紅瞳の秘預言33 説得

「和解するつもりは、ありませんか? 仲介が必要であれば、差し出がましいようですが私にやらせていただければ」
「じゃ、じゃがわしは、あやつらを裏切った! 今更、どの面下げて許してくれなどと言えるか!」
「失ってからでは遅いんですよ!」

 後悔の念に駆られたスピノザの叫びに、ジェイドは負けず劣らずの感情を込めた言葉を返す。

 失ってからでは遅いのだ。
 ネビリム先生。
 『前』のルーク。
 彼らは死んでしまった。ジェイドはもう、許しを請うことは出来ない。

 この街に住まっているはずのヘンケン、キャシー。
 シェリダンにいるはずのアストン、イエモン、タマラ。
 その他の、多くの技師や住民たち。
 アストンは『あの世界』でも生き延びてくれたけれど、彼以外の皆は自分たちを守って死んだ。
 スピノザとヴァンの繋がりを断っておかなかった、そのせいで。
 それでもまだ、この世界で彼らは生きている。

『もう取り返しがつかないことは分かっとる。じゃが、皆が殺されて、わしは初めて気づいたんじゃ。わしの研究は、仲間を殺してまでやる価値があったものなんじゃろうかと』

 旧友たちの死から僅かな時を経て、悔しげに歯を噛みしめながら自分の思いを吐き出したスピノザの姿。ジェイドの脳裏にしか存在していないその姿を、彼はたった今自分の前に立っている彼に重ね合わせる。
 今、ジェイドの目の前にいるスピノザには『あの世界』の記憶は無い。自分と違い、今道を違えなければあのような結末を迎えることにはならず、胸を引き裂くような後悔の念に襲われることも無い。
 自分とは、違うのだから。
 こつり、と靴音がした。全員が口を閉ざし動くことも出来ない中、アッシュだけがゆっくりと足を踏み出しジェイドに並ぶ。腰に手を当て、2人を見比べながら彼は当たり前のように言葉を口にした。

「……ヴァンが怖いなら、マルクトに逃げれば良い。死霊使いがどうにかしてくれる……そうだな?」
「ええ」

 アッシュのジェイドに対する問いかけは、あくまで確認するためのものでしか無い。軍人もまた、さも当然と言わんばかりに頷いた。

「亡命を望むのであれば、私から陛下に頼んでみます。優秀な科学者の流入は、陛下もお喜びくださるはずですから問題は無いでしょう」
「……何で、あんたらはわしにそのようなことを言ってくるんじゃ? 特にルーク、アッシュ。お前さんたちは、わしを恨んでおるんじゃ無いのか?」

 彼らの言葉を信じられないかのように、スピノザは全員の顔を見回す。既に蚊帳の外であるティアやアニス、ナタリアは柔らかく微笑みながら、彼らのやり取りを追っていた。ジェイドがこうやって真剣に説得をしている時は、往々にして彼の言葉に間違いは無いのだと同行者たちは、理性では無いどこかで理解している。イオンやアリエッタ、そしてスピノザの友人たちに思いを馳せているガイもそれは同じことだった。
 そして、当事者の1人であるルークはきょとんと目を丸くして、それから自分の肩に駆け上ったチーグルと優しい視線を見合わせた。

「いや、別に? だって俺はさっきも言ったけど、感謝してるんだぞ」
「みゅう。スピノザさんのおかげで、ボクはご主人様と会えたですの! だから、嬉しいですの!」
「俺は……恨んでいないと言えば嘘になるが、まあこいつらはこう言っているしな」

 アッシュは己のレプリカとチーグルの仔の言葉に苦笑しながら、それでも平然とした態度を崩さない。それが、研究者の視点からは不思議でならない。
 朱赤の髪の少年は、真紅の髪の青年が本来あった居場所を奪ったと言うのに。

「……アッシュ。お前さんは、レプリカルークに対しても何とも思わんのか? その子はお前さんの代わりとして、ファブレの子息として育てられて来たのだろう」
「あぁ? こいつを勝手に作って、何も教えないままファブレの屋敷に放り込んでおいて何抜かす」

 ここまでの旅の中で、アッシュは既にルークのことをそれなりに理解している。だから彼は、スピノザの不用意な言葉に対して露骨に顔を歪めた。
 顔色を暗く沈めかけていたルークが、アッシュの言葉にはっと顔を上げる。

「知っていて俺と入れ替わったのならまだしも、こいつは冗談抜きで何も知らなかったんじゃねえか。そんな奴に対して何を思えばてめえは満足するんだ? ふざけるな、こいつもてめえらの陰謀の被害者だ」
「アッシュ……」
「だから、てめえもンな情けない顔すんじゃねえ。分かったか」

 泣きそうに眉尻を下げていた複製体の少年。その元となった青年は小さく溜息をつくと、ぽんと朱赤の頭に手を乗せた。それは敵意のある触れ方では無く、ガイやジェイドが良くやるような親愛の情を籠めた手だった。

 唐突に、扉が開いた。室内に駆け込んで来たのは、その身に纏う衣服からしてここの研究員の1人だろう。焦りに満ちた表情を浮かべ、ノックも無かったところを見ると緊急の伝令か。

「スピノザ博士!」
「何の用だ! 今来客中だぞ!」

 怒鳴りつけるスピノザに、彼は慌ててジェイドたちに視線を向ける。とっさにアッシュの背後に隠れたルークに気づくことは無く、研究員はスピノザの方に向き直った。

「も、申し訳ありません。ですが、急ぎお耳に入れたいことが……」

 そう言うと、彼はスピノザに二言三言耳打ちを入れる。「ふむふむ」とその言葉に聞き入っていたスピノザは、ほんの僅か難しい顔をして腕を組んだ。

「……ふむ、分かった。今ある分だけでどうにかごまかしておけ」
「はっ」

 簡単で大雑把な指示を受け取り、研究員はすぐさま部屋を駆け出して行く。その背中と無造作に閉められる扉を視界の端で確認してから、アッシュが視線を戻した。

「どうした?」
「……フォニミンを採掘していたワイヨン鏡窟が崩壊したらしい。コーラル城とダアトのフォミクリー音機関が破壊されておるからの、あそこまで潰されればレプリカ研究は大幅な停滞を余儀なくされることになる」

 顎に手を当てて考え込むスピノザの言葉の中に出て来た聞き慣れた単語に、ガイが何度か目を瞬かせる。

「……ワイヨン? って……おい」
「サフィール・ワイヨン・ネイス、でしたっけ?」
「またディストかよ……」

 イオンがほぼ反射的に口にした名に、アッシュの背後でルークが額を抑えてがくりと俯いた。ジェイドを中心として動く事態が多いせいか、あちこちでディストの通称や本名を聞くことが多い気がする。

 サフィールがこちら側についていますから、スターや他のチーグルたちは無事……ですよね。

 黄色い体毛のチーグルのことを『思い出し』、ジェイドは僅かに眼を細めた。
 『記憶』の中でジェイドはサフィールとはずっと対立したままで、彼はルークがアッシュの完全同位体であることを知るとチーグル族を捕らえ実験に利用した。その中でもフォミクリーを掛けられ、完全同位体を作り出されたスターと言う名のチーグルのことは、良く覚えている。彼は大爆発をも経験し、その話を聞いたことでジェイドはルークとアッシュの末路を再確認した。
 だが、この世界ではサフィールはルークの固有振動数のことを知った後すぐにヴァンから離反しており、ワイヨン鏡窟での実験は行われなかったであろうことが推測される。だから、きっとあのチーグルたちも囚われることは無く、彼らの森で元気にしているだろう。

「なあジェイド、フォニミンって何?」

 『記憶』に潜り込みかけたジェイドの意識を引きずり出すように、ルークが質問をぶつけて来た。『前回』のルークはアッシュの意識の中でその言葉を知ったから、こうやって自分に問うて来たのは初めてだろう。

「フォミクリーを利用するために不可欠な物質です。エンシェント鏡石と言う鉱石に多く含まれていますから、ワイヨン鏡窟と言う名前からしてその鉱石を採掘精製するための鉱山だったのでしょうね」
「それなら、またディストが大佐のためにやったのかしら?」

 ジェイドの説明を聞いて、ティアが頬に指を当てながら考えを言葉にして紡いだ。アニスは呆れたように肩をすくめ、大げさに溜息をつく。またか、と言う思いがそこには存在しているのだろう。

「フォミクリーを使えなくするために? ま、やりそーだよねえ」
「どう……なんでしょうね? 状況が状況ですから、あれが動いてもおかしくは無いんですが」

 ワイヨン鏡窟にフォミクリー装置が存在することを知らない彼らの疑問に、軍人もまた首を傾げた。
 恐らくはフォミクリー装置の破壊を行ったために鏡窟自体が崩壊の憂き目にあったのだろうが、ジェイドにもこればかりは断言出来ない。アクゼリュスで会った後、サフィールがどう言った動きをしているのか自分は知らないのだから、答えようが無いのだ。彼がアスランと共にグランコクマへ向かったなどと言うことも、今のジェイドは知らないでいる。
 もう1人、そもそもサフィールとジェイドが和解したことを知らない人物がここには存在する。

「何? ディスト様がバルフォア博士のために?」

 スピノザが奇妙な声を上げたことで、ジェイドはやっとそれを『思い出した』。彼が言葉を返すより先に、アリエッタがにこっと笑いながら口を開く。

「ディスト、ジェイド大好き。ヴァン総長嫌い。だから、ジェイドのために頑張ってる」
「タルタロスに譜業の操縦士まで派遣してくださったのですよ。ディストは本当に、カーティス大佐のことをお考えですわ」

 ナタリアもにこにこ笑いながら、どこかずれてはいるが彼女なりの意見を口にする。
 そして、自身もまたサフィールの尽力により今ここにいることを口にしないまま、アッシュが説明を加えた。

「まあ、いろいろあってな。見ての通り、現在六神将はちょうど3・3で分裂している。俺とアリエッタ、そして別行動しちゃいるがディストは導師側だ。いや、厳密に言うとあいつは死霊使い側か」
「何とまあ……」


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