紅瞳の秘預言20 亀裂

 寝息がそこかしこから聞こえる。
 アニスとイオンはアリエッタと共にライガとフレスベルグの懐にくるまっており、ルークはガイの肩にもたれかかっていた。ミュウを抱え込んだティアは、ナタリアと寄り添うように壁を背に座っている。
 ジェイドは中を覗き込んで全員の無事を確かめると、再び出口から外へ出た。はしごを降り、雲の切れ間から見える夜の星を視界に収める。

「……空、近いですねぇ」

 ぽつりと呟かれたのは、今はまだ彼以外には意味を理解出来ないであろう言葉。
 『記憶』の世界では、ルークとアッシュの力により外殻大地が魔界へ……本来あるべき位置へと降ろされた。そのため、空は今見ているよりも遠くに感じられるようになった。もっともそれは、ユリアの提唱により外殻大地と言うものが形作られる以前にあった当たり前の風景なのだけれど。
 今はまだ、この外殻大地の遥か下には剥き出しのマントルと液状化した地殻の一部、その上にぽかりと浮かんでいるユリアシティが存在するだけだろう。ホドはセフィロトの機能が停止したため、崩落から1か月ほどで海の中に沈んだと『記憶』の中で聞いている。
 外殻を支えているセフィロトツリーの耐久限界は既に尽きかけており、いずれ大地を魔界へと降下させねば世界は滅ぶ。そのためにはプラネットストームを停止させて地殻の液状化を止めなければ、降下した大地がいずれマントルへと飲み込まれてしまう。

「先は長いですね。……やるだけですが」

 アクゼリュスセフィロトを破壊してアルバート式封咒を解除し、残る6のセフィロトを回って大地降下のためのプログラムを書き込む。
 両極に位置する2つのゲートから第七音素を用いて操作を行い、広大な大地を一斉に降下させる。
 自国繁栄のための戦争を始めたいキムラスカを説得し、預言の遵守にこだわるユリアシティを説得し、マルクトとの間に和平を結ばせる。
 地殻液状化の原因である地核振動を止めるために2つのゲートに赴きプラネットストームを停止させ、封じ込められているローレライを空へと還す。
 プラネットストーム停止に伴うエネルギー枯渇問題の解消のため、代替エネルギーの開発に着手する。
 そして、世界を丸ごとレプリカに書き換えようとしているヴァンを止める。
 まだまだ、すべきことは山積している。その全ては未だジェイドの『記憶』に記されているのみだが、オールドラント維持のためにはクリアーせねばならない問題ばかり。その上でジェイド自身は、『記憶』の中では失われてしまったルークを世界に留めるための研究を進めることが必須となる。
 道は険しいが、それでもやるしか無い。
 でなければ、時を遡った意味など無いのだから。
 たった1人を救うために時を戻って来たのに、その1人には嫌われてしまったけれど。

「ルークに、嫌われちゃいましたねえ」

 言葉を吐き出すと、少しだけ胸の重みが楽になった。
 『記憶』の世界ではこの後、親善大使に任命されたことで増長したルークが同行者との間に溝を作り始める。それはアクゼリュス崩落を招き、魔界の海で決定的な亀裂を作った。孤立したところに追い打ちを掛けるように、自身が複製体だと知らされたことでルークは心のどこかを壊してしまい、泣きそうな笑顔しか浮かべられなくなった。
 今の世界では、きっとルークはそうはならない。そうはさせない。
 代わりに孤立するべきは、一度過ぎ去った時間においてあの少年を見捨て、嘲り、あまつさえ死を強制した自分自身なのだとジェイドは確信している。
 だから笑って突き放した。
 今のルークならば、孤立することは無い。ガイやティア、そして何よりもミュウが傍にいてくれる。
 自分は意味の無い笑みを浮かべ、彼らの背中を守っていればそれで良い。
 彼らに知識を与え、ルークを死なせぬために走ればそれで良い。

 それで良いんですよね。
 嫌いな相手が死んで、悲しむことはありませんから。

 自身は、ルークを失って初めて悲しみと言う感情を知ったような気がする。
 あの少年がこの感情を知らなくて済むのなら、それはそれで構わない。
 今とは違う未来で犯した罪に対する、これは罰なのだ。


 微かに、足音が聞こえた。一瞬身構えかけたが、敵意を持たぬ人間の靴音であることに気づいてジェイドは緊張を緩める。

「カーティス大佐。今、よろしくて?」

 柱の向こうから恐る恐る顔を出してきたのは、金の髪の王女だった。ジェイドは眼を細め、微笑の表情を顔に貼り付けると彼女に向き直る。愚か者の感情を、気取られる訳には行かない。

「はい、構いませんよ。何でしょう、ナタリア」
「済みません。失礼いたしますわ」

 そろそろとはしごを下りてくる彼女を、ゆっくりと歩み寄りながら待ち受ける。弓と矢筒を携えていないのは、直前まで眠っていたせいだろうか。
 手を取って貰いながら地面に降り立ち、ナタリアはジェイドの端正な顔を一度見上げたがすぐに伏せてしまった。ごくりと息を飲み込んで、どこか不安げな表情を浮かべながら口を開く。

「ルーク……いえ、アッシュのことなのですけれど」

 大地に視線を落としつつ口を濁すナタリアの表情を、ジェイドが覗き込むことは無い。下りてきたときに手を取りはしたものの、その後は距離を置き口を閉ざしたままじっとナタリアを見つめていた。普段は血の色にも思える瞳が優しい光を宿していることに、本人は気づかない。自分はあくまで冷徹な軍人を演じ切れている、と信じ込んでいる。
 彼と視線を合わせないまま、ナタリアはゆっくりと問うた。きっと、ジェイドで無ければ答えられないであろう問いを。

「……私のルークは……アッシュは、彼は、昔のことを忘れてしまっているのでしょうか」
「いいえ。アッシュはずっと、貴方を思っていますよ。別れ際に、貴方のことを頼まれました」

 二、三度首が横に振られると、くすんだ金髪がさらさらと微かな音を立てて流れた。顔に僅かに掛かった髪を掻き上げながら、ジェイドは凍った笑みのまま答える。
 かの青年がナタリアのことを忘れていたならば、間違っても頼むなどとは口にはしない。視線を逸らしてしまったのは、美しく成長した彼女を間近に見るのが気恥ずかしかったせいだろう。

「ダアトにいた7年の間、かなり厳しい生活に加え洗脳教育を施されていたようです。それでも自分を失わなかったのは、彼の心の中にずっと貴方がおられたからでしょう」

 ジェイドは言葉を濁すことをせず、アッシュの置かれていた立場をはっきりと語る。ナタリアの元々白い顔から更に血の気が引いていくのを承知の上で。

「洗脳……」
「ええ。でも、大丈夫ですよ。今日見たところでは、既にその影響からは抜け出せているようですから」

 『覚えて』いるこの時期の彼よりもずっと柔らかく、穏やかな表情をアッシュはしていた。ルークとも剣を抜くこと無く言葉を交わし、微笑みすら浮かべていた彼がヴァンの洗脳から解き放たれていることを、ジェイドは疑いもしない。
 故に、未来の預言とも言うべき言葉をナタリアに贈る。

「また、彼とは会えます。その時は手を繋いで、離さないでください」
「それは、もちろんですわ」

 胸元で握りしめられたナタリアの手に力がこもる。次に彼と彼女が会えるのは恐らく崩落直前のアクゼリュス……その時にアッシュがヴァンに奪回されることが無ければ、彼らの和解ももっとスムーズに進むだろう。少なくとも幼いアッシュを知っているナタリア、そしてガイとはもう少し仲良くあって欲しい。エルドラントで1人、彼を死なせないためにも。

「ルークのことは、どうなさいますか?」

 もう1人の幼馴染みである朱赤の焔のことを、ジェイドはそっと尋ねた。恐らく彼女自身、どう接して良いのか分からなくなっているに違いない。『記憶』の世界ではルークをアッシュと切り離し、もう1人の幼馴染みとして接するようになってはいたが、そこまで辿り着くのに時間が掛かったのも事実だ。

「……申し訳無いのですが、彼のことは貴方がたにお任せしてもよろしいでしょうか?」

 ジェイドが予測していた答えをそのまま、ナタリアは返してきた。上げられた顔は未だ不安に揺れており、視線もそこはかとなく定まってはいない。雲の間から漏れる月光に照らされ、白い肌が更に青ざめて見える。

「その……戻ってきてから、いいえ生まれてからですわね。7年お付き合いしてきたのですから、彼も私にとっては幼馴染みなのだ、と言うことは分かっているつもりですの。けれど、もしまた本当のルーク……いえ、アッシュが目の前に現れたら、私はどうして良いのか……」
「分かりました。急な話でしたし、まだ心の整理が着いていないでしょうしね」

 戸惑うナタリアに、ジェイドは頷く。彼女は心を落ち着かせた後ゆっくり考える時間を与えれば、2人のルークとの付き合い方に答えを出すことが出来る。だから、その時間を作るべきであることは分かっていた。
 もっとも、その時間を作り出せるのはもうジェイド自身では無いのだけれど。

「多分ルークはもう、私のことは嫌いでしょうから。あの子のことはガイに任せようと思います」

 無意識に眼鏡の位置を直しながらジェイドが言うと、金の髪の少女ははっと彼の顔に視線を向けた。年齢を感じさせない整った顔立ちから感情が薄れていることに気づき、少し悲しげな表情になる。ナタリアの表情の変化に眉をひそめたジェイドに、彼女は思わず目を逸らしながら言葉を続けた。

「……ガイは、いつ気づいたのですか?」
「カイツール軍港で、フォミクリーについて説明したときですね。アッシュとはその前に顔を合わせていましたし、コーラル城にフォミクリーの音機関がありましたから」

 うっすらとした笑みを作り、ナタリアの問いに答えるジェイド。月の光が翳ると、闇の中に溶け込んでしまいそうになるその姿を追いかけそうになってナタリアは、一瞬口ごもった。


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