紅瞳の秘預言21 邂逅

 ヴァ・ネゥ・ヴァ・レィ……

 ジェイドの歌は、なおも続いている。歌詞を頭の中でずっと辿っているティアに、ナタリアが訝しげな表情を浮かべて問いを投げかけて来た。

「ティア。ユリアの譜歌と言うのは、こんなに長い譜歌なのですか?」
「……いえ、違います。これでは、まるで大譜歌だわ」

 軽く首を振りティアが答える。聞き慣れない言葉に、ナタリアは手入れの行き届いている眉をひそめた。

「大譜歌……ですか?」
「ユリアがローレライと契約を交わした時に歌ったという譜歌のこと。それぞれに固有の効果を持つ複数の譜歌を続けて歌うので、長くなるんです」

 ティアは、自分が知っている範囲で知識を披露した。と言っても、現在までに判明した事項を全て言葉にしたとして大した分量にはならないのだが。
 それに、今は意味が無い。
 そもそもローレライと言う存在は、その実在すらが疑わしい。またもし実在しているとしても、その存在との契約には果たして意味があるのだろうか。
 そして、根本的な疑問がここには存在していた。

「……でも、どうして大佐がご存じなのかしら。私でも、まだ全部の譜歌をマスターしている訳じゃ無いのに」
「ユリアの譜歌、と言うくらいですから子孫の方で無ければ歌えないのでしょうか?」
「どうかしら……それ以前に暗号が難しくて、マスターするのが大変なの」
「それを、ティアは歌える訳ですのね?」
「ええ、一応。まだまだ、初歩的なものしか歌えないんだけど」

 ナタリアと言葉を交わしながら、ティアは考える。
 自分は音律士としてはまだまだ駆け出しで、ユリアの譜歌も全てを歌える訳では無い。兄はそもそも音律士では無く、彼ら以外にユリアの譜歌の暗号を解こうと研究している者はいるが解読されたと言う話を聞いたことも無い。
 つまり現在、ユリアの譜歌の全て……即ちその全てを連ねることで構成される大譜歌を歌うことの出来る者はこのオールドラントには存在しないのだ。

 だから、ジェイド・カーティスが歌えると言うこの現実は、どこかおかしい。

 その疑問を、ティアとナタリアは個々の胸に納めた。実際に彼は彼女たちの目の前で、今も朗々と歌を奏で続けているのだから。誰が聞いているとも知らぬ、夜の舞台で。
 そんな中でひとりミュウだけは、どこか嬉しそうにジェイドの後ろ姿を眺めている。耳をくるくると回し大きな眼をきらきら輝かせ、彼は少女たちの顔を見上げて言った。

「みゅみゅ〜。すごいですの、ジェイドさんのお歌で音素たちが喜んでるですの〜」
「え?」

 慌てて彼女たちはジェイドに視線を戻し、じっとその後ろ姿を見つめる。と、彼を照らす淡い光に紛れてふわり、ふわりと光の粒たちがその周囲を舞っているのが分かった。歌い続けているジェイドがそれに気づいているのかどうかは、彼女たちには分からない。

「……本当、ね……」
「そうですわね……あれは、第七音素?」

 治癒士としての学問を修めているナタリアは、つまりティアやヴァンと同じく第七音譜術士である。だからこそ、あの光の粒が第七音素であるらしいことを把握出来る。そうして、その音素たちが恐らくはジェイドの歌に惹かれて集まっているのであろうことも。

「と言うことは、カーティス大佐は第七音素を扱えるのですか?」

 ナタリアが口にした疑問は、それらの事実を踏まえれば当然のものだろう。譜歌を扱える音律士はティアに代表されるように第七音譜術士であることが絶対条件であり、またそうでなければ第七音素を操ることは出来ないのだから。
 だが、ティアはその問いに首を横に振った。

「いえ。大佐はご自身には素養が無い、とはっきりおっしゃっていました。それでルークが、ジェイドにも出来ないことがあるんだなって」
「……確かに、かの『死霊使い』が第七音譜術士であるならば、キムラスカ側にも情報が漏れていて然るべきですわね……」

 彼女の答えにナタリアは頷き、考え込む表情になる。同じようにティアも、歌を聞きながら考えを巡らせた。ジェイドが譜歌を歌うことの出来る理由では無く、その歌に聞き覚えがあるような気がしたのだ。

「……何だろう……ずーっと昔に、いつも聞いていたような……」

 ……トゥエ・レィ・レィ

 青い背中が祈るように頭を垂れると共に、流れていた歌が途切れる。思考に沈んでいたティアは、その瞬間はっと思い出した。
 まだ幼い頃の記憶。薄闇に包まれたユリアシティで、ベッドに入った自分の意識を眠りの世界へと誘っていた旋律。
 枕元で子守歌をいつも優しく歌ってくれていたのは……この世界で唯一血の繋がった、肉親。

「兄さん……?」
「みゅ?」

 呆然とティアがこぼした言葉に、ミュウがきょとんと大きな眼を更に見開いた。


 アリエッタとその『友』の協力で湾を越え、ルークたちはケセドニアへの道を北上していた。ジェイドの『記憶』では砂漠にあるザオ遺跡に立ち寄っていたため少し遠回りせざるを得なかったのだが、今回はその原因となったイオンの拉致が未遂で終わったためにまっすぐケセドニアへと向かうことが出来ている。
 この場合、問題があるとすればケセドニアでヴァンに追いついてしまう可能性だ。しかし、ヴァンにしてみればルークたちがアクゼリュス入りするよりも早く自分たちが現地に入り、なおかつヴァン以外の先遣隊を神託の盾によって壊滅させた方が都合が良いのでは無いかとジェイドは考える。パッセージリングをルークに破壊させるその瞬間まで、ヴァンは清廉潔白なルークの師を演じ続けようとするはずだからだ。
 キムラスカ側の領海を監視している神託の盾には、先遣隊にヴァンが同行していると言う情報は既に入っているはずだ。彼らがヴァンの指揮下にある部隊でありジェイドの推測が当たっているならば、先遣隊への妨害は無いだろう。
 もうひとつ、リグレットの部隊がイオンの拉致に失敗したという情報も既にヴァンの元に伝わっていると見て良い。ならばなおのことヴァンは旅路を急ぐはずだ。先遣隊のメンバーにはアクゼリュスの状況が悪化している、とでも言えば足は早まる。

 まあ、こちらがグランツ謡将に追いつくことは無さそうですね。その方があちらが動きやすい。

 アリエッタを先頭に進んで行く若い親善大使とその同行者たちを視界に収め、ジェイドは少し離れて最後尾を歩いていた。アリエッタに同行していたライガとフレスベルグはそれぞれ先行し、周辺の警戒を行っているため前方の集団に姿は見えない。
 ルークの肩に乗っているミュウが、時折ちらちらとジェイドを振り返る。が、その度にルークの手が青い身体をぐいと引き戻す。相変わらず青いチーグルの仔はジェイドを気遣い、それに不服であろう赤毛の少年はこちらを一度も振り返らない。ごくたまに金髪の青年がこちらを伺うのが分かるが、その視線にも温度は無い。

 分かりやすいですねえ。……貴方がたはそのままでいてくださいね、ルーク、ガイ。

 思わず笑みをこぼしてしまってから、ジェイドは眼鏡の位置を直す。自分はあくまで、無知な子どもたちを嘲笑う冷酷な軍人を演じなければならない。そう決めてしまったのだから。
 ふと、ブリッジに掛けた指が止まる。足を早め、ルークたちのすぐ後ろに位置を取った。背後の気配が接近してきたのに気づいたガイが、肩越しに振り返る。

「どうした? 旦那」
「武装した部隊が近づいてきています。金属の摩擦音がしました」

 声を落としつつ、ジェイドがガイの問いに答えた。その台詞に、同行者たちが周囲に視線を向ける。
 草ずれの音とは違う、耳障りなノイズ。前線に出ることも数多いせいか、ジェイドの聴覚はそう言った音に敏感になっていた。譜業機関を携えていない状態での索敵には最重要な感覚でもあるため、今のように重宝することが多々ある。

「この先で道が合流してるから……そっちだな。神託の盾か?」
「少なくともマルクトではありませんね」

 視線だけを巡らせながら、ガイとジェイドは短い言葉を交わす。ルーク同様金の髪の青年もジェイドに対する感情はすっかり冷えていたが、それと彼の実力は別だと割り切っているようだ。
 同士討ちを防ぐため、マルクトの武装兵が動くときの音をジェイドは自分の頭に叩き込んである。微妙な差でしか無いが、それを聞き分けられねば味方を全滅に追い込むことすらあるのだから。

「ジェイド。大丈夫」

 不意に名を呼ばれた。ジェイドが視線を向けた先には、アリエッタがこちらを見て立っている。人形を胸元に抱えた彼女は、上目遣いながら微笑んでいた。
 空を横切る影に見上げると、フレスベルグが戻ってきたのか上空を旋回している。恐らくはこの友がアリエッタに、情報を伝えたのだろう。

「そうなんですか? アリエッタ」
「うん。フレスベルグがね、カンタビレだから大丈夫だって」
「え?」

 思わず目を瞬かせるジェイド。その答えは、程無く判明した。
 道同士の合流地点。別の方向に伸びている道に隊列を並べてルークたちと同じ方向に進んでいたのは、やはり神託の盾であった。白い武装で揃えられた兵士たちの先頭に1人、漆黒の詠師服を纏った女性がいる。その顔を見たティアが、「あ」と声を上げた。

「か、カンタビレ教官!?」
「おや。ティアじゃないか、久しぶりだね」

 ティアに気づき、ひょいと手を挙げた女性の左目は、眼帯の下に隠されていた。彼女が挙げた手をさっと横に振ると、神託の盾兵士たちはその場にぴたりと立ち止まる。つかつかと歩み寄ってきた彼女に、ティアは慌てて深々と頭を下げた。


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