紅瞳の秘預言28 夢現

 ──……トゥエ・レィ・レィ

 何だろ?
 誰かが、歌を歌ってる。
 俺に来い、来いって言ってる。

「……ああ」

 あ。
 ジェイドだ。
 ジェイドの歌、一度聞いたことがあるじゃんか。やっと思い出した。

「やはり、降りて来てくれましたね。ローレライ」

 え?
 ローレライ?
 なあ、違うよジェイド。俺だよ。

「契約、しませんか」

 契約だって?
 ジェイドが、俺と?
 何の?
 ……そう言えば、どうしたんだ? ジェイド、おかしい。
 顔、何か模様入ってるし。服ぼろぼろだし。

「ルークが、生きてさえくれれば、私は」

 俺が、何?
 なあ。
 何でそんな、笑ってるのに泣きそうな顔、してるんだ?
 そんな、まるで、さようならって──

「ジェイド!」

 がばっとルークが跳ね起きた勢いで、枕元にいたミュウがころんと背後に転がった。うまく一回転して元の姿勢に戻ったチーグルの仔は、目の前で上体を起こしている自分の主の姿に大きな目をぱちくりと瞬かせる。

「みゅみゅみゅみゅみゅ?」
「る、ルーク?」

 ベッドサイドを離れ窓から外を見ていたティアが、2人の声に振り向いて目を見張った。慌てて駆け寄り、恐る恐る少年の顔を覗き込む。

「……あ、ゆ、ゆめ……?」

 量の多い前髪を掻き上げるルークの表情は、どこか冴えないものだった。ベッドの上からルークの膝に飛び乗ったミュウが、大きな瞳を潤ませながら必死に呼びかける。

「ご主人様〜、やっと起きたですの〜。大丈夫ですの〜?」

 膝の上にかかった重量が、ルークの視線をチーグルへと誘導した。明るい空の色の毛並みは彼にとって見慣れたもので、ルークはその呼称を思わず口にする。

「え……あ、ブタザル」
「はいですの! ボクはブタザルですの! やっとボクのこと、呼んでくれたですの〜」

 本来は蔑称であるはずの呼び方だが、ミュウにとっては敬愛する主が自身に付けてくれた名だ。それを呼ばれてミュウは、ジャンプするとルークの胸元にしがみついた。小さな手がシャツをしっかりと握りしめる感触が伝わり、少年は聖獣の小さな身体を腕の中に抱え込む。そっと撫でてやると、空色の身体が微かに震えているのが分かった。

「はいルーク、タオル」

 少年の膝の上に、ぽんと白いタオルが乗せられた。はっとルークが顔を上げると、そこにはティアのふわりとした笑顔がある。彼女も表情や態度には出さずとも、ルークの目覚めをじっと待っていた。

「汗びっしょりよ……良かった、もう大丈夫みたいね」
「あ、ありがと」

 言われてやっと、ルークは自分が寝汗をかいていたことに気づいた。ミュウの身体を落とさないように気をつけつつタオルを手に取り、片手で顔を拭き上げる。それから周囲に視線を走らせて、少なくともここがアクゼリュスでは無いことを悟ったようだ。

「……あれ、ここって……」
「タルタロスの医務室よ。私たちは、アクゼリュスの街ごと魔界に降りて来たの」
「街ごと……?」

 少女の説明に、ルークは目を丸くした。
 この少年はパッセージリングの機能停止と時を同じくして意識を失い、たった今までずっと眠りの中にいた。だからアクゼリュスが一体どうなったのかも、何故自分がタルタロスの中にいるのかも全く知らない。

「ええ。タルタロスも街と一緒に降りて来たから、使わせて貰ってるの。そうそう、街の人たちや救援部隊の人たちはちゃんと脱出出来ていたみたい」
「ほ、ほんとか?」
「はいですの! みんないなくなってたですの、きっと大丈夫ですのー!」
「……そ、そっか……」

 正確には、ヴァンの直属であった兵士たちの一部……ナタリアとアリエッタの暗殺任務を帯びた者、ティアの拉致を命じられた者たちはそれぞれに反撃を受け、全滅の憂き目に遭っている。だが、彼らはあくまで任務に殉じた者であり、その結果生命を落としたのは仕方の無いことだった。
 それにティアは『街の人たちや救援部隊の人たち』と言った。その中に、全滅した兵士たちは含まれない。

 詭弁よね。

 心の中で吐き捨てられたティアの言葉を、ルークが聞くことは無かった。腕の中ですりすりと自分に身体全体をすり寄せるチーグルに、少年は意識を奪われていたから。

「ご主人様、目が覚めて良かったですの! ボク、心配で心配で……」
「はは、ばっかだなてめーは。……心配かけて、ごめんな」
「だいじょぶですの。ご主人様が目を覚ましてくれただけで、ボクは嬉しいですの」

 そっと短い毛並みを撫でてやると、ミュウは嬉しそうに喉を鳴らした。その小さな身体を抱き直してルークは、自分をじっと見つめているティアに視線を移す。

「ティアも、ごめん。ずっといてくれたのか? もしかして」
「……ずっと目を覚まさなかったから。目が覚めてくれて、良かった」

 顔を伏せると、長い前髪がティアの表情を隠してしまう。だから、ルークにはティアの目が少し潤んでいたことは気づかれなかっただろう。ただ、少年の「ありがとう」と言う言葉はちゃんと彼女の耳には届いた。

「……なあ、ティア。それで、今どうなってるんだ?」

 恐る恐るルークが口にした問いに、はっとティアが顔を上げた。彼はたった今目覚めたばかりだから、自身の状況を把握出来ていないのだと言うことを今更ながら思い出す。

「そ、そうね。今はアクゼリュスを出て、タルタロスでユリアシティ……私が育った街に向かっている最中よ。少し時間が掛かるから、その間は身体を休めておきなさいって大佐がおっしゃってたわ」

 説明するのが面倒そうなタルロウのことなどはさておいて、ティアは簡潔に現在の状況を説明した。「ふうん、そっか」と大人しく説明を聞いていたルークだったが、ティアがジェイドを呼ぶときに使う『大佐』の単語を聞いてはっと目を見開く。まだ夢の余韻が残っているのだが、それをティアが知ることは無いだろう。

「……ジェイド! そ、そうだ、ジェイドどうしてる!?」
「え?」

 唐突に問われて目を瞬かせたティアは、慌てて要求された事項について記憶を探る。昼食少し前である今の時間ならば、確か艦橋で航路の確認を行っているはずだった。航行そのものはタルロウに任せているものの、細かい座標の擦り合わせなどでジェイドの力が必要な部分も未だ存在するのだ。

「……そ、そうね、今だと艦橋にいるんじゃ無いかしら。定期的に航路のチェックをしておられるから」
「さんきゅ! おらブタザル、行くぞっ!」
「はいですの!」

 だからそう答えると、ルークは勢い良くベッドから飛び出した。そこで靴を履いていないことに気づき、慌ててベッドサイドに揃えてあるブーツをいそいそと履き込む。終わったところでミュウを肩に乗せて、準備完了。

「それじゃティア、ちょっと行って来る!」
「みゅみゅ、レッツゴーですの!」

 どこか焦っているようなルークと、無邪気に主の復活を喜んでいるミュウを部屋から送り出しかけて……ティアは、扉の外に出かけた朱赤と白の背中に声を掛けた。

「あ、ルーク! もう少ししたらお昼ご飯だから、食堂に来てね!」
「おう!」

 威勢の良い返事と共に、ばたんと扉が閉められる。ばたばたと通路を駆け去っていく足音が聞こえなくなってから、ティアは大きな溜息をついた。


 アクゼリュスの魔界への降下中、ジェイドは自分と共にずっと譜歌を歌ってくれていた。自分は未だ全てを歌うことの出来ない大譜歌を、当たり前のように。記憶粒子が彼に寄り添うように舞い踊っていたことを、きっと彼自身は知らない。
 アクゼリュスが落着し、安定したところで歌を終えたティアはジェイドの方に向き直った。そして、一瞬言葉を失う。
 ぼんやりと立ち尽くしている青い姿が、記憶粒子の中に解けて消えるように見えたから。

「大佐……っ」

 呼びかけた声に反応してジェイドが振り返る。白い肌にほんの一瞬、歪な紋様が浮き出ているように見えて、慌ててティアは頭を振った。

「……どうしました? ティア」

 名を呼ばれ、少女が再度見直した時のジェイドは、普段通りの白い肌のままだった。真紅の瞳は柔らかい光を湛えていて、穏やかな笑顔はルークを見守るときと同じ表情だ。ただ、少し肌の色が悪いように思えてティアは、それを口実に使うことにする。

「……え、いえ……その、お加減が悪そうですけれど、大丈夫ですか?」
「? ええ、大丈夫ですよ。ご心配をお掛けしたのならば、済みませんでした」

 そう答えたジェイドの表情は、これまでに見たことが無いほど幸せそうで。
 けれどティアには、その笑顔がどこか希薄なものに思えて仕方が無かった。


 小さな窓から、再び外を眺める。薄暗い光景を映し出しているガラスは、うっすらとティアの表情をも重ねて映していた。ルークには見せることの無い、深刻な表情を。
 そっと自分の頬に手を当てながら、ほんの僅かだけティアは物思いに耽った。

 どうしてあの時、大佐が消えてしまいそうだなんて思ったのかしら。
 おかしいわよね、私。


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