紅瞳の秘預言32 道行

 ラーデシア大陸の南、半島で仕切られた湾の中にワイヨン鏡窟は存在している。
 ここで産出されるエンシェント鏡石は、フォミクリーにおいて必須となるフォニミンの原材料である。だがその事実が公にされることは無く、またバチカルから遠く離れた湾内と言う立地の関係もあってか、キムラスカ領内であるにも関わらずこの地はほとんど省みられることが無い。故に、サフィール・ワイヨン・ネイスを六神将ディストとして迎え入れた神託の盾騎士団はこの地を密かに開拓し、レプリカ研究所を建設すると共に全域をその支配下に置いていた。
 その研究所の通路を、白い鎧を身に纏った人物が歩いている。外見からは他の神託の盾兵士と何ら変わることの無いその人物は、やがて巨大な音機関の前までやって来るとしげしげとそれを見上げた。

「ふぅん、これね」

 兜の下で、薄い唇がにぃと笑みの形を取る。密やかに漏れた声は、紛れも無く女のものだった。腰に携えられた二振りの剣が神託の盾の供与品で無いことは、その奇妙な形からもはっきりしている。
 故に、通りかかった部隊長がそれを見とがめたとしてもおかしくは無いだろう。

「……ん? 貴様、その剣は何だ? 所属部隊を名乗れ」

 声を掛けられ、振り返った『彼女』へと歩み寄りながら、部隊長は自身の腰へと手を伸ばした。神託の盾として与えられた剣を抜き、その切っ先を突きつける。

「所属? そうねぇ……」

 一方、『彼女』は手を動かすこともせず軽く首を傾げて見せる。くすくす、と言う微かな笑い声がまるで目の前にいる自身を小馬鹿にしているように聞こえ部隊長は、ぎりと歯を噛みながら剣を握り直した。
 その瞬間、ひゅんと風を切る音がした。部隊長がそれに気づいたのは、己の喉に熱い感触を覚えた後のこと。

「世界の闇、なぁんてね」
「ごぼっ……」

 いつの間にか、女の手には腰に携えられたうち一振りの剣が握られていた。部隊長の喉を貫き、どくんどくんと蠢いている黒ずんだ色の剣は、奇妙にねじ曲がった姿をしている。

「ごめんなさいね? 悪いけれど、さすがに生かしておく訳にはいかないわ」

 女の笑いを帯びた声と共に、剣が再びどくりと音を立てる。その刃を無造作に横薙ぎにすると、赤い血を吹き出しながら部隊長の身体がゆっくりと崩れ落ちた。あっと言う間に白い鎧は赤く染まり、床に血溜まりが出来上がる。
 もう一度剣を振り、血を飛ばすと彼女は腰に戻した。空いた両掌に、ふわりと音素の光が浮かび上がる。部隊長の死体に気づいた兵士たちが己を包囲する様子を、のんびりと眺めながら。

「何をしている!」
「ぶ、部隊長!? おのれ、マルクトの間諜か!」
「いやあねぇ。勝手に決めないでくれる?」

 四方を完全に塞がれた状態でなお、彼女は平然と笑みを浮かべている。その手に集まった光が、詠唱と共に解き放たれた。

「焔の檻にて焼き尽くせ……イグニートプリズン!」

 瞬間、ごおっと言う音と共に炎が兵士たちへと襲いかかった。同時に熱せられた空気が鏡窟の隅々へと走り、激しい風を生み出す。

「ぎゃあああああああああ!」
「あづっ……がああああっ!」
「ご……がっ……」

 己の周囲にだけは水と風のフィールドを張り巡らせ、くすくすと笑う女の目の前で鎧たちはばたばたと倒れて行った。ただ、さすがに熱を防ぎきることは出来なかったのか「熱いわねえ」と愚痴りながら彼女は、偽装のために纏っていた神託の盾の鎧をさっさと脱ぎ捨てる。

「……ふぅ。レプリカでも呼吸しなくちゃ死ぬのは一緒、なのは面倒くさいわね」

 酸素マスクを口に当て、黒白の衣装を纏う姿を現した女は炎の譜術が走り抜けた道を歩き始めた。
 炎に焼かれた者、熱い空気に喉を焼かれた者、そして炎が荒れ狂ったことで鏡窟内から酸素が失われ、窒息した者。転がっている鎧たちからは既に生命の息吹は失われており、彼女の歩みを阻む者は最早存在しない。
 そうして彼女は、音機関の前に立った。ほっそりした指を真っ直ぐに伸ばし、いくつか存在するスロットの1つに焦点を合わせる。

「行くわよ。サンダーブレード」

 ばちり、と光を伴う破裂音が発生すると同時に、音機関全体が小刻みに震え始めた。強大な電流を流し込まれたことで、音機関が誤作動を始めたのだ。
 そのうち、機器のあちこちから火花や煙が上がる。ランプがちかちかと点滅し、この手の音機関が発するとはとても思えないような重低音や異様に軋んだ音が鳴り出した。

「ふふ、これで良いかしら?」

 ごおんと地響きを立てながら太いパイプが落下するのを見計らい、女は踵を返した。とんと地面を蹴ると、踊るように滑るように通路を駆け抜けて行く。その背後で、音機関は周囲の壁を巻き込み、転がった白い鎧たちを瓦礫の中に埋もれさせながらながらがらがらと崩れ落ちて行った。
 桟橋に出た後、彼女はくるりと振り返った。さすがに出入り口傍までは崩壊には至らなかったようだが、それでも奥からふわりと砂煙が流れ出して来ている。

「あら、やあねぇ。汚れちゃうじゃないの」

 足元にまで流れてきた砂煙を避けるように軽く跳ね、停めてあった船の1つにとんと乗り込んだ。ゆらゆらと揺れる足元にはお構い無しに、たおやかな手を広げ音素を集める。同じようにばさりと広がった白と黒の翼が、ひとつ風を打つと同時に詠唱が奏でられた。

「白銀の抱擁を受けよ! アブソリュート!」

 凛とした声が響き渡ると同時に、鏡窟の入口がばきばきと音を立てて氷の壁に閉ざされた。幾重にも重なる氷による光の屈折が、洞窟の存在をあっという間に覆い隠して行く。
 ほんの数秒後には、厚い氷の崖がその場所に出来上がっていた。この奥にかつては鉱石の採石場や研究所が存在したのだと言うことを、誰も信じないだろう。僅かに桟橋の先端だけが氷の外へと突き出していたが、それも重量に耐えかねたのかばきりと折れて海中へと沈んで行った。

「こんなものかしらね。余計なものは必要無いのよ」

 自身の譜術が構成した風景に、女は満足そうに頷いた。船の操縦席に着き、手早くスタートさせる。
 ハンドルを切り、あっという間に湾の外へと滑り出した船の上で彼女は楽しそうに微笑んだ。

「サフィールも、これで安心してくれると良いわねぇ。あの子、本当は優しい子なんだもの」

 純白の髪を風になびかせながら眼を細める彼女の表情は、どこか我が子を見守る母親のようにも見えた。
 周囲にほとんど陸の見えない外洋に出ても、船が速度を落とすことは無い。そのまま海上を疾走する船は、ほんの少し舳先を北へと向けた。恐らくは、マルクトの領域へと向かっているのだろう。

「それにしても、あの子たちってネーミングセンスがどこかおかしいのよね。誰が原因なのかしら……私じゃ無いわよねぇ?」

 速度が安定したところでカプセルを飲み下しながら、女は1人呟く。たった今破壊して来た洞窟の名前を思い出し、溜息をつきながら肩をすくめた。

「ワイヨン鏡窟、なんてねぇ」


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