紅瞳の秘預言28 夢現

 がり、と黒髪を掻いてカンタビレは、アスランの顔を見つめ直す。その表情はどこか訝しげで、言葉を発するまでに僅かながら時間を要した。

「ほんとにあいつら、戻って来られるのかい? 魔界に無事着いても、ちゃんとユリアシティに渡れるかどうか分からないよ。あっちの表面のほとんどはマントルと、毒を含んだ泥の海だからね」
「そのために、タルタロスをアクゼリュスと共に下へ降ろしてあります。水上航行も可能ですので、魔界での移動に支障は無いかと」

 唇の端を微かに引き上げて、アスランはすらすらと答えを提示した。ジェイドの『記憶』に基づき、住民を避難させるために派遣された他の艦とは異なりタルタロスだけは最初からそのつもりで派遣されていたのだ。
 いずれ訪れるであろう地核振動停止作戦へと繋げるためにも、タルタロスは彼らにとって必要な艦だから。

「……は。どこまで読んでんだい、あんたらは」

 さすがのカンタビレも、呆れ声を上げるしか無かった。未だ彼女は、彼らがジェイドから『未来の記憶』を聞かされていることを知らない。だから、この異常なまでの先読みはそれこそ何らかの方法で秘預言を手にしたとしか思えないだろう。
 マルクト皇帝たるピオニーが、預言を毛嫌いしていることさえ知らなければ。

「親善大使として派遣されたナタリア王女殿下、及びファブレ公爵子息ルーク様のお2方も未帰還です。キムラスカは彼らの行方不明を機として、我がマルクトに宣戦を布告して来ることでしょう」

 アスランは素知らぬ顔をして、事実と推測を口にした。いや、これもまた『未来の記憶』における事実。
 だが、それは現在の状況からも容易に推定出来ることであり、故にカンタビレも深刻な表情で頷いた。マルクトの異常な先読みはともかく、まずは目の前に突きつけられた問題に掛からねばならない。

「あのデブガエルが裏で糸引いてるんだろうね。それで、戦に狩り出されるのは真実を知らない下っ端連中ってことかい」

 がしがしと黒髪を掻き回しながら、カンタビレがちっと舌を打つ。彼女の言う『デブガエル』はモースのことだが、アスランは不思議そうに首を傾げた。長の方針もあり、マルクトはあまりダアト上層部とは関係が深くない。だから、アスランはモースがカンタビレの言うような容姿であることを寡聞にして知らなかった。

「あと、うちは確実に引きずり出されるねぇ。デブガエル……モースにとっちゃ、あたしは邪魔だから」
「大詠師のことでしたか。嘆かわしいことです」

 彼女の言い換えでやっと、アスランにもその意味が理解出来たようだ。一瞬吹き出した後彼は表情を改めて、声を低く落とす。

「我らは一般市民に被害が出ないよう、大至急撤退を開始します」
「あたしは知らんぷりして、ダアトに報告入れておく。ディストの身柄はそっちに?」

 青年将校の言葉に小さく頷き、隻眼の詠師もまた低い声で答える。キムラスカや大詠師派にこの会話を悟られる訳には行かない。何しろ、ローレライ教団大詠師派からの離反者に関する会話なのだから。

「皇帝陛下より勅命を戴いておりますので」
「分かった」

 アスランの返答に満足したらしく、カンタビレは踵を返した。これから自分たちは撤収し、ダアトの大詠師に報告を入れなければならない。その後のことは、その時になってから考えるしかないだろう。
 肩越しに振り返って彼女は、銀髪の将校にひらひらと手を振った。

「戦場で会ったら、お手柔らかに」
「それはこちらからもお願いしたいですね」

 思わずアスランが投げかけた言葉にカンタビレは、ぷっと小さく吹き出した。

 巨大譜業は、頭上のトレイから兵士たちを地面に放り出した後その場に大人しく座り込んだ。その横の空中にぷかりと浮かんでいる椅子に座す銀髪の男を包囲するように、マルクトの軍人たちが並んでいる。
 アスランが駆け寄って来るのを見ていたかのように、譜業椅子は音も無く降下して来た。思わず武器を構える部下たちをアスランは手で制し、自身の足で地面に降り立ったディスト──サフィールと向かい合う。

「サフィール・ワイヨン・ネイス博士でいらっしゃいますね? 自分はカーティス大佐の代理としてマルクト帝国軍第三師団の師団長を務めている、アスラン・フリングス少将であります」
「ご苦労様です」

 己の名を呼んだ軍人にサフィールは、腕を組んだまま薄く笑みを浮かべた。この態度の大きさは事前にピオニーやジェイドから聞いていたこともあり、アスランの気を損ねることは無い。ただ事務的に、彼が負うている罪状を口にするのみだ。

「貴方はマルクト帝国軍より、軍事機密漏洩及び脱走の罪で指名手配されております。マルクト領内に戻り次第、罪人として身柄を拘束されることになります」
「知っています。私は、それを覚悟でマルクトに戻る決意をしましたから」

 まっすぐにアスランを見つめ、ふんと鼻息も荒く胸を張るサフィール。だが、続くアスランの言葉に露骨に顔を歪めた。

「……しかしながら、ピオニー9世陛下より勅命が下っております。『サフィール・ワイヨン・ネイス博士については、その身柄を確保した後早急にグランコクマまで護送のこと。博士の扱いは皇帝ピオニー9世の直属とし、罪状については皇帝の名の下にこれを特赦とする』」

 目の前に広げられた命令書には、確かにピオニーの自筆署名が存在した。玉璽もくっきりと捺されており、それが勅命の書であることに間違いは無いようだ。

「ピオニーの直属に特赦? かなり無茶を言いますね……まあ、らしいと言えばらしいですが」

 細い顎に手を当てて、サフィールはしばし思考に耽る。レンズを通した瞳が再びアスランに視線を向けた時、そこに宿っていたのは周囲の兵士たちの背筋を凍らせるような冷たい光だった。

「その勅命に従うことは、ジェイドのためになりますか?」

 独特の少ししゃがれた声が、問いを発した。そこに感情を伺うことは出来ないが、アスランにはサフィールがそこに秘めた思いを垣間見ることが出来る。
 たった1人のために、何もかも捨て去ることを躊躇わないほどの思い。

「私がダアトを離れたのも、マルクトに戻るのも、全てはジェイドのためです。彼のためならばこの首、今ここで刎ねられたとて何も文句はありません。ですがそうで無いならば、私は国家反逆の罪もここで負いましょう。貴方の首を刎ね、皇都を血祭りに上げてみせます」

 仰々しく両手を広げ、その発言自体を反逆罪と取られてもおかしくないほどの過激な言葉を口にして、サフィールは真正面からアスランの顔を睨み付ける。これほどの思いがかつて彼をマルクトから出奔させ、ダアトの六神将たらしめたのだろうか。
 それだけの思いがあれば、問題は無い。アスランはうっすらと眼を細め、答えを口にした。

「自分がマルクト軍第三師団をカーティス大佐よりお預かりしていると言うその意味を、理解出来ぬ貴方では無いと愚考いたしますが」
「ジェイドのためを思わない者に、ジェイドの部下は預けられません」

 周囲の兵士たちには、これが成立している会話であるとは思えないかも知れない。だがサフィールとアスランは、互いの心境をこれで把握した。ここまで張り詰めていた空気は、サフィールが眼鏡の位置を直すことで僅かに緩む。
 アスランが、すっと足を踏み出した。サフィールの目前にまで辿り着くと、声量を落として問いかける。

「……ネイス博士は、カーティス大佐の『未来の記憶』についてご存じですか?」
「大雑把にですが、話を聞きました。その上で協力を要請され、必要なデータも受け取っています。……貴方、ピオニーに巻き添え食らいましたね」

 簡潔に、事実を言葉にしてサフィールは返答する。その後の台詞は、アスランがそんなことを知っている理由がそれくらいしか無いだろう、と言うある種の確認。
 そしてサフィールの言葉を、アスランは少々回りくどい言葉で肯定した。

「大佐は初め、お1人で『未来の記憶』と戦われるおつもりだったようです。皇帝陛下はその『記憶』を把握された上で、大佐と共により良い未来へ進むための力を必要としています」
「……ジェイドも無茶をしますねえ。ケテルブルクで育つと、無茶をするようになってしまうんでしょうか」

 くすくすと笑うサフィールの表情は、周囲から警戒されている犯罪者とは思えない優しいものだ。過去の彼を知っている人物がその顔を見たならば、一体彼に何があったのだろうと訝しむに違い無い。
 単純にこの譜業博士は、友情と己の為すべきことを手にしただけなのだけれど。

「その必要な力の中に、私も入っていると言うことですか。確かに私を手にすれば、譜業方面で強大な力を得ることは間違い無いでしょうからね」
「無論です。既に博士は、カーティス大佐のお力になっておられるでしょう?」
「……確かに」

 薄い唇に、満足げな表情が浮かぶ。サフィールは眼鏡の位置を軽く直すと、アスランの目の前に細い両腕を揃えて差し出した。

「さあ、グランコクマでも何処へでも連れて行きなさい。ピオニーがジェイドのために私を呼ぶと言うのなら、私は大人しく連行されましょう」

 晴れやかに微笑みながら、彼は声高らかに宣った。誰言うとも無く彼に冠せられた『死神』の二つ名がこれほど似合わない笑顔も、きっと珍しいだろう。


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