紅瞳の秘預言32 道行

「ふう。助かりました、ルーク」
「良いって」

 身体を離しながらジェイドが声を掛けると、ルークも嬉しそうに笑いながら頷いた。だが一瞬後には表情を引き締め、樽の形をした譜業人形に向かって怒鳴りつける。

「それより、何だよ一体! タルロウっ!」
「甲板に落下物だズラ! 上空から降って来た、固形物っぽいズラ!」

 素早い解析の結果を告げるタルロウの声に重なるように、違う声が凛と降り注いで来た。

 お土産、持って行ってください。
 皆と一緒に頑張ってね、譜眼の主。

「……えっ?」

 同行している音律士の少女に、良く似た声。思わずジェイドは天井を振り仰いだが、そこに何かが存在するわけでも無い。揺れが収まり始めた艦橋内に視線を戻すと、自分以外あの声に反応した者はいないようだ。代わりに、くるんと頭部を巡らせた譜業人形が声を張り上げる。

「ジェイド様ぁ、とりあえずは安定したズラ。どうするズラか?」
「そうですね。しばらくこの場に留まりましょう。少し今後の動き方を考える必要がありそうですから」

 誰かの声を思考の隅に追いやり、少しだけ考えてからジェイドはそう答えた。マルクトへの帰還は優先事項ではあるが、せっかくキムラスカの領域内にいるのであれば先にやっておくべきこともあるはずだ。陸艦をわざわざこのエリアまで流し出したローレライも、恐らくはそれを望んでいるのだろう。
 そう、あの世界でアッシュがまず指示した、音機関研究所の調査のように。

「了解ズラ。考えてる間は、タルロウ様が周囲の警戒を受け持つズラ。任せるズラよ」
「お願いします。他の皆さんは、一度中へ」

 タルロウに頷いてやり、それからジェイドは他の全員を見渡した。『記憶』と状況は異なるが、もしかしたらアッシュを初めとする一行が現在すべきことを提示してくれるかも知れない。
 それがアッシュならば、恐らくはベルケンド行きを提案してくるだろう。理由はジェイドも『知って』はいるが、彼の口から吐かせれば良い。

「おっけー」
「分かりました」
「了解、旦那」
「分かった」

 ジェイドの思惑を知らず、四者四様の答えが戻って来る。くすりと僅かに笑みを浮かべてジェイドは、甲板に通じる扉を開けた。

「……これは……」

 途端、彼の動きが止まる。「どした?」と軽く背伸びしてジェイドの背後から扉の外を伺ったルークが、げっと声を上げた。

「何をしている?」
「あ、済みません。ちょっと」

 背後に立っているアッシュの少し苛立ったような声に、ジェイドは間抜けな言葉を返すことしか出来ない。軽く目を見開いてガイが、背伸びをしながら最後方から様子を伺って来た。

「何だ? ルーク、旦那、どうした?」
「外、すごいことになってる」

 ルークが答える。ともかく、動かないことには話にならない。ジェイドを先頭にぞろぞろと甲板に踏み出した全員の足が、その場でぴたりと凍り付く。

「すごいこと? ……まあ」

 最後に出て来たティアの目が、丸く見開かれた。
 甲板上には、大小様々な岩が転がっていた。よく見ればその表面には、フォニック文字がびっしりと刻まれているのが分かる。どこか透き通ったような材質で出来ているそれは、オールドラントに住まう者ならば誰もが目にしたことのあるはずのもの。
 板張りの甲板には沢山の穴が開いてしまっており、知らぬ者が見れば敵襲を受けた痕跡と誤解されても仕方の無い状態になってしまっていた。先ほどの衝撃の正体は、どうやらこれであったらしい。

「こりゃ譜石か? 何でまた……」

 足元に転がっていた手で掴めるほどの破片を拾い上げ、ガイが訝しげな表情で呟いた。その破片にもフォニック文字は綴られており、いくつかの単語を拾い読みすることが出来る。

「譜石帯から落ちて来たのかしら?」

 ティアは一度空を見上げた後屈んで、少し大きめな破片を覗き込んだ。そこに刻まれたフォニック文字は、現在オールドラントで使用されているフォニック言語では無く古代イスパニア語を表記している。譜石であることの証明だ。
 アッシュやルークも手近な1つを拾い、しげしげと眺めた。アッシュはつまらなそうな表情になったが、ルークは露骨に眉をしかめる。じーっと文字を見つめてから、不満げに文句の声を上げた。

「……俺、これ読めねぇ」
「古代イスパニア語だぞ」
「だから、読めねえんだよ」

 アッシュの呆れたような声に、ルークが頬を膨らませながら噛みついた。はぁと肩を落としながらガイが2人の間に割り込み、手を上げて双方を宥めようとする。

「あー悪かった。フォニック言語教えるので手一杯だった俺が悪かった。済まん、ルーク」
「そうか、言語も1から学習したんだったな」

 金の髪を持つ幼馴染みの青年の言葉に、アッシュは改めて自身の複製体として生まれた少年を見やった。
 ルークは作成されたそのままの状態でコーラル城から連れ出され、ファブレ邸に放り込まれた。つまり、言葉も常識も何もかも、10歳の姿をした彼の中には存在していなかったわけだ。

「そうだよ。俺何も知らなかったから、1から全部ガイに教わったんだぞ」

 ふくれっ面になったこの少年は、『生まれて』からまだ7年しか経っていない子どもだ。
 ファブレ邸に引き取られた時のルークは、外見年齢こそ10歳だっただろうが実質的には赤子だった。その赤子の育成と基礎学力の習得を一手に任されたのがガイである。専門の教師が付いたのならともかく、自身も成長途上であったガイではこのルークに古代イスパニア語を習得させるまでとても手が回るまい。
 そこまで思考をまとめたところで、アッシュは小さく溜息をついた。ルークに向けた視線はそのままに、僅かに眼を細める。

「なら、事態が落ち着いたら勉強だな。ファブレの人間なら、古代イスパニア語程度はたしなんでおくものだ」
「うぇ、勉強かよー」

 げんなりしたルークには、アッシュが言葉に籠めた意味までは伝わらなかっただろう。だが、ガイには通じたようで「素直になりゃ良いのに」と微かな声が返って来た。思わず睨み付けたアッシュの視線にも何処吹く風と言った表情で、年長の幼馴染みはにっと笑って見せる。

「ルーク。良かったら、私が教えるけれど」
「えー。ティア、厳しいんだよなー」

 一方、ルークはティアにそう尋ねられて困ったように首を捻っていた。ジェイドや他の皆には内緒にしているが、朱赤の髪の少年は彼女から第七音素と譜術について教わっている。未だ実戦で利用する機会は無いものの、少しずつ上達しているルークの譜術にティアは教師役としての自信を深めているようだ。
 故に、彼女はせっかくだからと古代イスパニア語の教師も買って出るつもりらしい。だが、譜術の授業でかなり厳しくされているルークは、この上にまだ増えるのかとうんざりしてしまっている。この場にミュウがいれば「お勉強見て貰うですのー」などと言いそうだが、幸いにも空色のチーグルはイオンたちと共に艦の一室だ。
 ティアは肩を大げさにすくめると、何か言って貰おうとジェイドの方を振り返った。

「んもう、大佐からも何かおっしゃって……大佐?」

 少女の言葉が止まる。それに気づいたルークたちも、視線を青の軍人に向けた。
 ジェイドは、1つの大きな譜石の前に屈み込んでいた。その表面に刻まれた古代イスパニア語の文章を指で辿りながら、黙読しているようだ。
 預言をなぞっていた青い指先が、とある一点で止まる。ジェイドは一度目を閉じた後、深く呼吸をしてから瞼を開いた。
 内容自体は、既に知っている。けれど実物を目にするのは、『記憶』の5年を含めても初めてのことだ。

「……ティア。ここの文章を、読んでいただけますか」
「え? あ、はい」

 顔を上げたジェイドに言われるがまま、ティアは歩み寄り彼の指が示す部分を覗き込んだ。そこに並んでいる文章を、少女の可憐な声が淡々と詠み上げる。

「ええと……ND2019、キムラスカ・ランバルディアの陣営はルグニカ平野を北上するだろう。軍は近隣の村を蹂躙し要塞の都市を進む」

 そこまでを言葉にしたところで、少女の声が一度止まった。前髪で隠れていない瞳がジェイドを見上げると、彼は小さく、だがはっきりと頷く。先を読んで構わない、と言うことだろう。ティアもまた頷いて、視線を譜石の表面に戻した。

「やがて、半月を要してこれを陥落したキムラスカ軍は……玉座を最後の皇帝の血で汚し、高々と勝利の雄叫びをあげるだろう」
「……何?」
「何だって?」
「へ?」

 アッシュとガイが、同時に顔をしかめる。ルークは、ほんの一瞬だけ遅れて目を見開いた。そしてティアは、自分が読んだ言葉の意味に思わず口元を押さえる。
 このオールドラントにおいて『皇帝』の地位にある者は現在、ただ1人しか存在しない。
 マルクト帝国皇帝、ピオニー・ウパラ・マルクト9世。


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