紅瞳の秘預言27 崩落
一方アッシュは、ようやくローレライとの通信が切れたのか頭を軽く振った。苦痛に歪んでいた表情は落ち着いて、僅かに荒いままの呼吸を深呼吸で押さえ込もうとしている。
「ルーク、大丈夫ですの?」
「大丈夫だ、ナタリア。……アッシュで良い」
自分の本来の名を呼んだナタリアに、アッシュは唇の端を上げながらそう告げた。『ルーク』が2人存在すると言うこの状態に戸惑いながらも、本来の名を呼んだ方が良いのでは無いかとナタリアは思ったのだが。
「で、ですがルークは貴方の……」
「7年、アッシュの名で暮らして来たからな……もう慣れた。それに、ルークの名を取り返したらあいつに名前が無くなるだろう。己の名を失くすってのは、結構不安なもんなんだぜ」
「……」
はっとアッシュの顔を見るナタリア。今自分の目の前で苦痛の残滓に眉を歪めながらも微笑んでいるこの青年は、7年前に自身の場所と名を奪われたのだ。だから名前を……ひいては自分自身を失うことの恐怖、不安と言ったものを知っている。
今ガイの腕の中で眠りに落ちている少年は、7年前にアッシュの身代わりとして生み出された存在だ。故にその名も、アッシュが本来使用していたルークの名をそのまま付けられた。彼の名前と呼べるものは『ルーク・フォン・ファブレ』しか存在せず、その名を奪われてしまえば彼には『ルーク・フォン・ファブレのレプリカ』と言う立場しか残らない。
名前の無い『偽者』とされることにどれほどの不安が募るのか、今のナタリアには分からない。だが、そのような扱いを7年を共に育って来た幼馴染みに与えることに嫌悪感を持つのは、単なる同情からでは無いだろう。
「何、名前が変わったところで俺自身が変わる訳じゃねえ。違うか?」
穏やかで力強い笑みは、確かにすり替えられる前の『ルーク』のもの。名が『アッシュ』と変えられても、彼は彼なのだとその時、ナタリアの胸にすとんと落ちるものがあった。
「……そうですわね。私のルーク……いえ、アッシュ」
改めて『アッシュ』の名を呼び、ナタリアはその手を自身の両手で包み込むように握った。その優しい感覚に、アッシュが不思議そうに少女の顔を見つめて来る。
「何だ?」
「カーティス大佐に、言われたのです。次に会ったときは手を繋いで、離さないようにと」
「……ああ」
花が綻んだような笑顔でそう言われて、アッシュは思わず視線を逸らした。真紅の髪に負けないくらい頬が赤く染まっていることを自身は見ることが出来ないが、ナタリアの楽しそうな表情で何と無く把握は出来た。
「つまり、今地核にいるローレライが私の譜歌を標として、セフィロトの出力を調整してくれるんですか?」
ティアは、アッシュの少ない言葉から事態を理解したジェイドの説明を受けていた。
「そう言うことですね。ローレライがセフィロトツリーを再構築して、下からアクゼリュスの地を支えるんです。一時的なものですから支えきることは無理なようですが、そのままゆっくりと街ごと魔界へと降ろしてくれるようですよ」
『記憶』の中で外殻大地を魔界に降ろしたとき、ジェイドが考案した方法だ。あの時はルークが超振動を使って譜の記述を書き換えると言うかなり強引な方法を使ったが、少なくとも今回はローレライが力を貸してくれるようでジェイドはほっと胸を撫で下ろしていた。
「なるほどな。この街自体を巨大な昇降機にする訳か」
傍で説明を聞いていたガイも納得したように頷いた。彼はディストほどでは無くとも譜業には詳しいため、今後のことも考えて共に説明を聞いて貰っていたのだ。
「ティア、お願い出来ますか」
「分かりました、やってみます」
真紅の視線に、少女は決意の表情でしっかりと頷く。満足したように眼を細めてジェイドは顔を上げると、離れた場所にいる同行者たちに声を掛けた。
「皆さん、出来るだけ集まっていてください。万が一地面が崩れたりしても、ティアの傍にいれば大丈夫なはずです。アリエッタ、お友達も一緒にこちらへ。この状況では、上に出る前に怪我をしかねませんからね」
「はあい。イオン様、アリエッタ、行こう」
「は、はい」
「あ、はいっ! フレス、グリフ、お兄ちゃん、行くよ」
アニスがイオンを抱え、アリエッタの『兄』の背に預ける。『友達』と共にアリエッタが、ジェイドたちのところへ歩み寄って来た。まだ小刻みに地面は震えているものの『記憶』よりも余裕のある状況だからか、ジェイドの表情は先ほどヴァンと戦闘したときとは全く異なる穏やかなものだった。
「ああ、ティア。念のため、これを」
ジェイドはふと気づいたように、ポケットに放り込んでいたものを取り出した。アスランと合流した際に念のため、と1つだけ預かっていた腕にはめる形の小さな音機関。それを、ティアの手に渡す。
「これは……何でしょうか?」
「説明は後でしますので、取り急ぎ。手首に付けてスイッチを入れるとフィールドが形成されます。12時間は保つはずですから、その間は外さないようにお願いします」
「わ、分かりました」
真剣なジェイドの眼差しに気圧されるように頷いて、ティアは音機関を手首にはめる。スイッチを押し込むと、彼女の譜歌の1つ『フォースフィールド』にも似た透明な球体が彼女の全身を包み込んだ。その感覚はどこか暖かく、ティアの不安を一掃するものだった。
「では、お願いします」
「はい」
ジェイドの求めに応じ、ティアはゆっくりと譜歌を奏で始めた。と、歌声に反応したのか音叉にふわりと光が宿る。光の環の再生こそはならなかったものの、音機関を中心に金の光の粒……記憶粒子がゆっくり、ゆっくりと空間を舞い始めた。
金の光に包まれてジェイドはぼんやりと虚空に視線を漂わせていたが、突然びくりと身体を震わせた。はっと見開かれた目が、柔らかな光に吸い込まれるように視線を固定する。
光が……記憶粒子が内包する、ジェイドがかつて見た未来の断片。
それが、彼の眼前に幻のように展開していた。
深夜のタタル渓谷、セレニアの花が咲き乱れる中世界へと戻って来た『ルーク』。
けれど、彼は帰還を望んでいた『彼』では無かった。
高い空の下、かつて一万のレプリカが第七音素と化して消え去った塔の頂上。
空はどこまでも青く、その向こう側に垣間見える譜石帯が時折きら、きらと輝く。
ジェイドは目を閉じて、床に『ローレライの鍵』を突き立てた。その唇から流れ出るのは、大譜歌。
そうして、目の前に溢れ出た金の炎を認め、満足げに笑みを浮かべる。
全身に様々な譜が刻まれていることが、じくじくと自身を苛む痛みで把握出来た。
誰かに名を呼ばれて、振り返る。
一瞬だけ、真紅の髪が見えたような気がした。
その瞬間光景はぼやけ、その先は漆黒の闇の中へと消えて行く。
『記憶』は、それ以上の再生を許してはくれなかった。
──ああ、そうか。
その意味に気づき、ジェイドは舞い上がる記憶粒子を見上げながらゆっくりと目を閉じた。
意味が無いと分かっていながらも、自然に彼の喉からは譜歌が溢れ出る。歌い続けるティアと、意識を失っているルークを除く全員が自分に視線を向けたことには、まるで気づかない。
ティアの高い声とジェイドの低い声、2つの声が譜歌を奏でる中、彼らの身体を微かな浮遊感が包み込んだ。アクゼリュスの地がゆっくりと外殻大地を離れ、降下を始めたのだろう。
私は、貴方の力で戻って来たんですね……ローレライ。
私も、貴方も、ルークに生きて欲しかったから。
記憶粒子はティアとジェイドを包み込み、彼らが守ろうとする仲間たちを包み込む。
空間は光に満たされ、そこから溢れ出る力は1つの街を包み込み本来存在していたはずの場所へと誘う。
忘れていて、済みませんでした。
代償は、必ず払います。
歌いながらジェイドは、ぽつりと呟きを落とした。
PREV BACK NEXT