紅瞳の秘預言39 雄図

「陛下」

 私室に戻ったピオニーを、窓の外から涼やかな声が呼んだ。白と黒の翼を認め、ピオニーは外の風景を確認しないまま窓の傍にもたれかかる。

「ご命令通り、ワイヨン鏡窟は潰しておいたわ」
「おう、ご苦労さん」

 白い髪、黒白のドレスを纏う女は、のんびりと風景を楽しみながら歌うように呟く。頷いた皇帝と、視線を交わすことは無い。

「そう簡単に大規模フォミクリーは再開出来ないと思うけど……そうも行かないかしらね」
「相手は10年以上の時間を掛けて周到に準備を進めて来た奴だ。コーラル城・ダアトと合わせて3個所は潰しても、まだ他にも拠点があるかも知れん。ジェイド曰く、フェレス島のレプリカにも拠点はあったらしいしな」
「そうね。浮島なんでしょう? 今存在していても、さすがに追い切れないわ」
「今の状況じゃ、キムラスカの海軍が進軍して来てる可能性もある。ヴァンのことだ、上手く分からないところに隠してるだろうよ」

 互いに相手の顔すら見ること無く、言葉だけが窓を挟んで行き来する。ちらり、とガラスを通して見える金の髪が揺れたのに気づき、女は肩越しに室内を伺った。

「さすがにお前さん、ダアト潜入は拙いか。いくら20年ばかり前とは言え、顔を知ってる奴がいないとも限らない」
「モース辺りはヤバそうね。あれはレプリカについても知ってるし」
「だよなあ」

 これはやめ、と口の中で呟いた後ピオニーは、こんとガラスを軽く叩いた。

「ベルケンドを警戒していてくれ。マルクト側は俺の方でフォローが出来るが、キムラスカになるとどうしようもねえからな」

 示された街の名に、女の眼が軽く見開かれる。少しだけ思考を回して、彼女は言葉を口にした。

「ベルケンド? ああ、確かイアン教授の教え子たちがいたかしら」
「それだ、ベルケンドのい組。後々連中の技術力が必要になるらしい。魔界の表面は、地核の震動のせいで液状化してるそうだからな」
「一時的に震動を止めて、液状化した大地を固めなければ外殻大地は降ろせない。そう言うことね」

 女は元々、神託の盾騎士団に在籍していたと言う。還俗し子どもたちを学ばせるための私塾を開いた彼女の脳には、相応の知識が詰まっている。
 もっともそれは、彼女の『オリジナル』の話である。
 今窓の外で皇帝と会話を交わしている黒白の女性は、皇帝の親友がかつて生み出した『最初の娘』だ。
 彼女が今こうやって世界の中に生きていることを、『生みの親』は知らない。
 ピオニーが、教えていないから。

「後は……確か、第一音機関研究所にいるスピノザってのがヴァンデスデルカの協力者だと、ジェイドが言っていた。ファブレ公爵の領地だからな、他にも奴の息が掛かっている可能性が無くは無い」
「分かったわ」

 ジェイドの『記憶』を元に指示を出すと、女は軽く頷いた。それから細い肩を軽くすくめ、悪戯っぽい眼をして尋ねて来る。

「情報が漏れていたら、食べて良い?」
「食うなよ、貴重な研究者なんだから」

 ピオニーが『初めて』彼女に出会ったのは、雪深い街の視察に出向いた時のことだった。この彼女の存在自体はジェイドの『記憶』にもあったから、遠い昔と同じ顔をした彼女の存在を確認したときもピオニーが慌てることは無かった。

「ジェイドも協力を求めたい相手だとよ。やめておけ」
「冗談よ。そんなに音素には不自由してないわ、おかげさまで」
「お前が言うと、冗談に聞こえないんだよなあ」

 茶目っ気たっぷりの彼女の言葉に、皇帝は呆れたように声を上げる。
 元々この彼女は譜術士を殺して食らい、己に不足した音素を補充していたのだと言う。
 それはつまり、ある種の音素乖離。

「医務室にいつもの薬があるから持って行け。サフィールの研究成果のおかげもあってな、また少し改良出来たらしい」
「お世話になってます」

 ジェイドがルークを救うために始め、あるいは再開した研究の一環として開発された音素乖離対策としての薬剤は、彼女にも恩恵をもたらした。もっともその恩恵に預かる前提として、彼女はピオニーの拳と蹴りによってさんざんに叩きのめされたのだけど。

「それと、最新の情報はいつもの通りジャスパーから貰ってくれ」
「はいはい。こっちの手に入れた情報も渡しておくわ」
「頼むな」

 なあ、ジェイド。
 お前の願う『異なる未来』は、こんなところにも現れてるんだぞ。
 大丈夫、だから。

「ねえ、陛下」
「ん?」

 親友に心の中で言葉を投げかけていたピオニーは、女の呼ぶ声にふっと顔を上げた。彼女の口調が先ほどまでとは微妙に変化していることを感じ、初めて窓の外に向き直る。
 透明な壁の向こう側で、彼女もまた真っ直ぐに皇帝を見つめていた。その背にある2色の翼が、心無しか力を失っているように見えなくも無い。

「ジェイド、気を張り過ぎね」
「お前もそう思うか」
「ええ」

 彼女の指摘を、ピオニーは問い返す形で肯定した。そうして表情を真剣なものに改め、言葉を紡ぐ。

「そのために、俺はお前を動かしている。サフィールの罪状も俺の名において取っ払った。ジェイドの部下をアスランに預けているのも、それが一番ジェイドの助けになると思ったからだ」
「私も、それを受け入れた。あの子が私をどう思っているにせよ、私にとってあの子は大切なジェイドだから」

 女の眼は、獰猛な光を帯びている。理性が崩壊していた頃の獣のような彼女の姿を思い出し、皇帝はにいと唇の端を引き上げる。それは、過去の女よりよほど恐ろしい獣の笑みにも見えた。

「こんな時だけは、預言に感謝しているよ。……俺を皇帝に押し上げてくれた預言にな」

 たん、と床を蹴り、ピオニーは言葉を吐き捨てる。じっと自分を見つめている彼女の視線を感じながら、彼の唇は動くことをやめようとしない。

「だからこそ、俺は皇帝の権力を行使して、あいつを手伝ってやれる。公私混同と言われても構うものか、滅びを回避する代償としちゃ安いもんさ」

 は、と息を吐き、自嘲的な笑みを浮かべた。ぐしゃりと握りしめられた金の髪の中に、鮮やかな青い色をした髪留めが揺れている。

「だが、あいつの持つ『記憶』はあいつだけのものだ。俺は話を聞いてやることは出来ても、感情を共有するところまではしてやれん………………歯がゆいな」
「十分、ジェイドには救いになっていると思うわ。あの子、本当なら1人で頑張るつもりだったんでしょう?」

 女性の口から漏れた言葉は、遠い昔に『彼女』が口にした言葉と良く似た口調だった。ピオニーが顔を上げると、彼女は穏やかな、それでいて力強い笑みをその端麗な顔に浮かべている。紅の引かれた形の良い唇が、別れの言葉を紡いだ

「……行くわ。私の『父上』が少しでも悲しまなくて済むように」

 ばさり、と翼のはためく音がした。ほんの一瞬眼を閉じたピオニーが瞼を開くと、そこには既に人影は存在しない。ただ、ふわりと純白の羽根が一枚舞っているだけ。

「頼むぞ。ゲルダ」

 その羽根の行く末を見つめながら、ピオニーはぽつりと呟いた。
 女の名はゲルダ。
 かつてジェイドが生み出した『最初の生体レプリカ』であり、現在彼女がある地位はマルクト皇帝ピオニーの密偵である。


PREV BACK NEXT