紅瞳の秘預言34 交渉

 ふと、アッシュが顔を上げた。視線の先には、作業服とおぼしき動きやすい服装を身に纏っているかくしゃくとした老女の姿がある。両手の上にいくつかの箱を乗せ、どこかへ向かっている最中のようだ。

 あたしら年寄りのことより、やるべきことがあるでしょう!

 『記憶』に残る彼女の言葉を思い出し、ジェイドは視線を逸らす。最後尾を歩いていた彼のその仕草に気づくこと無く、アッシュは足早に彼女に近づいていった。

「済まない。この街で浮遊機関の実験をやっていると聞いたんだが」
「おや、この時期に見学者かい?」

 掛けられた声に立ち止まり、老女は彼を見上げた。彼女の顔に年輪としてのしわは刻まれているが、腰は真っ直ぐ伸びており五感も補正譜業の手助けは必要無さそうだ。彼女が持っている箱の重量もかなりのものだと推測され、これを持ち歩けるだけの体力を持つ彼女は何者かと青年は表情に出さずに訝った。

「まあそれもあるが、その実験を請け負っている技術者に話があって来た。申し訳無いが、話を通して貰えないだろうか」
「そりゃ構わないけど。坊やはローレライ教団の偉いさんかい?」
「これは失礼した。神託の盾騎士団、特務師団長のアッシュだ」
「特務師団?」

 ほう、と老女が目を見張る。真紅の髪と黒い詠師服、その腰にある剣をまじまじと見つめて、彼女は唇の端を引いた。眼鏡の奥の瞳には、悪戯っ子のような光が宿っている。

「そうかい、内密の話だね。誰の命令で来てるんだい? 大詠師殿か、主席総長殿か」
「僕です」

 アッシュがその問いに答えるより先に、イオンが足を踏み出した。すたすたと歩み寄り、青年の横に並んだ彼の手に携えられた音叉を模した杖を見て、おやと老女が動きを止める。

「イオンと言います。アッシュには僕の護衛として一緒に来て貰っているんです」
「イオン……導師イオン様?」

 にこやかに口上を述べた少年の名に、老女は目を瞬かせた。眼鏡のフレームを慌てて掛け直し、イオンの顔をまじまじと見つめる。そうして周囲に視線を向けると、彼女の視界に入るのはアニス、アリエッタ、ティアと言った神託の盾の軍服を纏う少女たち。彼女たち以外の人物は全員私服を着用しており、ジェイドの思惑通り老女にはローレライ教団の一行だと思わせることが出来ただろう。
 少しの時間考えを巡らせたのか動かなかった老女は、はっと気がついたように身じろぐ。そうして、ぽんとアッシュの手の中に自分が抱えていた箱を乗せた。

「そりゃ大変だ。すぐにアストンたちを呼んで来るから、奥の集会所まで来ておくれ。ああ、その箱は集会所のテーブルに置いといてくれれば良いから」
「あ、ああ」

 てきぱきと指示を出し、アッシュが頷いたのを確認してそのまま身を翻す老女。その背中に、イオンが慌てて声を掛けた。

「ありがとうございます。あの、お名前は」
「あたしはタマラ。これでも技術者の端くれさね」

 肩越しに振り返った老女は、にっと年齢よりもずっと若々しい笑みを浮かべて名乗った。


 体良く荷物運びを手伝わされた形になったアッシュを先頭に、一同はタマラの指示通り集会所へと足を踏み入れた。程無くやって来たタマラ、彼女に呼ばれて来たアストンとイエモンに事情を説明する。中心になって説明したのは身分を明かさないままのジェイドであり、その端々をガイと、そしてイオンを初めとした同行者たちがフォローした。

「外殻大地、ルグニカ平野の崩落、魔界……のう」

 一通り話を聞き終わり、アストンが大きく息をついた。イエモン、次いでタマラと顔を見合わせて、歳月と技術が詰まったがっしりした手で顎を撫でる。

「一概には信じられない話じゃが、イオン様のお言葉じゃしの」
「いきなり、突拍子も無い話で済みません。証拠もありませんしね」
「まあなあ。じゃが、それを言うならば飛行譜石もそもそも突拍子も無い話じゃし」

 イオンの言葉に頷いたイエモンが、それでも楽しそうな目を向けた。視線の先は、テーブルの上に広げられた設計図が気になるのかちらちらと視界の端で伺っているガイ。
 そんな幼馴染みの様子は知らない振りをして、ルークは肩をすくめた。空を飛ぶものと言えばこの世界では鳥や虫、そしてぷかりと青空に浮かぶ豪奢な1人用の椅子くらいしかルークの記憶には存在しない。

「だよな。鳥でも無いのに空を飛べるなんて、ディストの譜業椅子を見てなきゃ荒唐無稽な話としか思えねえ」
「ああ、ダアトからはあれの技術提供も受けたんじゃよ。浮遊中における重力バランスの制御方法とか、操作盤のコンパクト化とか、いろいろな」
「譜業馬鹿も役に立つことがあるんだな。ひたすらてめえのためだったろう」
「馬鹿の一念岩をも通す、ですからね。くすぐったい話ですよ」

 アストンの言葉に、アッシュはちらりとジェイドに視線を移す。当のジェイドは柔らかな笑みを浮かべ、説明を終えた後は一歩引いて聞き役に徹していた。下手に口を出すよりも、彼らの判断を仰ぎたかったのかも知れない。自分は『未来』を知り過ぎており、その『記憶』が今後足かせにならないとも限らないのだから。

「しかしまあ、確かにそう言うことであればわしらのアルビオールが実力を発揮するの」
「そうじゃな。アルビオールなら馬車や陸艦よりずっと早く、しかも場所を選ばずに行けるんじゃから」

 イエモンとアストンが顔を見合わせ、自信満々の笑みを浮かべる。『記憶』の中でアルビオールの恩恵を存分に受けていたジェイドは、確かにそうだと小さく頷いた。初期状態では強風などで入り込めない場所も存在するが、それに関しては後々改良すれば問題は無い。

「じゃが、一方的に貸せと言われても困るのう」

 ぎらり、とアストンの眼が光った。技術者側からして見れば、当然のことだろうとジェイドは思う。一方的な搾取は、ただの暴力でしか無い。

「あれは創世暦時代の貴重な譜石と、その能力を最大限に発揮するためにわしらが全力を傾けて開発した至高の一品。それなりの賃貸料を貰わにゃ、割には合わんぞ」
「た、確かにそれはそうだ! そんな貴重なものを貸して貰うんだから、何か見返りが無いと……」

 いつの間にやらアストン側についてしまっているガイが、老人と同じように拳を握って力説している。

「見返り、ですか……現金も大した持ち合わせがありませんし……」

 ティアが胸元に手をやりながら、困ったように考え込む。そこには本来、スターサファイアのはまったペンダントが存在するはずだった。

 ティアの母上の形見だったんだって。
 それなのに俺、何の考えも無しでさ……ほんと、悪いことした。

 『記憶』の中で、髪の短いルークがいつか話してくれたことがある。タタル渓谷に飛ばされた2人が、エンゲーブに辿り着くまで乗っていた辻馬車。その代金を、ティアは母親の形見として持っていたペンダントを渡すことで支払ったのだと言う。
 その後ペンダントはグランコクマの細工師が買い取っており、ルークは必死に資金を貯めて何とかそれを買い戻した。その後で、少年は一部始終を自分に話してくれたのだ。
 グランコクマなら、ジェイドにとってはホームタウンだ。少しくらいの金ならば融通も利く。少年から申し出があれば、利息無しの借金として資金を用意しても構わない。

 そのくらい、生みの親としては当然ですよね? ピオニー。

 心の中でぽつんと呟いたジェイドは、ふと顔を上げた。目の前ではタマラが、ルークたちとの交渉を続けている。彼らが見返りに要求しようとしているのは、どうやらジェイドの『記憶』と同じもの。

「予備として、2号機を組んでいるところなんですがねぇ。時期も時期だし、めぼしい部品を陸艦の方に取られちまって進まないんですよ。どうにかならないかしらね?」
「陸艦?」

 その単語に、全員が目を見開いた。そうして彼らの視線は自分たちの背後、長い髪を結い上げたままのジェイドに注がれる。

「カーティス大佐、タルタロスも元々は陸艦でしたわよね」
「ええ」

 ナタリアの問いに肯定の答えを返し、ジェイドは眼を細める。眼鏡の位置を指先で直して、口を開いた。

「それでしたら、港に泊めてあるタルタロスに予備の部品があります。製造中止になった部品も在庫を取り寄せて積んでありますから、よろしければお持ちください」

 ジェイドの『記憶』は、こんな時に生きる。
 『前回』、アルビオール2号機を組み立てている時にタルタロスから外された部品の種類と数を、ジェイドは『思い出せる』だけ全てリストに書き出しておいた。そして、この時間に戻って来るまでの2年の間にツテを頼り、それよりも多種多様な部品を取り寄せた。表向きは緊急補修のためと称し、ジェイドはそれらの部品をこの日のために保存しておいたのだ。
 アルビオールを組み上げた後でも、タルタロスを使って航行出来るように。
 1つでも多くの足を確保しておくために。


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