紅瞳の秘預言32 道行

「……」

 ちらりと少女が伺ったジェイドの顔からは、感情と言うものが消え失せていた。温度を失った真紅の視線は、譜石の表面に注がれたまま。
 古代イスパニア語は現代では教養の1つとして存在する言語だが、上流階級や軍人にはある意味必須の知識でもある。その育ちの過程で教わることの無かったルークを除き、今この場にいる全員がその使用に不自由は無いだろう。
 つまり、この一帯に散らばっている譜石の表面を見ていたジェイドにはもう、今ティアが読み上げた文に続く言葉は理解出来ているはずだ。自身が仕える皇帝が死した後、この星がどう行った道を辿るのかも。
 ティアはごくりと息を飲むと、覚悟を決めてその続きに目を走らせる。途中ヒビが入ったり砕けたりして読めない部分を飛ばし、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「以後数十年に渡り栄光に包まれるキムラスカであるが、マルクトの病は勢いを増し……やがて、1人の男によって国内に持ち込まれるであろう」

 場の空気が温度を下げたのが、肌で分かる。ぞくりと背筋を震わせティアは、足元に落ちていた欠片を拾い上げる。そこに刻まれている最後の文章を、必死に感情を抑えつけながら読み上げた。

「かくして、オールドラントは障気によって……破壊され塵と化すであろう……これが、オールドラントの……最期である……」

 ティアの声が、震えた。ジェイドは何かを諦めたように目を閉じながら立ち上がり、ルークは目を見開いたまま動かない。眉根をひそめるガイの横で、アッシュがぎりと歯を噛みしめた。

「第七譜石です。ユリアが詠んだ、最後の預言」

 ぽとり、とジェイドの言葉が落ちる。開かれた瞼の下で、真紅の瞳はどこか寂しげに揺れていた。
 ユリア・ジュエはその人生の最後において、ホドでの安らかな暮らしを選んだと言う。彼女が最後に詠んだ預言を刻んだ譜石はそこに隠され、16年前のホド崩落と共に魔界へと落下し、更に泥の海に沈んだ。
 隠された理由は、そこに刻まれた預言を理解すれば何と無く分かる。この譜石に刻まれているのは全ての終焉であり、恐らくユリアは自身で詠み上げながら戦慄を覚えたに違い無い。
 その当時から、彼女の預言は的中率の高さを誇っていた。この譜石に刻まれた終焉の預言もまた逃れられない未来なのだと……民がもし思い込んだりしたら。
 未来に希望など、持てるはずが無い。
 だからユリアは最後の譜石を隠蔽し、時を経てそれは深い地の底へと沈んだ。
 それが今更この場に存在する理由など、1つしか無い。ホドセフィロトより再構築されたセフィロトツリー、その記憶粒子の流れに乗って、地の底から打ち上げられたのだ。タルタロスと同じように。

「はっ、星の繁栄が聞いて呆れる。せいぜい数十年の短い栄華ってことじゃねえか」

 がつ、とアッシュの靴が甲板を蹴った。自分を、そしてルークを生け贄として捧げた結末であるはずの『未曾有の栄華』、そのくだらなさに呆れ果てている。

「キムラスカは、それでも数十年あるわ。でも、マルクトは……」
「陛下が亡くなられるのは来年、と詠まれていますね。当然、グランコクマは陥落します。都と君主を失って、後継者もありませんからそこで終わり、です」

 どこかに感情を放り捨てたようなティアの言葉に、ジェイドは自身の言葉を繋げた。右の手に抱え込まれている左腕にそっとルークの手が触れるのが分かって彼は、視線を少年に向ける。

「……フリングス少将も、マルコも、第三師団のみんなも……ジェイドも、死んじまうってのか?」
「ええ、恐らくは。陛下をお守りするのが、私の役目ですから」

 少年の不安げな瞳に、微笑みながら言葉を返すことでしかジェイドが応えることは出来ない。この預言が成就しなかった未来しか自分は知らず、しかもその未来を自分はたった2年ほどで放り投げて今にいるのだから。
 ティアが、最後の一文を刻んだ譜石を握りしめたまますっと立ち上がった。オールドラントの最期を詠んだその文章にもう一度視線を落とし、そうして決然とした表情を浮かべた顔をきっと上げる。

「……戦争を止めましょう。このような預言、いくらユリアが遺したものであっても私は納得出来ません」
「モースも止めなきゃな。あいつ、キムラスカは俺を殺せばずっと繁栄するんだって思い込んでる」

 ジェイドの腕に触れたまま、ルークも視線を強める。アッシュはふん、と軽く鼻を鳴らし、小さな欠片を柵の外、海の中へ蹴り込んだ。

「預言に従えば、数十年で世界は終わる。冗談じゃねえ」
「そのためにも、まずはマルクトへ、だな」
「ええ」

 ガイはうっすらと笑みを浮かべ、軍人を労るような視線で見つめた。小さく頷いてジェイドも唇の端を引き上げ、僅かに視線を海へと向ける。

「……死霊使い」
「はい」

 己の罪業により付けられた二つ名。それでジェイドを呼ぶのは、この場においてはアッシュ1人だけである。ジェイドが振り返ると、真紅の髪の青年はじっと真剣な眼差しで彼を見つめていた。

「確かにグランコクマへ急ぐ理由は分かるんだが、ここがキムラスカに近いんならその前に寄りたいところがある。良いか?」
「我々の生存を証明してからでは、駄目なのですか?」

 ほうら来た、と心の中で呟きながらジェイドは、知らぬ振りをして首を傾げる。その彼の問いに、アッシュは小さく首を縦に振って答えた。

「出来れば、ヴァンやモースに俺たちの存在が知られる前に行っておきたい」
「なるほど。話を伺いましょう、アッシュ」

 彼の思惑がジェイドの『記憶』の通りであれば、確かにヴァン・グランツや大詠師モースにこちらの生存が知られてからでは動きづらくなるだろう。ならば、素直に話を聞いて同行者たちにも納得して貰った方が良い。
 そのためには、この場にいないナタリアやイオンたちにも集まって貰う必要がある。

「その前に、イオン様たちにもこの譜石をお見せしておく必要がありますね。ガイ、運んでください」
「俺かよ!」

 少しだけおどけた表情で命じた軍人に、青年は大して不満でも無いような声を上げて答えた。


 食堂へと運び込まれた第七譜石の欠片を見て、イオンは一瞬顔色を失った。刻まれた終焉の預言に冷たい視線を投げかけるその横顔を、ジェイドはどこかシンクに似ていると感じていた。いや、同じオリジナルのイオンから複製されたレプリカ同士なのだから、似ているのは当然なのだが。
 しばし考え込んでいたイオンは、ふっとティアに視線を向けた。その顔には既に、普段通りの笑みが湛えられている。

「ティア。貴方の任務は、これの探索でしたね」
「はい。ですが、これをダアトに持ち帰ったところで本物だと認めて貰えるのでしょうか」

 少し不安げに表情をかげらせているティア。イオンは彼女の顔を見上げ、安堵させるように頷いて見せる。

「モースは信じないでしょうね。だけど僕には、これが偽物だとはとても思えません。最後の譜石をユリアが秘匿した意味が、良く分かりますから」

 ぽん、と譜石の表面に手を当てて、森の髪を持つ少年は一瞬だけそこに綴られている文章を睨み付ける。だがその表情はすぐに消え、平然とした顔で彼は周囲の友人たちを見渡した。

「しばらくこれは、このままにしておきましょう。僕と離れたときにダアトの奥に入る必要性が生じた場合、貴方の任務とこれを利用出来ます」
「奥に入る?」
「ああ、そう言うことですか。イオン様」

 ルークがきょとんと目を見張る。この少年はジェイドの『記憶』にいた彼とは違い、未だパダミヤ大陸の土を踏んだことは無い。出来ればこの混乱の時期にあの街へ足を踏み入れるのは、火口内にあるセフィロトを尋ねるときだけにしてやりたいものだとジェイドは思う。そうして平和が訪れたなら、この少年は友人に会うために教会へと足を踏み入れるのだ。

「ええ。ジェイドが前に地図に記していた、セフィロトの位置を覚えていますか?」
「えー、あー……もしかして、ザレッホ火山のセフィロトですかぁ?」

 イオンの質問に、しばらく記憶を引っかき回していたアニスがぽんと手を鳴らした。火山の中に存在するセフィロトへの往き道を、確かこのイオンは知らない。だが、状況を考えれば推測は簡単なことだ。

「ええ。今の僕たちには、火口からあの中に入るのはとても無理です。だからきっと、教会本部の中から通路が繋がっているんだと思いますよ」

 にこにこと笑いながらイオンは、簡単な言葉を使って説明してみせる。つまりは、何らかの理由でイオンが同行していない状態の一行がザレッホ火山に向かう事態になった場合、ティアがモースから与えられた『第七譜石探索の任務』を利用しろ、とこの少年は言っているのだ。『記憶』の中で、ダアトの教会本部に軟禁されたイオンとナタリアを救出するために使った、同じ手段を。

「ジェイド、道、知ってるの?」

 アリエッタにそう尋ねられ、ジェイドは「ええまあ、一応は」と答えた。
 ずらりと本が並べられた棚の一部から繋がる、隠し通路。その位置も構造も、彼は全て『覚えて』いる。だからそう答えたのだが、その言葉を聞いてアリエッタは少し考え込んだ後、軽く手招きをした。
 少女が口元を囲むように手で形を作ったから、耳を寄せて欲しいのだろうとジェイドは判断する。そのリクエストに応えると、少女はひそひそと言葉を流し込んで来た。

「アリエッタも、知ってる。アリエッタのイオン様が、教えてくれた。だから大丈夫」

 彼の耳元から顔を離して、桜色の髪の少女は無邪気に笑った。何故自分にだけ、と一瞬訝しく思ったジェイドだったが、自分たちを見つめるイオンの不思議そうな視線に合点がいった。
 アリエッタにとって、今のイオンも敬愛する導師。だが、彼女にとって最愛のイオンは2年前に死したオリジナルのイオンであり、その彼との思い出は彼女にとって大事な宝物なのだろう。
 その宝物を、アリエッタはこっそりとジェイドに教えてくれたのだ。それはつまり、彼女がこの軍人を信頼してくれているからこそ。そのことに気づき、ジェイドはふわりとイオンに似た笑みを浮かべて軽く頭を下げた。

「ええ、大丈夫ですよ。ありがとうございます、アリエッタ」
「ちょー、何ひそひそ話してんのアリエッター!?」
「内緒だもん。内緒だから、アニスには教えないー」

 アニスとアリエッタのやり取りも、以前のようなぎすぎすしたものでは無く友人同士ではしゃいでいると言う雰囲気になっている。『記憶』を持つことによるほんの少しばかりの恩恵を、ジェイドは感謝した。
 自身の願いを聞き届け、送り届けてくれたローレライに。


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