紅瞳の秘預言33 説得

 さすがのスピノザも、ぽかんと呆気に取られた。
 ベルケンドの研究所は、サフィールも良く利用していた。音機関を動かしながら彼がぶつぶつと呟く言葉はジェイドに対する怨嗟がその多くを占めていて、故にスピノザは彼ら2人は不倶戴天の敵なのだと思い込んでいた。それが、今や互いに相手のことを信頼し合う友人なのだと聞かされては驚かない訳が無い。

「あれと私はちょっとした行き違いから長らく対立していたんですが、つい先日やっと和解することが出来たんです」
「俺とジェイドも誤解して喧嘩してたことあったんだけど、ちゃんと仲直り出来たんだ」

 ジェイドとルークの言葉が、スピノザの耳に流れ込む。
 行き違いからの対立。
 誤解しての喧嘩。
 それらを乗り越え、今彼らは友情で結ばれた仲間として自分の前にいる。それだけは、理解出来る。

「だから……ええとスピノザ、あんたもきっと出来るよ。仲直り」

 だが、ルークのその言葉をすぐに受け入れることはスピノザには出来なかった。年を取ると強情になる、と言う感覚はこの年になってやっと分かったのだけれど。

「あ、あのな! わしらはもう、長いこと!」

 老人の言葉を遮るように、ジェイドが手をその口元に当てた。淡い笑みを浮かべつつ、彼は緩やかに諭すように言葉を紡ぐ。

「私とサフィールは、もう20年近く仲違いをしていたことになります。貴方がフォミクリーに関係したことでご友人を裏切ったと言うのであれば、それより長くはないでしょう?」
「じゃ、じゃが……」
「……急に、仲直りしなさいと若造に説教されても困ります、よね。一度こじれた仲の修復に踏み出すのに、躊躇する気持ちも分かります。グランツ謡将に恐怖する、その気持ちも」

 ジェイドが紡いだ言葉は、そのままスピノザの深層意識に根差すもの。
 若造が何を知っているのか。
 これまで直らなかった感情が、そう簡単に修復を許してくれるのか。
 ヴァン・グランツと言う男が、実はどれほど恐ろしい男であるのか。

「けれど、しばらく考えてみてはくれませんか?」

 それを全て分かっていて、なおこの死霊使いはそんなことを口にした。

「…………うむ。無理とは思うがの」
「やってみなければ、分かりませんよ」

 言い負かされたかのように小さく肩を落としたスピノザに、ジェイドはくすりと笑みを浮かべて頷いた。それから、同行者たちに視線を向ける。

「彼とは少し話がありますので、先に戻っていてください」
「また? ティアのおじーちゃんの時もそうだったよね、大佐」

 アニスの不満げな声は、仲間たちの声を代表するものだった。
 ユリアシティで彼らを先に帰した後、ジェイドがテオドーロ市長に何を告げたのか彼らは知らない。だがその後、僅かながらテオドーロの思考の方向性が変わって来たように思えたのはティアの気のせいだろうか。

「……ちゃんと戻って来いよ?」
「ええ、分かっていますよ」

 じ、と自分を真剣に見上げるルークに、彼の生みの親とも言われた軍人はしっかりと頷いて見せた。その答えに満足したかのようにルークもまた大きく頷き、くるりと踵を返した。扉の前まで辿り着いたところで振り向いた少年の視線は、老研究者に向けられている。

「それじゃ。スピノザ、また来るなー!」
「こらこら、ちゃんと髪を隠して行かんか! 危ないだろうが!」

 帽子を手に持ったまま部屋を出ようとしたルークに、スピノザは慌てて声を掛ける。「あ、ありがと」と大きな帽子を被り、その中に朱赤の髪のほとんどを納めてから少年はもう一度振り返って、軽く手を振った。仲間たちもジェイドを振り返りながら、ルークの後に続いて出て行く。


 扉が閉じられるのを確認して、ジェイドはスピノザに向き直った。軽く眼鏡の位置を直すと、普段から端正な顔に浮かべられている笑みは姿を消している。どこかに感情を投げ捨てたようなその顔に、スピノザもまた眼鏡の位置を指先で修正すると口を開いた。

「あの子らに聞かせたくない話、なのか?」
「ええ。フォミクリーに関係するのですが、貴方の力をお借りしたい研究があるんです」

 小さく頷いた彼の声からも、感情は消え失せている。淡々とジェイドは、事実を言葉にして紡いで行く。

「ルークとアッシュ、あの2人は完全同位体です。そして、彼らはローレライとも完全同位体だ。貴方なら、これが何を意味するかは分かりますね?」
「──大爆発か!」
「はい」

 研究者であるからこそ、スピノザはジェイドの言葉の意味に気づいてくれた。そのことに、ほっとする。

 ──あいつは俺が食らった。……俺だけが、残っちまった。

 ルークと融合し、その記憶のみを内に残し戻って来たアッシュ。彼の言葉が、ジェイドの脳裏に蘇る。
 ほんの少しだけ奇跡を信じ、ルークとエルドラントで別れてから2年の間待ち続けていた『あの世界』のジェイドは、その瞬間砕けた。
 だから、時を戻った。
 そうして真紅の瞳の譜術士は、『未来の記憶』を持ったまま今のこの世界に存在する。

「先ほどご覧になった通り、あの2人は容姿こそ良く似ていますが、記憶も人格も異なる2人の人間です。私はあの子たちを、どちらも失いたくない。ましてや、意識集合体に食い潰させるわけにもいきません」

 もう、あんな思いだけはしたくない。その一心で研究を重ね、それでも手段を思いつけない愚かな自分に出来ることは、2人の焔がそれぞれに生き延びるために必要な頭脳と情報を集め結果を手にすることだけ。
 そのためになら、己が何を失っても構わない……自覚は無いながら、ジェイドはそこまで思い詰めている部分があった。その思いは彼自身の感情に圧力を掛け、結果として外部からはジェイドの表情が失われているようにも見える。

「それで、わしの力を借りたいと?」
「サフィールにも、協力をお願いしています。ですが、私やあれでは手の届かない場所にヒントがあるかも知れません」

 初めここに来たときジェイドは、彼に協力を要請しようとは考えていなかった。そもそもスピノザには、来るべき外殻大地降下作戦においてその頭脳を働かせて貰わなければならず、それ以外の頭脳労働を強いるつもりは無かった。
 だが、ルークの彼に対する感謝の言葉が、ジェイドの心を動かした。
 きっと、思っても見なかった『ありがとう』の言葉がスピノザにも温かく染み込んだだろうから。
 そうで無ければ、部屋を去るルークに髪を隠せなどと忠告するはずが無い。

「どうか、力を貸してください。必要な情報は、私から提供します」

 願いの言葉を口にして、ジェイドは深く頭を下げた。彼には見えないように目を閉じ、祈る。
 ルークのことを案じてくれた彼の力を借りたい。自分やサフィールとは専門分野が違うスピノザは、それ故に2人が気づくことの無い問題点や解決方法などを思いつくことが出来るかも知れないのだから。
 ほんの少しの間だけ、研究室を沈黙が支配する。ジェイドが姿勢を戻した時には、スピノザは彼に背を向けていた。ただ、肩越しに彼を見つめる視線が少しだけ優しいものに変化している。

「……少し、考えさせて貰えるかね。先ほどのことも含めて、だが」
「はい、よろしくお願いします」

 ほっと胸を撫で下ろしたジェイドの顔に笑みが戻ったことに気づき、研究者は改めて彼に向き直った。その表情と言葉に、自身を疑うような感情が微塵も含まれていないことに眉をしかめている。

「バルフォア博士。わしがヴァン様に、お前さんたちのことを告げ口するとは思わんのかね?」
「少しは」

 即答された言葉。だが、ジェイドは笑顔を崩さないまま僅かに首を傾げ、言葉を続ける。

「けれど、あの子たちを救うためにはなりふり構っていられないんですよ。それでグランツ謡将に事の次第が漏れてしまっても、私は私の目的を果たすために戦うだけです。それに、ルークが貴方に感謝していましたから」
「……そうか」
「では、失礼します。くれぐれも、グランツ謡将とその部下にはお気を付けなさいますよう。マルクトが頼れないようでしたら、神託の盾第六師団のカンタビレ師団長がきっと力になってくれると思います」

 キムラスカ国内であれば、マルクトの自分よりもずっと楽に動くことの出来る漆黒の詠師。その名を告げてジェイドは、音機関研究所を後にした。どうか、悪い方には転がるなと祈りながら。


 扉が閉まると、音機関が面積の大多数を占めているせいでさほど広いとは思えない研究室がしんと静まりかえった。スピノザは、唇を噛みながら先ほど自分にぶつけられた言葉を思い出す。

 失ってからでは遅いんですよ!

 禁忌とされた技術の開発者であった軍人は、強い口調で思いをぶつけて来た。恐らくはあの男も、かつて己の愚かさ故から失ったものがあったのだろう。同僚であった銀の髪を持つ譜業使いとの友情も、取り戻せたとは言えその1つだったのかも知れない。

 ありがとう!

 朱赤の髪を持つレプリカの少年は、自身が普通の子として育てられたことに感謝した。ヴァンの企みに乗り、拉致された貴族の息子の代替物として生み出した子どもは己の真実を知り、そして真実を隠してきた科学者にその礼を言ったのだ。当たり前の子どもとして育てられたのは、彼がそれを隠してくれたおかげだと。
 だからつい、どうしても目立ってしまう朱赤の髪を隠すようにスピノザは注意の言葉を投げかけた。少しでもあの少年が、ヴァンの手を逃れ生き延びることが出来るように。

「……なあ、ヘンケン、キャシー。わしは、許されるんかのう?」

 ぽつんと同僚だった仲間たちの名を呟きながら、彼は書類の棚の中からレポートをいくつか取り出した。そのいずれもがレプリカ研究のレポートであり、中にはサフィールがまとめた研究成果も記されている。

「いや……許されはせんのだろうな。じゃが、わしにも研究者としての意地がある」

 数種類のレポートを平行して読みながら、音機関の操作盤に手を走らせる。背後の扉にちら、ちらと視線を向けるのは、いつ神託の盾の主席総長がそこから姿を現すか分からないからだ。

「バルフォア博士。わしなどに頭を下げてくれたことに、感謝する」

 光の画面に浮かび上がる文字や表を脳裏に叩き込みながら、スピノザはぽつりと呟いた。未だヴァンがこの研究所に出入りする可能性がある以上、証拠を残しておくわけにはいかない。


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