紅瞳の秘預言35 雪国

 シェリダン港を出航した後、タルタロスはキムラスカの王都であるバチカルを避けるように北上する航路を取った。順調に行けるのであれば、このまま旧ホドの北から回り込めばローテルロー橋に辿り着く。だが、そうは上手く行かないことをジェイドは『知って』いる。故にタルロウには、バチカル周辺海域の警護艇を避けるためと称して少し北寄りの進路を取るように指示をしていた。

「ああ、やはりこちらの方が大佐と言う感じですね」

 マルクト領海へ向かうと言うことで普段の軍服に着替えたジェイドを見て、ティアがほうと息を漏らした。地味な色彩だった私服と違い、目を引くような深い青の制服を纏った彼はどこからどう見てもマルクトの軍人であり、その二つ名を知る者の背筋を凍らせるほどの威厳を放つ。だが今この場では、彼の端正な表情が湛える穏やかな笑みが二つ名の恐怖を打ち消し、彼の『現在』の本性をかいま見せていた。

「そうですか? まあ、私としてもこの方が慣れているんですけどね」

 眼鏡の位置を直しながらジェイドが微笑むと、ルークが「だよなー」と納得したように頷く。彼らと共に旅をするようになってから、軍服以外の服を纏ったのは今回が初めてだった故に、かなりの違和感だったのだとジェイドは思う。青いジャケットを脱いだだけでも、目を見張られたのだから。

「何かジェイド、休日でも軍服着て基地の中歩いてるような気がする」
「それ以前に、あまり休暇が無いですね。元々大した趣味もありませんし、構わないのですが」

 少年の言葉を肯定する返答を口にしながら、自身は面白みの無い人間だと心の中だけで思う。そのような台詞を口にすれば、「そんなことは無い」と少年たちから反論されるに決まっているから。本人としては、本気で面白くないと思っているのだが。

「お仕事が趣味、と言う感覚ですの?」
「かも知れませんねえ」

 ナタリアの問いに素直に頷いたその時、予測していた事態が発生した。
 突然艦全体ががくんと揺れ、動きを止める。「みゅみゅ?」とおろおろテーブルの上を走り回るチーグルの仔を鷲掴みにしたルークを視界の端で確認すると、ジェイドは程無く呼び出し音を奏でた伝声管に向かった。スイッチを入れ、声を掛ける。

「ジェイドです。どうしました?」
『ズラ〜! ジェイド様、駆動音機関の調子がおかしいズラ〜!』

 予想通り、届いた声は艦橋にいてこの事態を最初に把握したであろうタルロウのもの。一眠りしてすっかり回復したせいか志願してサポートに入っていたガイの声が、それに続いた。

『俺が見に行く。旦那、一緒に来てくれ』
「分かりました。すぐ向かいます」

 簡単な返事だけを送りスイッチを切ると、ジェイドは食堂にいる仲間たちを振り返った。アニスとアリエッタは休んでいるイオンの傍についているため、この場には顔を見せていない。アリエッタは『兄』や『友達』の世話もしなければならないから、そもそも食堂に顔を出す頻度はかなり低いのだが。

「と言うわけですので、少し機関部に降りて来ます」

 軽く肩をすくめてそう言い置き、即座に食堂を出るジェイド。その背を見送りながらルークが椅子を引き、立ち上がった。

「じゃあ俺、艦橋に行ってみる。タルロウの手伝い、少しくらいなら出来るかもしんねーし」
「ルーク、私も行くわ」

 冷めかけた紅茶を飲み干して、少年の後を追うようにティアも立ち上がった。それからふと、椅子に腰を下ろしたまま動かない真紅の髪の青年を振り返る。

「アッシュとナタリアはどうするの?」
「大人数で押しかけて、どうなるものでも無いだろう。手に負えそうに無ければ呼べ」
「私も遠慮しておきますわ。全員が着ききりになってしまっては、交代も出来ませんものね」
「分かったわ。行きましょう、ルーク」
「おう。それじゃ、ちょっと行って来るー」

 平然と答えるアッシュ、そして穏やかに微笑むナタリアに苦笑を浮かべつつ、ティアは待っていたルークと肩を並べて食堂を出て行った。2人の姿が見えなくなってからナタリアは、座り直してアッシュの顔を正面に見据える。

「珍しいですわね、アッシュ」
「何がだ?」

 紅茶に口を付けながら、視線だけがちらりとナタリアを伺う。少し癖のある金の髪を揺らしながら、少女は笑顔を崩さない。

「いつもの貴方でしたら、ご自身も行こうとおっしゃるのでは無くて?」
「あいつが自分で行くと言ったからな。特に問題は無いだろう」

 空になったティーカップが、ソーサーに戻された。それからナタリアに向き直り、何でも無いことのようにアッシュは答える。その表情が落ち着いたものだからか、ナタリアはついぽろりと本音を漏らした。

「……アッシュは、ルークのお兄様のようですのね」
「む」

 似たような台詞を以前当のルークに言われたことがある、とは口には出さず、アッシュは眉間にしわを寄せて腕を組んだ。少しだけ思考に及んだのは、全てが終わった後のこと。
 ルークはアッシュに『一緒に家に帰ろう』と言った。父であるファブレ公爵が2人のルークをどういった扱いにするのかは分からないが、少なくとも母シュザンヌは2人を共に自分の息子として扱うだろう。そうなると、いずれは自分たちの立場をはっきりさせなければならなくなる。オリジナルとレプリカ、では無く。

「対外的にはそう言うことになるだろうな。レプリカである事実を、あまり表に出す訳にも行くまい」

 先に生まれていた自分が兄、後から生まれたルークが弟。ごく当たり前の考え方を、アッシュは自分の中で採用している。父母や周囲の人々を説得するのは兄である自身の役目である、と言うことも。

「そうですわね。私どもは貴方がた2人が別の人間だと分かっているつもりなのですけれども、第三者から見た場合は……」
「ああ。……レプリカの人権問題も、これから考えなくちゃならない。導師もレプリカなのだろう? あいつらの他にも、既に生まれたレプリカがいる可能性は高いからな」

 幼い頃、ナタリアと手を繋ぎ結んだ約束。誰も哀しい思いをしないようにこの国を変える、とあの時からアッシュは心に決めている。その『誰も』に、レプリカも含まれるはずだ。同じようにこの星に生まれ、生きている存在なのだから。

「ふふ。……あの、アッシュ」

 同じことを彼女も考えていたのか、ナタリアは口元に手を持って行き笑顔になった。それからふと、何かを思い出したように軽く目を見張る。その唇から流れ出したのは、ちょっとした疑問。

「いつになりましたら、貴方はルークのことを名前で呼べるようになるのでしょうか」
「…………さあな」

 ぐしゃりと前髪を掻き乱しながら、アッシュは自身の目元を手で隠した。ナタリアの疑問は、アッシュ自身にとっても答えの分からない疑問である。


 タルタロスの機関部は、ガイの応急処置によりとりあえずは問題の無い程度に復旧した。だが、いつまた故障を起こすか分からないと言うことで進路を変更し、陸艦の補修施設が存在しているケテルブルクに入港する。騙し騙し動かすよりは、徹底的に修理を行った方が結果としては時間短縮になる、と言うガイの意見を、ジェイドは素直に受け入れた。
 この辺りの展開は、ジェイドが『覚えて』いたほぼそのままだった。異なると言えばルークと彼以外の仲間たちとの決裂が無かったことと、アッシュとアリエッタが同行していること。ヴァン一派に生存を知られたこと自体は、タイミングこそ違え『記憶』とは特に変わるところは無い。

 ま、ここからあちこちに顔を出すことになりますからね。仕方が無いですか。

 小さく溜息をつきつつ北の港へと陸艦を誘導するジェイドの心境には、半ばあきらめが入っている。あまりに自分たちの生存を隠蔽し続けていては、いずれ来るヴァン一派との対決においてバックアップを受けられないこちらが不利になる。ベルケンドやシェリダンではこちらの動きを知られぬために所在の隠蔽は必要だったが、ここまで来ればもう問題は無いだろう。自らの故郷で陸艦の修理を受けた後は、ローテルロー橋からテオルの森を経由して帝都グランコクマに入る。その時点で少なくともマルクト側には、自分たちの生存が明らかにされるのだから。
 ケテルブルクの港に碇を降ろし、魔物たちとタルロウに留守を頼んだ後ジェイドを先頭に一行は北の地に降り立つ。即座にやって来たマルクト兵が、敬礼しつつ誰何の声を上げかけて固まった。

「失礼致します。船籍、及び旅券の確認を……あ」
「任務ご苦労。自分はマルクト帝国軍第三師団所属、ジェイド・カーティス大佐だ」

 どうやらこの兵士は、以前に彼の顔を見たことがあったらしい。自身を見つめたまま凍り付いたように動かない兵士に、ジェイドは自らの身分を明かす。穏やかに微笑むと、それがスイッチになったのか兵士はやっとの事でぎくしゃくと腕を降ろした。


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