紅瞳の秘預言23 和解

「……っ!」

 俯いたままだったルークが、きっと顔を上げた。勢い良く立ち上がり、廊下を走り出す。その膝から放り出された形になったミュウが、床の上で起き上がりながら大きな目をぱちぱちと瞬かせた。

「みゅみゅみゅ?」
「ルークっ……」
「ナタリア!」

 慌てて後を追いかけようとしたナタリアの足を止めたのは、振り返らないままのガイの一言だった。走り去ったルークを視線ですら追わずに青年は、膝をつきミュウを拾い上げながら言葉を投げる。

「ルークに任せよう。多分、俺たちじゃ無理だ」
「……ですが」
「旦那は、ルークに一番心を開いてた。だから、ここはルークが行くのが一番良い……後で、俺も謝らなくちゃいけないけどな」

 腕に擦り寄るチーグルの頭をゆっくり撫で、ガイはそこで言葉を切った。みゅう、と聖獣が一声鳴いたことをきっかけにイオンが立ち上がり、青年の言葉に頷く。

「そうですね……ルークにお願いしましょう」
「みゅうう。えとえと、結局ご主人様とジェイドさん、どうして喧嘩したですの? お互いのこと、嫌いじゃ無いですの?」
「ええ、嫌いじゃ無いですよ。でも、人間は難しい部分があるんです」

 ガイの腕の中で小さな腕を組んで考えるポーズを取ったミュウを、イオンの柔らかな手が優しく撫でる。喉を鳴らしてその感覚に答える聖獣に微笑みながら、少年は言葉を続けた。

「きっかけはきっと、些細なすれ違いだったんでしょう。ちゃんと向き合って自分の思いを言葉にしていれば、お互いにこんな気持ちにならなかったと僕は思うんです」
「確かにな」

 小さく溜息をつきながら、ガイが頷く。金の髪を指先で掻き回しながら思い出すのは、廃工場内でルークとイオンの正体が明かされた時のことだった。
 『何も知らない自分たちを笑っているように見える』と言うルークの指摘に、ジェイドは一瞬目を見張った。その後ほんの数秒の空白を経て、彼は何かを切り落としたように態度を変化させた。あれからガイは、ジェイドがルークを見ているときに良く浮かべていた優しい笑みを見なくなったことを思い出していたのだ。

「考えてみりゃ、旦那のルークへの対応が露骨に変わったのは廃工場からだ。……あん時のこっちの対応が拙かったんだな。俺が気づいてれば良かったんだが」

 多分その時に、ジェイドはその指摘を利用してルークに自分を嫌って貰おうと考えたのに違い無い。けれど、それからもずっと彼は自分たちの背中を護り続けていてくれた。何の弁解もせず、突き刺さる視線を笑って受け流しながら。
 イオンとガイを見比べながら、ナタリアがふわりと笑顔を見せた。ルークの背を見送っていた彼女は、その場にいる全員の顔を見渡すとゆったりと頷いてから口を開く。

「よく分かりませんけれど、過ぎたことは仕方がありませんわ。それに、何とかなりそうでは無くて?」

 かなり楽天的な彼女の言葉が、その場の雰囲気を僅かに明るく変化させた。確かに、あのルークの様子ならばジェイドの問題も解決出来そうな気がする。まだ他にも、解決せねばならない問題があるとしても。

「そうですね。ジェイドはルークにお任せするとして……アクゼリュスについては、先に進みながら考えましょう。第六師団も、アリエッタもついてくれています。きっと何とかなりますよ」
「うん。アリエッタ、頑張る」

 イオンの笑顔を受け取り、アリエッタも満面の笑みを浮かべる。と、純粋な瞳がぱちくりと瞬かれた。くるりと振り返ると、視界に入ったのは今までこの場にいなかった2人の少女。

「イオン様、何かあったのですか?」
「アニス、ティア。ええ、終わりましたから大丈夫ですよ」

 導師の少年はいつものように柔らかい、人当たりの良い笑顔で答える。が、アニスはイオンの顔と自分の背後……ルークが去っていった方向を見比べながら、訝しげな表情で首を傾げた。

「あ、あのう、ルークどうしたんですかぁ? 今そこですれ違ったんですけど」
「何だかルーク、怒っているように見えました」

 ティアも細い眉をひそめ、不思議そうに問いかける。確かに、先ほどまで別行動を取っていた彼女たちには一体何が起きたか分からないだろう。そう考えて、ガイは小さく溜息をついた。

「そりゃまあ、怒りもするだろうさ」
「ええ、全くですわ」
「みゅみゅ。ご主人様、ジェイドさんと仲直りに行ったですのー」

 肩をすくめたナタリアに続き、珍しくガイの腕の中にいるミュウが小さな手を精一杯大きく振る。その姿を見てティアがぼそりと「可愛い……」と呟いたのは、さすがに周囲にいる全員にも聞こえていた。


「ジェイド!」

 ばたん、と乱暴に扉を開き、ルークがずかずかと室内に入って来た。テーブルで書き物をしていた様子のジェイドは驚いたように顔を上げたが、少年の顔を認めると感情の無い笑みを浮かべる。

「おや、お帰りなさい。早かったですね」

 インクの蓋を閉め、ペン先を拭き取りながら立ち上がったジェイドの目の前までルークが歩み寄って来る。じろじろと背の高い全身を舐め回すように観察した後、全く着崩されていない軍服の上からぺたぺたと身体に触り始めた。ぎょっと顔を引きつらせたジェイドが、慌ててルークの身体を押し戻す。

「な、何ですか? ルーク、気持ち悪いですよ」

 僅かに強い口調でたしなめたジェイドの言葉は、ルークの顔を見たことで途切れた。端正な顔を見上げる少年の表情が、どこか泣き出しそうに眉を歪めていたから。

「……ま、まだやってない、よな?」
「何をです?」
「えっと、その、第七音素、取り込むっての」

 潤んだ碧の瞳に見つめられ、ジェイドが一瞬びくりと震える。ルークの肩に置いていた手をそっと外すと、青い右の手は当たり前のように左の腕を抱え込んだ。僅かに視線を逸らしながらゆっくりと頷いて、言葉を返す。

「……ご存じだったんですか。ええ、あれは直前に施術しないと保ちませんから」
「そんな、すぐに死んじまうのか?」

 が、続けてぶつけられたルークの問いに言葉を失った。真紅の目を見開き、唇を開きかけるがそこから声が漏れることは無い。返事の無いことに苛立ったのか、ルークはジェイドの両腕を掴むと顔を寄せて睨み付けた。

「イオンが教えてくれたんだ。あんたが第七音素取り込む譜陣を身体に着けたら使えるようになるけど、でも死んじまうって……本当か?」

 知られた。
 至近距離から見つめてくる碧の瞳を、ジェイドはまっすぐに見ることが出来ない。だが、やや間があってジェイドはゆっくりと頷いた。
 知られてしまったのならば素直に別れを告げて逝こう、と覚悟を決めたのだ。

「…………はい。そうすぐと言うわけでは無いと思いますが、間違い無く」

 目を閉じると、モースの成れの果ての姿が浮かび上がって来る。『記憶』の中で人の姿を失い、理性を失い、それでも預言の遵守にすがり続けたあげく無惨な最期を迎えた大詠師。
 自らに譜陣を刻めば、さほどの時間を経ること無くあのように壊れてしまうことは分かっていた。だからこそ、ルークに自分から離れて欲しかったのかも知れない。ジェイドはやっとそのことに気づき、瞼を開いて苦笑を浮かべた。

「何でそんな笑えるんだよ。お前、死んじゃうんだぞ!?」

 だが彼の心境を読み取ることの出来ないルークは、噛みつくように叫んだ。観念したように微笑んで、ジェイドが答える。

「ですが、貴方もアッシュも生きられます」
「……っ」

 一瞬息を飲んだことで、ルークの言葉が途切れた。その空白を利用してジェイドは、傍にあった椅子を引き少年を促す。ルークが腰を下ろしたことを確認し、自分は先ほど書き物をしていた時に座っていた椅子に戻った。
 テーブルの上に腕を置き、指を組みながらジェイドは改めてルークの顔を見つめる。どこか思い詰めたような少年の表情は、『記憶』の中で障気中和を行うと決めた時の表情にも似ていた。
 もう、あんな思いをさせるわけにはいかない。


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