紅瞳の秘預言40 策略

 少し目を伏せ、思考を走らせてからサフィールは顔を上げた。無邪気に笑って見せると、ジェイドの表情が僅かに和らぐ。

「じゃあ、私はアッシュを連れてシェリダンに向かいますよ。神託の盾で固まっておいた方が、キムラスカ内部では動きやすいでしょうからね。貴方はルークを連れて、セントビナーにお行きなさい」
「済みません。お願いします」

 一度眼鏡を外し、眉間を指先で揉む。そのまま裸眼で幼馴染みを見つめたジェイドの表情は柔らかくて、サフィールは一瞬だけ彼の顔に見とれた。

「ええ。万が一作業の進展が遅くても、私ならフォローは利きますからね。足が欲しいですから、アリエッタも連れて行きます」

 良いですね、と呟きながらサフィールはジェイドの顔を覗き込む。彼の手を取ると、端正な顔に譜業眼鏡を掛け直させた。何事か、と見つめ返してくる真紅の瞳は、どこか力無げに揺れている。

「……『1度目』の時は、私が邪魔したんでしたっけ」

 何を、とはサフィールは言わない。だがジェイドには、彼の言葉だけでそれが何を意味するか理解出来る。
 ジェイドが『記憶』している世界での、崩落寸前だったセントビナーでの出来事。

「ええ。崩落寸前のセントビナーに貴方がカイザーディストを持って来て、住民の方々の避難を邪魔してくれました。その時はイオン様が同行してくださっていましたから、彼の身柄を手に入れようとしたんですね」
「よっぽど、その私は馬鹿だったんでしょうねえ。今の私とは違う意味で、貴方しか見えていないと言うか」

 同じでありながら違う『自分』の行動に、学者は本気で呆れたように顔をしかめる。がりがりと髪を掻くと、何本かの銀髪がぷつりと切れて床に落ちた。
 そんなサフィールの仕草をジェイドはじっと見つめていたが、やがて暗記した文章をそらんじるようにぽつりと言葉を漏らした。

「…………『そんな虫けらどもを助けようとするのか。ネビリム先生のことは諦めた癖に』」
「!?」

 ぎょっとして顔色を変えるサフィール。ぼんやりとしたジェイドの視点は彼には合わされず、その上顔を伏せてしまったために表情を伺うことすら出来なくなってしまう。長く伸ばされたくすんだ金髪は、こう言った時だけサフィールのお気に入りでは無くなる。

「そう、あの時の貴方に言われました。私は頭に血が上って……怒りに震えた」
「……何とまあ」

 細い眉をしかめ、異なる世界の自身が口にした言葉に対してサフィールは呆れた。ジェイドが最初に通り過ぎた時間の中で、自分はよほどジェイドを憎んでいたのだろうか。そんなこと、あるはずが無いのに。

「ほんっとうに、私は馬鹿ですね。そんなこと言ったら、ジェイドは怒るに決まってるじゃ無いですか」

 感情のあまり、サフィールは更に力を入れて自分の髪を掻き回す。ぼさぼさに乱れた銀の髪を、伸ばされたジェイドの手がそっと撫でつけた。それに気づいたサフィールが眼を向けると、ジェイドは見知らぬ土地に放り出された子どものような表情を浮かべている。

「あの時私は、自分が貴方に馬鹿にされて怒ったんだと思っていたのですが……もしかして、図星を突かれて頭に来たのかも知れません。私の解釈は、間違っていますか」
「いえ、恐らくは合っていると思いますよ。私はジェイドじゃありませんから、推測になりますが」

 軽く頭を振り友人の言葉を否定してしまってから、ふとサフィールは言葉の内容に気がついた。
 自分の感情を分析している癖に、それはまるで第三者の意識を推し量っているような言葉。

「……まだ、感情の認識が薄いんですね」
「そのようです」

 サフィールの問いを、ジェイドは否定しなかった。自分が己の感情を未だに理解し切れていないことは、『記憶』の5年を含む人生の中で何度も思い知らされて来たことだから。
 今もこうやって、自身を知る他人に尋ねてみなければ感情の内容を把握することも出来ない。少なくともジェイドは、そう思い込んでいる。

「でもまあ、反射的な感情の発露って言うものは普通に自己認識が薄いですから、ジェイドの反応はごく正常なものですよ。かっとなった、って言う類のものですからね」

 だから、そうやって己の感情を理解し教えてくれるサフィールやピオニーの存在は、ジェイドにとって必要不可欠なのだろう。旅路を共にしている子どもたちには、疑問を呈して答えを乞うにはまだ早すぎる。

「……いい年をして、と思いますか?」
「他の人ならね。ジェイドのことは子どもの頃から良く知っていますから、逆に良い傾向だと思います」

 それに、サフィールは遠い昔からジェイドのことを熟知している。彼がダアトへ出奔してからかなりの年月になるが、戻って来たサフィールはちゃんと昔のジェイドを覚えていてくれた。今のジェイド・カーティスの人格の根底を担う、ジェイド・バルフォアのことを。
 ルークとアッシュが別々の人格ながらその言動にどこか似通った部分があるのは、人格の基礎を構築した環境が同じファブレ邸であるからだろう。それと同じように、いくらジェイドがカーティスの養子として育っても、『未来の記憶』を内包していても、大元はサフィールの知るジェイドなのだ。
 そうしてサフィールは、バルフォアだった時と同じように今のジェイドに接する。立太子されていなかった頃と同じように今の皇帝ピオニーに接するように。
 ピオニーがサフィールにジェイドの補佐を任せたのは、これがあるからだろう。昔からジェイドを知り、昔と同じように彼に接する。そうやってジェイドの精神を支える役目が出来るのは、サフィールだけだから。

「……『前回』を知らなければ、私はまだここまで感情を認識し切れていなかったでしょうね。それで、あの子を殺してしまった後で初めて気づくんです。自分がどれだけ馬鹿だったかを」

 そんなサフィールの前だからこそ、ジェイドは無防備な姿をさらけ出す。長い髪で表情を伺うことは出来なくとも、その口が紡ぐ言葉から推測は出来た。多分、コーラル城で彼が見せたような虚ろな、人形のような顔をしているのだろうと。

「はいはい、そこまで」
「サフィール?」

 だからサフィールは、意図的に明るい声を放った。はっと上げられたジェイドの顔は、軽く眼を見開いて驚いている表情。人形の顔は、していない。

「ジェイドにとっては『見て来た過去』なのかも知れませんけれど、私たちにとっては『現在』と『未来』なんです。ルークだってちゃんと生きているし、見たところまだ大爆発の兆候もありません」

 恐る恐る手を伸ばし、長い髪を一房手に取った。さらさらの金髪は、自分のぱさぱさの銀髪と違って手入れが行き届いている。僅かにしっとりとしたひとまとまりの髪を、サフィールは指先に絡めてみた。
 そうして、レンズの奥からジェイドの真紅の瞳をじっと見つめる。

「回避の研究の方も少しとっかかりが出来たんで、そっちの線で進めています。進んでるんです……大丈夫、間に合わせてみせます」
「ほんとう、ですか?」

 サフィールのその言葉に、ジェイドは呆然と一言だけを口にした。
 大爆発の回避。
 アッシュとルークの2人が完全同位体である以上、対処をせねば逃れることの出来ない現象である大爆発。ジェイドの『記憶』の最後、彼の元に戻って来た赤毛の青年はその現象により、ルークの記憶を内包してはいたが人格自体はアッシュのものだったと言う。
 ジェイドは、ルークに生き延びて欲しかった。それはアッシュに死ねと言っているのでは無く、2人がそれぞれ1人の人間として生きながらえて欲しいと言うことだ。
 『記憶』を持って過去の世界に戻って来たことで、ジェイドにはその対策のための研究をする時間を僅かながら与えられた。その途中経過をコーラル城で受け取ったサフィールは、ダアトやグランコクマでその続きを手がけていたのだ。

「本当です。確定させるためにはスピノザが持ってるはずのルークの研究資料が欲しいところですけど、いざとなったら海越えてでもふんだくって来ますからご心配無く。ああ、シェリダンから海を越えればベルケンドには行けますから、ついでに行って来ましょうかねえ」

 実のところ、マルクト軍属時代にいくつかの仮説は立てられていた。だが、完全同位体のサンプルが存在しなかったためにその研究は頓挫し、進められることは無かった。ジェイドの研究が進んだのは、『記憶』の世界でルーク・フォン・ファブレ、そしてチーグルのスターと言う2つの実例を手にしたことが大きい。
 何しろ、最終的にはどちらも大爆発を起こし、融合したのだから。

「大丈夫です。死んじゃったら取り返しが付かないから、死なせる前に何とかしたいんでしょう? だから、貴方は『戻って』来たんでしょう? ここには私がいます。貴方の力になって見せます」

 このときだけは力強く頷いて見せて、サフィールはそっとジェイドの顔を両手で包んだ。それでも、ジェイドの表情が晴れることは無い。ルークの髪よりも濃い赤の色を宿した瞳は、今にも泣き出しそうで。

「……でも、私自身には何も出来ていない。出来たのは、貴方やアリエッタやアッシュに力になって貰うことだけです」

 言葉も、少し震えている。その震えと、言葉の内容に一瞬いらだちを覚え、サフィールはぐいとジェイドの顔を至近距離まで引きつけた。
 ジェイドが『何も出来ていない』はずが無い。そうでなければ、自分はここにはいない。


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