紅瞳の秘預言20 亀裂

「……カーティス大佐」
「はい」
「ルークが変なことを言ってしまいましたわね。申し訳ありません」

 再び口を開いた時、彼女が言葉にしたのはそれまでとは別の話題だった。一瞬ジェイドは何のことかと整えられた眉をひそめかけ、ルークが彼に対し自分を笑っているようだと発言したことにやっと思い至った。彼の中ではもう、それは当然のことだとけりを着けていたのだから、致し方ないのかも知れないが。

「いえ。的確な指摘だと思います」

 故に、ナタリアへの答えも平然とした口調で紡がれる。再び貼り付けられた酷薄にも見える笑みは、彼の内心を王女に知らせることは無かった。

「私はこの通りの性格ですから、あまり他人の感情に配慮することが出来ないんですよ。ですから、ああ言われても仕方がありません」
「そうでしょうかしら」

 口元に手を添え、ナタリアが首を傾げた。初対面時はジェイドに対しあまり良い印象を持っていなかったナタリアだが、ここ数日の体験や以前から彼を知る同行者たちの言葉から彼女にも思うところがあったのだろうか。

「確かに大佐には、私どもに何か隠さねばならない事情がおありなのでしょう。所属する国も違いますし、立場も違うのですから当然のことですわ。それに以前なさっていた研究などに関しては、守秘義務もおありになるのでしょうから」

 年若く、父王やジェイドに比べれば政治に触れる経験はずっと少ないナタリア。彼女の多くは無い経験と、いずれは赤い髪と碧の瞳を持つ夫を迎え王妃となるべく教育された知識を元に巡らせた考えを、時折口ごもりながらもナタリアは言葉にする。ジェイドにはジェイドなりに事情があるのだと、彼女は納得しようとしているらしい。……無論、彼らに明かすことの出来ない事情は存在しているのだけれど。

「それでも、現在の時点で明らかにすべき事柄は全て明かしてくださっている、と私は思うのです。まだ明かしてくださらない事実があるのならそれらはまだ、私どもにお伝えくださるには時期が早すぎると言うことなのでしょう?」
「……そう、ですね」

 王女の言葉を否定することも出来ず、ジェイドはただ頷くしか無い。ナタリアの言葉は全てが彼の考えを映し出したものであり、つまりナタリアはジェイドの考えを全て読み取っていると言うことになる。自身の半分ほどしか生きていない彼女に考えを読み取られてしまうとは、と心の中でだけ苦笑を浮かべた。

「7年前、ルーク……アッシュが誘拐されたことは、誰にも話すなと父に堅く口止めされました。戻ってきたルークが白紙状態になってしまっていたことも、それ以来屋敷に軟禁されるようになったことも、全て」

 さらり、とナタリアが口にした言葉を、軍人は危うく聞き逃す所だった。だがそれらの事実はルークや彼にまつわる人々を観察していれば容易に推察が可能な事項であり、それを今更言葉にした彼女にジェイドは首を傾げる。
 一度空に目を向け、再びジェイドの顔を視界に入れたナタリアの顔は、夜にあって明るい花のように綻んでいる。少し悪戯っぽい笑みを浮かべ、軽く肩をすくめて見せた。

「明かせない事情を今この場で明かせ、とは申しません。ですが、いつか貴方がお話ししてくださっても構わないと思えるようになった時に、どうか私の耳元にでも構いません。そっと教えていただきたいのです」
「……お約束いたします、ナタリア王女。いつか、必ず」

 彼女の言いたいことをやっと理解して、ジェイドは笑みを凍らせたまま頷いた。
 ルークがレプリカであると言う事実を、恐らくガイはアッシュと初めて顔を合わせたときに薄々気づいていただろう。だが、ジェイドが『証拠が挙がれば必ず話す』と約束したために、ずっと待っていてくれた。
 ナタリアも、この約束をずっと覚えていて待ってくれるだろう。だからこそ、ジェイドは約束を交わした。

 ルークは、このままだと死にます。アッシュと1つになって、記憶だけを残して。
 貴方は、インゴベルト陛下の娘ではありません。本当の父親は──六神将『黒獅子ラルゴ』です。

 今、そのような『事実』を口になど出来る訳が無い。
 いつかは知れてしまうことだけれど、今彼らに申し渡す訳には行かない。
 まだ、時は満ちていないのだから。

 ふと気がつくと、ジェイドのすぐ目の前までナタリアが歩み寄っていた。ぽかんと目を見張る彼の顔を、身長差故に下からナタリアが覗き込む格好になる。じっと見つめるその瞳は真剣な光を纏わせていたが、ふっとそれが緩んだ。

「その……私が申し上げることでは無いのかも知れませんが、大佐。どうぞ、ご無理をなさらないよう」
「無理、ですか? 私はそんな……」

 唐突にそんなことを言われて、思わず視線を逸らす。が、筋の通った鼻の頭につん、と白い指を突きつけてナタリアは少し怒ったように眉根を寄せた。

「いえ。ご自身はそうでは無いと思っておられるのかも知れませんが、私から見ればかなりご無理をなさっておられるように見受けられます」
「……せいぜい、気をつけますよ。皆さんに負担を掛けるわけには行きませんからね」

 これ以上彼女の意見を否定していても話は進まない。それに気づき、ジェイドは素直に忠告に答えることにした。作った笑みに、感情は乗せない。
 彼女もまた自分から離れ、ルークとアッシュの傍で花のように笑っていてくれれば、それでジェイドは安心していられるから。
 それなのにナタリアは、その花の微笑みをジェイドにも向けた。

「ルークやミュウが貴方に懐いた理由、少し分かったような気が致しますわ」
「は?」
「ふふ。では、お休みなさいませ。お役目、お疲れさまですわ」

 言葉と笑みを残し工場内へと戻ったナタリアを見送りながら、ジェイドは不思議そうに首を傾げる。それは、子どもが純粋な疑問を持った時のような表情だった。
 いや、純粋に疑問なのだ。
 ジェイド自身には、その理由が分からなかったから。

「……やはり私は、どこかおかしいんでしょうかね。人間として」

 少しだけ思考に沈み、それでも理由を思いつくことの無いままジェイドはぼそりと呟いた。
 己が誰かから好かれる理由など、少し働き過ぎの癖に重要な問題を解決することも出来ない頭脳と、敵を殺す力だけは十分すぎるほどの譜術くらいしか思い当たらない。ピオニーやサフィールは違う、と言うことは理解出来ているのだが、さてその理由はと問われると首を捻るしか無いのだ。

「……余計な能力だけ多くて、肝心の力は手に入らない。本当に役立たずですね、私は」

 雲間から月の光が、彼を照らし出す。空を見上げると、雲はその数をかなり減らしていた。明日は多分、今日のように雨は降らないだろう。……こんな簡単なことも、預言を詠む力を持たない彼にははっきりとは分からない。ただ、空模様から推測するのみだ。

「ローレライ、聞こえますか……聞こえませんよね。私には、貴方と通じ合う術は無い」

 そうして、ジェイドが呼ばわった名を持つ相手とも言葉を交わすことは出来ない。
 その名で呼ばれる者はジェイドが扱えない唯一の音素が集まり、自由意志を持った存在。『記憶』の世界で彼がティアの身体を借りた時のように、何かの媒体を通してで無ければジェイドはその言葉を聞くことも出来ないのだ。
 そう、彼は信じ切っている。
 いつか、歌を歌えと己に呼びかけた存在のことをジェイドは、綺麗に忘れてしまっているのだから。

「おかしな話ですが、私に第七音素の素養があれば良かったと、これだけ思ったことはありませんよ」

 だから彼は、ただの独り言のつもりで呼びかけている。一度声を聞いた存在に対してでは無く、今地核にその存在を沈めているはずの意識集合体に向かって。

「私が譜歌の力を引き出せるのならば、今すぐにでも貴方の力を借りるのに。あの子では無く、私がアクゼリュスを壊すのに。──私が貴方を解放して、エルドラントで消えるのに」

 誰にも打ち明けられず吐き出した言葉に、風が応えた。

 そう、思ってくれているだけで十分。
 きっとあの子は、彼は、貴方の思いを分かってくれる。
 ……歌ってくれますか。貴方の歌を。

 風の中にそんな声が聞こえたような気がして、ジェイドは目を瞬かせた。どこかで聞いたような女性の声だけれども、今の彼にはそれが何処だったのか思い出すことは出来なかった。

「私の歌は、意味を成さない。それでも、良いですか」

 けれど、その声が幻聴だとは思わなかった。姿は見えないけれど、確実に誰かが傍にいてジェイドの歌を望んでいるのだと、それだけははっきりと分かったから。
 そうして、声の主は頷くような気配を感じさせた。雨が降っていたせいか僅かに掛かり始めた霧の中に、うっすらと幻が浮かび上がったような気がする。

 歌ってください、譜眼の主。
 眠りの縁にいるあの子が、未来でも笑ってくれるように。

「はい。……ルークが笑ってくれるなら」

 ティアと良く似た女性の姿に導かれるかのように、ジェイドは旋律を紡ぎ始めた。
 彼が唯一知っている、7つの歌を。


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