紅瞳の秘預言28 夢現

 長い、長い階段を必死に駆け上がっている。
 仲間たちも、後ろから追って来ている。いくつもの靴音が空間に響いているから、自分にはそれが分かる。
 塔を上下に貫いている昇降機は、とうの昔に役に立たなくなっていた。あれが動けばもっと早く辿り着けるのに、と苛つきながら最上階を目指す。動力を確保すれば動くか、と詳しい奴に聞いたが、肝心の部品がいくつか抜かれていて無理だと首を振られた。
 最上階に至るための昇降機だけは、辛うじて動いていた。ここに辿り着いた頃にはもう、自分たちを足止めすると言う思考も働いていなかったのだろうと思う。
 最後の仲間が駆け込んで来るのを確認もせずに、音機関の動作を開始させる。狭い空間は、重苦しい空気に包まれている。誰も言葉を発しようとせず、じっと何事かを考えているように見えた。
 ほんの僅かな休息の時間は、まるで永遠のようにも思えた。

 やっと辿り着いた塔の頂上。上空には抜けるような青が広がっている。
 かつて、1万の造られた生命が消え去ったこの場所。
 広いその向こう側に見えるのは金の炎と、それに相対するように立っている深い青の背中。

 特に手入れはしていないんですけどね、と苦笑していた長い髪は不規則な長さに乱れている。
 しわ1つ無かったはずの服はあちこち破れて、間から見える素肌には異様な譜が浮かび上がっている。

「──!」

 名前を呼んだのが誰だったかは分からない。あるいは、自分自身だったのかも知れない。
 けれど、その声に彼は振り返って──

 ──幸せそうに笑いながら、金の光に解けて消えた。


「……っ!」

 アッシュが跳ね起きたのは、何の変哲もない兵卒用の個室だった。小さな窓と微かに響く譜業機関の音が、ここが大地の上では無く航行している巨大陸艦の中であることを彼に教えている。

「くっ……」

 右手で顔を拭うと、寝汗をかいているのが分かった。乱れた前髪を無造作に掻き上げて、ベッドから立ち上がる。小さな窓から外を覗くと、相変わらず薄暗い空と澱んだ泥の海しか見ることは出来なかった。

「ち、まだ着かねえのかよ」

 悪態をついたところで、陸艦の速度が上がるわけでは無い。それを分かっていたからアッシュは、小さく溜息をつくとベッドに腰を下ろした。倉庫から勝手に借り出したマルクト軍服のアンダーシャツ、寝衣代わりに着用していたその胸元を緩めながらぎりと歯を噛みしめる。

「……夢、かよ……何てぇ夢だ……」

 言葉を吐き出しながらアッシュは、何故夢如きに自分がこうも苛つくのか奇妙に思っていた。
 自分が見たものは、ただの夢のはずだ。アクゼリュスの魔界への崩落と、それに伴う環境の激変でパニックを起こした自身の深層意識が見せた、ただの夢。
 行ったことも無い場所で、突拍子も無い出来事が起きていた。それはただの空想でしか無い、とアッシュは思う。空想にも、程がある。

「あれは何処だ……何で、死霊使いが消える?」

 夢の中で見た、ジェイド・カーティスの表情。金の光に消えて行く一瞬の、幸せそうな笑顔が脳裏に蘇った。
 何故あの男は、自らが消え去るその瞬間にあのような表情を浮かべることが出来たのだろう。
 あれがただの夢ならば、どうしてこれほどに腹が立つのだろう。

「……あー、胸くそ悪ぃ」

 アッシュは、あれほど幸福そうに微笑む彼を見たことが無い。
 己のレプリカやナタリアたちは散々世話になった相手だろうが、自分は数度会話をしただけの間柄だ。
 彼の影響を受けたディストによってヴァンの洗脳からは解放されたが、ただそれだけ。
 それなのに。

「何故、こんなに苛つくんだ……くそっ」

 がんと壁に叩きつけた拳が痛む。その鈍痛が、アッシュを無理矢理に現実へと引き戻した。夢の記憶を胸の奥底へと引きずり下ろして青年は、汗で濡れた服を着替えることにした。


 時間は、この半日ほど前に遡る。
 ローレライの協力を受け、アクゼリュスの街は動き始めてから数時間程で無事魔界へと落着していた。身体に感じる引力の変化でそれを感じ取り、一行はパッセージリングのある部屋から坑道を辿って地上へと出て来る。
 鉱山の街は、彼らが坑道に入る前の姿をほぼそのままに維持していた。ただ、街の外はぽっかりと切り取られたように崖になっており、その外側は地核の振動により液状化した泥の海がどこまでも続いている。
 上空に存在する外殻大地に遮られ太陽の光が届かないために空は薄暗く、ディバイディングラインによって抑えられている障気が充満しているために視界が良いとは言えない世界。
 『魔界』とは、良く言ったものだ。

「うわ、薄暗ーい……それにほんと、全体的に障気満タンって感じー」

 魔界育ちであるティアと『記憶』で経験のあるジェイドを除き、初めて見る魔界の光景。きょろきょろと周囲を見渡して、アニスがぶるりと身体を震わせた。イオンが空を見上げ、ふと何かに気づいて手を上に伸ばす。

「空に、穴が開いていますね」
「まあ、本当ですわ。あの部分だけ、明るいですわね」

 アッシュと寄り添うように歩いて来たナタリアが、イオンにつられるように視線を空に移した。アッシュもナタリアの視線を追うように空を見上げて、ほうと感心したように息を吐く。
 空を覆う天井に、ぽっかりと1個所だけ穴が開いていた。そこから降り注ぐ光は本来の大地にまではほとんど届かないものの、時折見えるそれが穴の存在を主張している。

「あれは、数時間前までアクゼリュスがあった場所だな。綺麗に穴が開いたもんだ」
「アリエッタたち、まっすぐ降りて来たの?」
「そうね、まっすぐ。街全体がセフィロトツリーに乗って、あんなに上からずっと下まで降りて来たの」

 『友』を連れ歩いていたアリエッタの不思議そうな声に、ティアが頷きながら説明する。1人意識が戻らないままのルークを背負っているガイがその説明を聞いて、くすっと軽く肩を揺らした。

「ローレライが手伝ってくれなきゃ、俺たちはずどーんと落下しちまってたな。下手すりゃ泥の海に落ちて、全員お陀仏だ」
「みゅみゅ? ボクたち、落っこちてたですの? ボク、泳げないですのー」
「そうだと思うぜ。そうならなかったのは、ローレライとティアのおかげだな」

 ルークを案じてずっとガイの足元をうろちょろしているミュウに、ガイは目を細めながら答える。ここでは見られない空の色を身体に持つチーグルは、嬉しそうに耳をひょこひょこ動かした。

「みゅう! ローレライさん、ティアさん、ありがとうですの! おかげで、ご主人様が助かったですの!」
「わ、私はそんな…………る、ルークはまだ目を覚まさないの?」

 一瞬困惑したように顔を赤らめてから、ティアはぷいと視線を逸らす。けれどその頬は赤いままで、ミュウの無邪気な賛辞に照れているのだと言うことが周囲には丸分かりだった。
 少女の台詞の中に出て来た少年の顔を、ジェイドが覗き込む。ガイの背にいる少年の瞼は固く閉じられ、開く気配も見せない。ただ、呼吸が落ち着いていることだけは分かった。
 それでも、『記憶』の世界ではこの頃に一度目を覚ましていたことを考えると、ルークの負担はその時以上だったと言うことになる。抵抗する術も知らぬまま流されて力を使わされたか、強引な発動に抵抗したかの違いだろうか。

「体内の音素は自然な流れに戻ったようですが、目覚めないと言うことは疲労が酷いのでしょうね」

 顔に掛かっている長い前髪をそっと指先で流すと、僅かに少年が呻いた。ほんの一瞬眼を細め、ジェイドの手が引かれる。軽く握りしめられた拳には、朱赤の髪が1本絡みついていた。

「俺は超振動を使っても、ここまで疲れることは無かったな……劣化していると言うことか?」
「劣化?」

 眠り続けるルークの様子を伺いながらアッシュの使った言葉に、ガイが露骨に眉をひそめた。
 だが、これは事実。
 人工的に生み出された複製体であるレプリカは、どうしてもオリジナルに比べどこかの部分で劣化が生じる。ルークの場合は超振動の最大出力と、そして髪の色だった。
 真紅であるアッシュの髪に比べるとルークの髪は明るい朱赤で、しかも毛先部分は更に色が抜けて金に変化している。これは恐らく、色素の沈着がアッシュよりルークの方が弱いからだろう。
 劣化と言われればそれまでかも知れないが、『記憶』の終わり頃からジェイドはこの差異を2人の個性だと考えるようにしていた。もっともその頃にはルークの髪は短くなっていて、毛先の金はついぞ戻ることは無かったけれど。

「ええ。ですが、どうもグランツ謡将はルークを使い捨てにする気だったようですから」
「アクゼリュスを破壊させて、崩壊に巻き込んで殺すつもりだったか。後腐れの無いように全力でぶっ放させやがったな」

 ぐしゃりと前髪を掴んだ手の下で、アッシュの眉が歪んでいるのがジェイドの目に入った。少なくとも、ルークに害を加えられたことに対しての表情だと言うことは理解出来る。
 それはつまり、このアッシュは己のレプリカであるルークに対してさほど負の感情を持ってはいないと言うことだ。そうで無ければ、この青年があれほど苦々しい表情を顔に浮かべることは無い。


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