紅瞳の秘預言29 作戦

 薄暗い空と、どんよりとした泥の海。
 タルタロスの甲板から眺めることの出来る魔界の光景は、360度全く同じものである。
 ジェイドは1人甲板に立ち、延々と続く光景をぼんやり眺めていた。本来陸上を走るために設計されているこの巨艦は、それでも通常の船と同等の速度を保ち泥の海上を疾走している。
 航路の定期チェックは既に終えてある。そのうち泥の付着による不調が起きるはずの駆動音機関も現在は正常に作動しており、ユリアシティへの到着は特に問題が無ければ明朝となるはずだ。
 だが、今のジェイドの表情は暗く沈んだものだった。仲間たちに見せていた幸福そうな笑顔とは対照的だが、これが現在の彼の心境を正確に表している表情と言えるだろう。

「……私は、ここでルークを壊したんでしたね」

 ぽつりと呟かれる言葉は、自身以外誰の耳にも届くこと無く風に流れて消える。目を閉じると、浮かんでくるのは『未来の記憶』の一場面だった。

 同行者たちとの間に亀裂が生じ、心理的に孤立してしまっていたルーク。
 彼は盲信していたヴァンの策にはまり、アクゼリュスのセフィロトツリーを崩壊させてしまった。
 鉱山の街は、数千の生命を飲み込んで魔界へと崩落。自分たちはティアの譜歌により、どうにか生き延びることが出来た。
 朱赤の髪の少年は、自分は悪く無いんだと叫び続けた。確かに、同行者たちと話をしていれば悲劇は防げたはずだった。様々な要因が少年を孤立させ、1人優しい言葉を掛け続けていた師だけを信頼するようになってしまったのだから。
 けれど同行者たちは、自分たちの話を聞かず街を崩壊させた少年を見捨てた。

『艦橋に戻ります。ここにいると、馬鹿な発言にいらいらさせられる』

 最初に辛辣な言葉と態度を以て彼を切り捨てたのは、ジェイド自身。
 本当は……ルークの中に昔の自分を見てしまって、そこから逃げ出しただけだったのに。

 そうして、今ジェイドがいるこの場所で『ルーク』は壊れた。
 この世界では起こらなかったことではあるが、それでもジェイドの中にはその事実が『記憶』として残っている。忘れようとしても、不要な部分だけが明晰過ぎる彼の脳はそれを許さなかった。

「ローレライ。アクゼリュスの件では、礼を言います。おかげで、あの子が壊れずに済みました」

 また1つ、言葉を落とす。左の腕を掴んでいる右手に、無意識のうちに力が籠もる。強い風になびく髪が、彼の俯いた顔を覆い隠した。
 この世界では、ルークをひとつの危機から救うことは出来た。けれどそれで、『記憶』の中のルークが救われた訳では無い。

「分かっていたはずなんですけどね。殺してしまった人間はもう蘇らない、なんて」

 彼が『記憶』の中で犯してしまった罪は、もう償うことが出来ない。改めてジェイドは、それを思い知らされることとなった。
 今生きているルークが救われる度に、殺してしまった『ルーク』を思い出す。ルークを救うために未来から『戻って』来たのに、救えなかった子どもが『記憶』の中で泣いている。
 それならせめて、今生きているルークがまた泣かないように戦おう、とジェイドは心に決めていた。どうせ、『ルーク』が死んだことは自分しか知らないし、知らせることになってはならないのだから。
 償うことの出来ない罪ならば、死ぬまで背負って行こう。ネビリム先生を殺した罪と、同じように。

「貴方は、これからもあの子を護ってやってくれますか。未来への道は、私が作ります」

 きっと届きはしない、と確信しながらもジェイドは、地核に存在しているはずの意識集合体へと呼びかける。彼に返答するために第七音素がふわり、ふわりと舞っていることにも気づかずに。


「……何か、すっげー出にくい……」

 甲板への出口の扉。その内側に隠れて、ルークはミュウの口を押さえながら恐る恐る外を伺っていた。
 夢の中で消えてしまったジェイドの様子を案じてここまで来たは良いものの、発見した当人は1人物思いに耽っている様子。場の空気を壊すのも悪いとこの少年は感じているようで、かと言ってその場を去ることも出来ずにいた。
 ルークからは、ジェイドの表情を伺うことは出来なかった。項垂れていることだけは分かったから、恐らく沈んでいるのだろうと言う推測だけは出来る。そのこともあり、ルークは動けずにいたのだ。

「もごもご……ぷはっですのっ」

 主人の手を逃れ、やっとの事でチーグルが声を出した。ルークが自分の口を押さえていた理由を理解しているのか、その声量は抑えめだ。

「ご主人様、ボク息が苦しかったですの」
「え、あ、悪いミュウ。何かお前大声出しそうだと思ってさ」

 ぺたりと大きな耳を垂らし、さすがに少し怒っている様子のミュウに、ルークは素直に謝った。小さな聖獣はぷうと頬を膨らませ、自分を抱いてくれている主の腕に掌をぺしぺしと叩きつけてなおも抗議する。

「それならそれで、小さいお声でお話ししろと言ってくださいですの」
「うん、悪かった。ごめん」

 確かに彼の言う通り。ちゃんと話をしてやれば、このチーグルとてちゃんと理解はしてくれるのだ。
 詫びの意味も込めて頭を撫でてやると、ミュウは喉を鳴らし喜ぶ。機嫌が直ったのかぴんと立った耳が、微かな音を捉えたようでぴくりと動いた。大きな目がルークから離れ、通路の向こう側へと視線を向ける。
 腕の中からひょいと飛び降りた小さな身体を追ったルークの視線は、その先にある爪先を捉えた。

「みゅ! アッシュさんですのー」
「……ああ、チーグルか」

 そこに立っていたのは、ルークと同じ姿形を持つ青年だった。真紅の髪を背になびかせ、黒い詠師服をさりげなく着こなしているその姿を、ルークはまじまじと見つめ直す。
 自身が生まれた元となったオリジナル。7年の歳月をダアトで過ごして来た、本当の『ルーク』。
 どうしてアッシュがここにいるのか、彼が合流する前に意識を失っていたルークには分からなかった。

「意識が戻ったようだな。大丈夫か?」

 小さく溜息をついてから目の前の彼が口にした言葉をルークが理解するために、ほんの少しだけタイムラグが存在した。アッシュとほとんど同じ色をした目を瞬かせて、慌てて頷く。

「……え、あ、うん大丈夫だけど……あ、アッシュ? 何でお前、ここにいんの?」

 呆気に取られた表情を浮かべる己の複製体にそう問われ、アッシュは僅かに眉をしかめた。それから、ルークがそんなことを尋ねる理由を思い出す。朱赤の少年にしてみれば、自分と会うのは廃工場以来なのだから。

「成り行きだが……いたら悪いか」
「いや、いてくれて良かった。前に会った時は大して話もして無いし、何か会いたくて」

 だから当たり前のように答え、そして問い返した。その答えは自分と同じ顔をした少年の、満面の笑みと共に返される。
 自分を殺そうとしたことのある、同じ顔をしたオリジナルに向ける表情だろうか……とアッシュは幾分訝しげに感じながら、かりかりと髪を掻いた。

「……それなら鏡でも見ておけ。同じ顔だろうが」
「みゅ〜。似てないですの〜」
「結構似てるけど別人じゃん」

 ミュウの意見は、双方共に無視した。彼は小さいながらも魔物であり、感性はどうしても人間である自分たちとは異なるのだから。

「……あ、でも俺はお前のレプリカなんだっけ。そりゃ似てて当たり前だよなあ」
「何を今更」

 が、さすがにルークのどこか抜けたような意見には一言ツッコミを入れなければ気が済まなかった。ややもすると自分も、目の前にいるこの少年が自身の複製であることを忘れてしまいそうだ。何しろ、自分より緊張感の無い表情をしているし……意図的にそのような環境に置かれていたとは言え、自分よりもモノ知らずで甘い性格に育ってしまっているからだろう。
 故に、軽く目を閉じつつアッシュは答えてやった。

「まあ、別人と言う意見には賛成だがな。育った環境も違うし、考え方も違う。名前も違うからな」
「……う、うん」

 少しだけ口調を強めてそう言ってやると、ルークは納得したかのように頷いた。が、すぐにはっとして顔を上げる。

「あ、でもルークって名前、ほんとはお前の名前じゃねえか」

 ずっと気に掛けていた、その事実をルークは口にした。本来『ルーク・フォン・ファブレ』を名乗るべきはオリジナルであるアッシュで、現在ルークの名を使っている自分はただのレプリカに過ぎないのだから。
 対してアッシュの方は、先ほど自分が口にした何を今更、と言う言葉を表情にしてその顔に浮かべた。それから、言葉にしなければ分からないと気がつく。

「要らねえよ。俺はお前がルークとして生きてきた同じだけ、アッシュと言う名前で生きてんだ。良い加減慣れたところで返されても困る、ややこしくてしょうがねえ」

 再会したナタリアにアッシュの名で呼ばれ、悪い気はしなかった。『ルーク』であろうと『アッシュ』であろうと、彼女が自分を呼んだことに違いは無い。
 同じことを、この自分よりずっと幼いレプリカにも気づかせてやれば良い。

「おい、チーグル。そいつの名前は何だ?」
「ご主人様のお名前は、ルーク様ですの。そしてボクはミュウですの」
「え……あ、えっと」

 じっと2人を見上げていた聖獣は大きく胸を張り、アッシュの質問に答えた。きょとんと目を丸くしたルークの顔を、アッシュは真正面から見つめる。
 ヴァンの言葉に囚われていた当時であれば、きっとこんな状況にはならなかった。レプリカの姿を見た瞬間、剣の柄を握りしめていてもおかしくは無かっただろう。それがごく当たり前のように行えていると言う今の状況にアッシュは、心の片隅でディストに感謝した。

「そう言うことだ。お前は既に、ルークと言う名前で通る人間なんだよ。何、同じ名前を持つ別人なんざ世の中にいくらでもいる。いちいち気にすんな」
「……うん。ごめん」

 ぶっきらぼうだが、ルークのことを思ってのアッシュの言葉。それを感じ取りルークは、照れくさそうに微笑んだ。素直な思いが、言葉として自然に溢れ出る。

「ありがとう、アッシュ」
「……何の礼だ」

 アッシュが顔をしかめる。だが、それは機嫌を損ねたのでは無く照れているのだと言うことをルークは感じ取っていた。自分も褒められた時や素直に礼を言われた時に照れてしまうから、分かる。
 それでも礼の言葉を口にしたのは、純粋に嬉しかったから。

「ん……いや、何か、俺のこと俺って見てくれてるからさ」
「何だ、そりゃ」
「何でもねー」

 素っ気なく言葉を返されて、ついルークは視線を逸らしてしまった。その頬が僅かに赤く染まっているのをアッシュは視界の端で認め、ほんの少しだけ表情を緩めた。


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