあ最終的にはオリジナルがレプリカの身体を乗っ取る現象なんですが、その前にオリジナルの方に音素乖離が起きるんです」
「何?」
「オリジナルの音素が、レプリカの肉体を乗っ取るために少しずつ流れ込むんですよ。外から見ればオリジナルが音素乖離で弱っていくように見えますね。そうして最後にはオリジナルの肉体は乖離を起こして消え、その構成音素は全てレプリカに流れ込み肉体と人格を己のものに書き換える。レプリカは自身が持っていた記憶だけを残して、全てをオリジナルに奪われて消えます」

 ディストの言葉に合わせたかのように、印刷機器の音が止まる。どうやら印刷は終了したようだ。全ての紙をケースに収めると中から1枚だけを取り出して別に置く。続けてディストは便箋とペンを手に取った。

「なん、だと」

 一方、アッシュはまくし立てられた言葉の意味を理解するのに僅かながら時間を要した。とりあえず、重要と思える単語だけをピックアップしてその意味を探る。

 オリジナルがレプリカの身体を乗っ取る。
 音素乖離。
 レプリカは、記憶だけを残して消える。

 恐らく重要であるのは、これだけ。
 そんなことをディストが自分に告げる意味は、ひとつしか無い。

「……ふざけるな」

 露骨にアッシュの顔が歪んだ。訳も無く憎悪と、それとは別の負の感情が胸の中を満たす。
 そんなアッシュの様子を視界の端で捉えながら、ディストはなおも言葉を続けることにした。文章を綴り終わった便箋を軽く振って乾かし、先ほど取り出した紙とひとまとめにして折り畳む。純白の封筒を取り出し表面に宛て名をさらと書き入れて、便箋を中に入れ蝋で封を閉じて完成。

「コーラル城であの子を調べて分かりましたが、貴方とレプリカルークは振動数を同じくする完全同位体です。ですから、何らかの対策を取らない限りいずれは大爆発が起きます。貴方は音素乖離を起こし、最終的にレプリカルークを乗っ取る形で彼と一体化するんですよ。その時に、彼が持っている7年分の記憶だけは、貴方の中に残りますけどね。ま、あの子が死ねばそもそも音素乖離も起きなくなりますかね」
「……冗談じゃねえ。あんな屑の記憶なんざ」

 けっと唾を吐き出すような仕草を見せ、アッシュはディストを睨み付けた。以前はそれだけでこの細身の学者は震え上がったものだったが、今の彼は平然と殺気のこもった視線を受け流している。ほんの数日の間に、何がこの男を変えたのかとアッシュはいぶかった。

「良いんじゃないですか? 彼はその7年間『ルーク・フォン・ファブレ』として生きてきた。貴方の代替としてお父上やお母上、ナタリア王女と接してきた。預言の通りに死ねば良し、そうでなくともその記憶を譲り受けるんですよ? 大爆発が起きたなら貴方自身とレプリカルークの記憶を融合させて、後は素知らぬ顔で元のルーク・フォン・ファブレとして生きればよろしい。後始末は私がしておきます」

 余裕のある笑みをその顔に浮かべたまま、ディストはアッシュにそう告げる。瞬間、アッシュの端正な顔を怒りの感情が埋め尽くした。それはつまり、彼が『アッシュ』として生きてきた7年間を全て消去するということなのだと理解したから。

「ふざけんな! それは俺の記憶じゃねえ、あの屑の記憶だ! 第一、あんな奴と俺を一緒にするな!」

 7年を自身の代替物として暮らしたレプリカルーク。その記憶を自分の内に取り込むことを、アッシュは拒絶した。
 確かにディストの言う通り、レプリカルークの記憶を内包してファブレ家に戻れば自分は元の『ルーク・フォン・ファブレ』として生きられるかも知れない。だが、その中の少なくとも7年間は己では無い、別の存在が『ルーク』であったことに間違いは無いのだ。いくら自身の権利といえど、他の誰かが存在した場所にのうのうと戻ることはアッシュには出来ない。
 何故なら。

「つまり、貴方とレプリカルークとは別の存在だと、そう認めるんですね?」
「……ああ」

 そう尋ねてきたディストに、アッシュは一瞬躊躇いつつもしっかりと頷いた。
 いくら同じ姿、同じ顔、同じ声を持っていてもレプリカルークは自分とは違う。
 自分はあそこまで情けない男では無い。人を殺すことに怯え、敵の目前で簡単に意識を手放してしまうような。
 あのレプリカは自身の写し身ではあっても、自身そのものでは無いのだ。

「結構」

 アッシュの答えを聞き、ディストはレンズの奥の目を細めた。
 ジェイドの願いは、ルークを死なせず1人の人間として生きさせること。それは即ち、アッシュとルークがそれぞれに自身を確立し共に生きること。
 アッシュがどう言った思考を取るにせよ、ルークを自分とは違う存在であると認識していることはその願いへの第一歩となる。
 友の願いを叶えるための第一段階は、クリアされた。その事実が、ディストの白い顔に笑みを浮かばせた。

「それで良いんですよ、アッシュ。如何に複製体とて、7年も別の人生を生きればそれは立派にひとつの人格を持った1人の人間です。貴方とは違う存在だ。モースも主席総長も、何でそんなこと分からないんでしょうねえ?」
「なっ……てめえ、謀ったか」

 穏やかに言葉を紡ぐディストの胸倉を、アッシュの手がぐいと掴み上げた。彼は元々左利きであったが、貴族としての教育を受ける中で利き手を矯正され現在は右利きである。矯正されること無く育てられ左利きのままのルークとは、この点でも異なる。
 その右手を軽く自身の掌で叩き、ディストはにっこりと笑ってみせた。普段彼が見せるのとは違う暗さのない笑みに、一瞬アッシュの手が緩む。

「貴方の本音を聞きたかっただけですよ。……私の大事な人は貴方とレプリカルーク、どちらが死ぬことも望んでいませんから。預言通りにレプリカルークを死なせるわけにも、貴方と彼を融合させるわけにも行きません」


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