紅瞳の秘預言34 交渉

 空から降って来た少年の蹴りは、素早く構えられたその槍で易々と受け止められた。槍越しに視線を合わせ、ジェイドは少し眉尻を下げて呟く。

「お誘いを受けていただけたのだと思っていたんですが」
「誰が! あんたの顔なんか、正直言って見たくも無いんだからねっ!」

 空を切り裂く穂先をその根元を手で払うことで交わし、反動で身を翻すシンク。少し離れたところに着地して、素早く姿勢を低くしながら地面を蹴った。

「邪魔しないでよね!」
「それはこちらの台詞ですよ、シンク!」

 掌底から蹴り上げ、更に裏蹴りを槍でいなしながらジェイドは、一瞬だけちらりと視線を他所に向けた。真紅と青の視線が交わった次の瞬間、仮面の少年が纏う衣の胸元が横一文字に切り裂かれる。

「ああもう、めんどくさい!」
「旦那!」
「お願いします!」

 吐き捨てるシンクの目の前に、刀を振りかぶってガイが滑り込んで来る。とっさに出された少年の突きは、青年の腕をかすめるに留まった。だがその反撃で、ガイの刃がシンクから逸れる。

「そこっ!」
「っ!」

 譜歌が一瞬途切れ、同時に小型のナイフが3本地面へと叩きつけられた。一瞬の差でその刃から逃れた小柄な身体目がけ、巨大譜業人形の爪が降り注ぐ。

「シンクっ! あんた、いい加減しつこいよっ!」
「うるさいなぁ! しつこいのはあんたらの方だろうが!」

 素早いトクナガの動きは、シンクの動きにも何とかついて行っているようだ。右、左、右と矢継ぎ早に振り抜かれる爪の切っ先から逃れ、一瞬の隙を突いてその足元を駆け抜けたシンクの視界に……うっすらと笑みを浮かべる、ジェイドの姿があった。

「少し、痛い目に遭って貰いますよ」
「しまった……!」

 既に詠唱準備が完了しているのか、彼の周囲を風が取り巻いている。その意図に気づき、身を翻しかけたシンクの動きを止めるようにティアのナイフが地面に突き刺さった。

「唸れ烈風! 大気の刃よ、切り刻め! タービュランス!」

 差し伸べられた手を伝うように、第三音素が舞い踊る。それらは一瞬の後に猛烈な風と化し、シンクを包み込むように荒れ狂った。激しい空気の勢いは少年の衣服を切り刻み、その仮面を弾き飛ばす。

「……こ、このくらいでっ……くっ!」

 とっさに手で顔を隠し、ずたずたに刻まれた腕を庇うように抱えながら少年は後ずさる。そこへ、空から少女の声が降って来た。

「アニスっ! みんなぁ!」
「離脱するわ!」

 最後方にいたために戦況を確認することの出来たティアが、声を張り上げた。次の瞬間、ガイとジェイドの身体がふわりと宙に浮く。同時にトクナガがティアをその腕に抱きかかえ、くるりと身を翻した。

「アリエッタぁ! この、裏切り者っ!」
「裏切ったのはヴァン総長だもん! アリエッタは、今のイオン様に付いて行くの!」

 ジェイドを捕らえたフレスベルグの背中で、アリエッタが泣きそうな顔のまま叫ぶ。そうしてガイを乗せたグリフィンと共に、タルタロスの止めてある埠頭へと飛び去って行く。その後を追うように、トクナガが走り去って行った。
 シンクは彼らを見送って、ちっと舌を打った。自分も魔物に乗ってここまでやって来たのだから、追跡自体は可能だ。だがタルタロスまで追い詰めたところで、こちらが不利な状況だと言うことは理解出来る。
 故に、深追いはしない。

「……ま、良いさ」

 そうして、拾って付け直した仮面の下でシンクの目が細められる。ぱんと軽く服の埃を払い、親善大使一行が姿を消した方角を見やる。動き始めている巨大な影は、タルタロスのものだろう。どうやって手に入れたのかシンクには分からなかったけれど、そんなことはどうでも良かった。

「死霊使いは穢せなかったけど、面白いことになるかもね」

 ジェイド・カーティスをカースロットの支配下に置くことは叶わなかったが、代わりに金の髪の青年に穢れを刻み込むことが出来た。あの青年はさて、誰を憎んでいるのだろうか。

 一緒に来ませんか。

 不意に、ジェイドの言葉が脳裏をかすめた。瞬間シンクはぎりと歯を噛みしめ、低い声で吐き捨てる。

「お断りって言っただろ」

 少年の返答に呼応するかのように、またも彼の声が脳裏に蘇る。

 お誘いを受けていただけたのだと思っていたんですが。

 そんな言葉を口にしたジェイドの表情は、シンクには本気で残念がっているようにしか見えなかった。『烈風のシンク』がどう言う存在であるのかと言うことを知っていての彼の言葉を、シンクが受け入れることは出来なかった。

 ふざけんなよ。
 僕はただの道具なんだから。
 あんたが、そんなに気を使うことは無いんだよ。

 それでも、心中で少年がかの軍人に呼びかけた言葉は、ほんの僅か和らいでいたけれど。


 出航したタルタロスの食堂で、一同ははあと息をついていた。さすがにこの短い時間では茶の準備も整わず、せいぜいコップに水を汲んで飲むに留まる。アリエッタは魔物たちの世話をするために、一足先に食堂を離れていた。

「……これで謡将にバレた、な」

 テーブルに突っ伏して、ガイが声を上げた。ティアが難しい顔をしつつ腕を組み、仲間に視線を向ける。

「そうね……兄に伝わるまで、どのくらいかしら」
「どこに詰めてるか分からないが……鳩として最短2日。1週間もあれば、モースや六神将全員にも十分伝わりそうだ」

 アッシュが自身の持つ神託の盾内部の情報と照らし合わせながら、ティアの疑問に答えた。その答えはジェイドも納得するもので、髪を解きながらなるほどと彼を頷かせる。

「随行しているわけでは無いようですしね。長くとも10日、それくらいでしょうか」

 さらりと肩に落ちた髪は、結ばれていた形跡を一瞬にして失った。癖のある髪を持つアニスは、恨めしそうにジェイドのくすんだ金髪を眺めながらはあと大きく溜息をつく。

「……とにかく、大至急グランコクマに向かわないとですねー」
「そうですね。例えヴァンやモースに情報が届いたとしても、実際に動くにはどうしても時間が掛かります。彼らが行動を起こす前にこちらが何らかのアクションを取れれば、あるいは」

 アニスの言葉に大きく頷いたイオンが、言葉を続ける。更にその言葉を引き取るようにナタリアもまた頷き、たおやかに微笑んだ。

「イオン様のおっしゃる通りですわ。難しいとは思いますけれど」
「動かねえよりは、動いた方がよほどマシだからな。特に、この状況では」

 アッシュは軽く前髪を掻き乱した。落ちた前髪を鬱陶しいと言わんばかりに掻き上げて……ふと、短い金の髪に視線を向ける。

「おい?」

 突っ伏したままのガイの瞳が、一瞬だけ鋭い光を放つ。だが、それは本当に一瞬だけで、アッシュの視線に気づいたルークが目を向けた時には既に、青の瞳は普段通りの柔らかいものに戻っていた。

「……ん? ガイ、どうした?」
「いや、大丈夫。何でも無い」

 ルークにさりげない口調で答え、上体を起こすとガイは手の中のコップを一息で空にする。どうも気分が晴れないようで、青年は額を軽く手で押さえた。

「あー、悪ぃ。ちょっとシェリダンではしゃぎすぎたみたいだ、休んで来るわ」

 のっそりと立ち上がり、済まなそうな表情でそう宣言する。「何だよー、ガキじゃあるまいし」と頬を膨らませたルークの隣から、ティアが慌てて立ち上がった。

「大丈夫? 何なら、私が治癒譜術を……」
「あー平気平気、怪我とかそう言うのじゃ無いから。じゃっ」

 歩み寄ろうとするティアから後ずさりして距離を取り、冷や汗を掻きながらガイは壁伝いに食堂を出た。廊下をぱたぱたと駆けて行く足音が僅かに聞こえたのは、ガイの中ではしゃぎ過ぎによる体調不良より女性恐怖症の方が勝ったからだろうか。
 じーっとその背中をテーブルの上から見送っていたミュウが、主を振り仰ぐ。その表情は純粋に、青年を案ずるものだった。

「みゅー。ガイさん、大丈夫ですの?」
「んまー、確かにあいつシェリダンじゃあテンション上がりすぎだったしな。知恵熱でも出たんじゃね?」
「ルークが言うと、信憑性が全くありませんわね」
「そうね。知恵熱ならルークの方が出そうだもの」
「うわ、お前らひでーの」

 ナタリアとティアのステレオ攻撃を受けてふて腐れる少年の表情に相好を崩しながら、ふとジェイドは出て行ったガイに意識を向けた。
 確かに、音機関にまみれて年甲斐も無くはしゃぎ回ったために体調を崩した、と言われれば納得出来る。
 だが。

 ……まさか、ね。

 ジェイドは、一瞬だけ思い至った可能性を軽く頭を振ることで打ち消した。それが正解であるとは思わずに。


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