紅瞳の秘預言42 風夢

 セフィロトの最奥部には、アクゼリュスで見たものと同じ音機関が静かに作動し続けていた。ジェイドが『記憶』の中で訪れたときに施されていた封印や仕掛けも、今はユリア式封咒を除き全て解かれてしまっている。
 ここには『前回』同様先にヴァンが来ているはずだが、その時には封は解かれてはいなかったはずだ。恐らくヴァンは自らユリア式封咒を解き、パッセージリングに操作を加えたと推測される。その後彼は何食わぬ顔で全てを元に戻し、この地を後にした。
 ラルゴは遅れてやって来るルークたちを待ち受けていた訳だが、モース辺りの命を受けキムラスカ軍に協力するためにシュレーの丘を離れることとなったのだろう。全ては推測に過ぎないが、この考え方が彼らの動きの理由としてはしっくり来る。
 軽く周囲を見渡して敵の姿が無いことを確認し、ジェイドは自分でも些か大げさだと分かる程に肩をすくめてみせた。

「やれやれ。敵が潜んでいたらどうするつもりだったんでしょうねえ、ローレライは」

 造られてから2000年以上の時を経たとは思えないほど美しい壁に手を這わせつつ、ぼそりと呟く。ジェイドの真似をして無造作にぺたぺたと壁を触りながらルークは、にこっと幼子のように笑いかけた。

「そりゃあさ。敵がいなくて、ジェイドや俺たちが来て、もう大丈夫だって思ったらローレライが仕掛けを解いてくれるんじゃないかな。あいつだって、その辺は考えてくれてるよ」
「それなら良いんですが」

 『前回』はどこか抜けていましたからねえ、と口の中だけで返してジェイドは小さく溜息をついた。ちらりと視線をパッセージリングに向けると、その前に佇立している譜石をじっと睨んでいるガイの背中が目に入る。アニスは彼から少し距離を置き、同じように譜石を見ていた。ティアだけは譜石には近づかず、空間の天井を見上げている。
 『今回』の世界ではアクゼリュス以降時折力を貸してくれるようになった意識集合体のことを、ジェイドは信頼こそしているものの信用はしていない。普通ならば逆であるはずだが、そう言った思考になる理由はちゃんと存在している。
 ジェイドには、ローレライのルークやアッシュに対するある種の愛情を否定する理由は無い。そうで無ければそもそも、ジェイドがこの世界に『戻って』来るに当たり彼の協力を得ることは出来なかっただろう。
 自身もまた、焔の髪を持つ2人の子どもたちには父親のような感情を持っていることを自覚している。それが一種の愛情であることも、どうにか理解は出来ている。
 だがローレライは、『前の世界』ではアブソーブゲートでの戦闘の末地核に落ちたヴァンの体内に封じられ、さらにその力を利用された。如何に相手がユリアの末裔であっても、契約の譜歌に対する拒否権の行使くらいはして欲しいものだと『記憶』を振り返りながら彼は思う。
 さらに、意識集合体を解放するために重要な『ローレライの鍵』と『ローレライの宝珠』。その2つは現在彼自身と共に地核にあり、ルークとアッシュの手に渡るためにはローレライ自身が彼らの元に転送しなければならない。だが、『前の世界』でその2つが焔たちの手に渡ったのはローレライがヴァンに囚われる寸前のこと。しかも宝珠はルークの肉体とコンタミネーションを起こしてしまい、レムの塔で彼が音素乖離寸前の状態になって初めて表に現れた。故に、ローレライの解放には時間が掛かり……その末に、ルークは世界から消えてしまったのだ。
 もっとも、『今回』の世界でそうならなければ良いだけの話ではあるのだが。それにはヴァンやモースの動きに先んじてこちらの思惑通りにことを進め、出来れば外殻大地降下の前には全ての問題を解決しておきたい。
 ローレライを解放するための2つのキーが未だ焔たちに渡されないのは、恐らくその受け渡しが可能な地点が両極のゲートであるからだろう。意識集合体側の都合をジェイドは知らないが、そうだとすれば納得が行く。
 そこまで話を進めるには、まだまだやるべきことが山積している。小さく息をつき、ジェイドはそのことを改めて感じ取っていた。

「大佐。後はユリア式封咒を解除して、セフィロトを操作すれば良いんですね」
「え?」

 ジェイドの思考を遮ったのは、ティアから掛けられた声。不意を突かれて驚いたのか、レンズの後ろにある真紅の瞳が数度瞬いた。とっさに指が眼鏡へと伸びるのは、もう癖になってしまった動作。柄にも無く狼狽えてしまった自身の表情を、眼鏡の位置を直すことで他人に見えないようにしたいのだろう。

「ええ、それで良いと思います。ですが……恐らく、グランツ謡将が手を加えているでしょうね」
「……兄さん……そう、ですね……」

 兄のことを口に出され、ティアは思わず俯く。『記憶』同様の展開であれば、既にヴァンはセフィロトの弁を閉じツリーの構築が為されないように封印を掛けているはずだ。その解除にはルーク、そしてアッシュが操ることの出来る超振動の力が必要となる。だが、今のままでそれを確認する術は無い。一度ユリア式封咒を解いてシステムを起動させなければ、システムに改変があったかどうかは分からないのだ。
 故にジェイドは、アクゼリュスで使ったものと同じ小型の音機関を取り出した。

「気持ちは分かりますが、ここで落ち込んでいても先へは進めませんよ。ティア、これを」
「済みません。ありがとうございます、大佐」

 渡された音機関をかちりと手首にはめ、ティアは顔を上げた。と、その様子を見とがめたのかルークが口を挟んで来る。

「ティア、ジェイド、それ何だ?」
「え?」

 ジェイドは視線を少年に移しただけだったが、ティアは目を丸くして不思議そうに声を上げる。不意に聞こえた少年の声に、ガイとアニスも彼の方を振り返る。主の肩にしがみついていた空色のチーグルが、ティアと良く似た表情でルークの顔を覗き込んだ。

「みゅ? ご主人様、知らないですの?」
「知らねえ、初めて見た。つーかブタザル、てめえ知ってんのかよ」

 自分の知らないことをミュウが知っているらしいことが腹立たしいのか、ルークは頬を膨らませて聖獣の顔に軽く拳を入れる。「みゅっ」と潰れた声を上げ落ちそうになりながら、ミュウはしっかりとルークの襟にしがみついて何とかしのぎきった。
 2人……と言うよりは1人と1匹のやり取りを見ていたティアが、「あ」と口元を押さえた。前回、この音機関をティアが使用したのはアクゼリュスのセフィロトでだ。その時、この少年は。

「アクゼリュスの時は、ルークは気絶してたわね」
「そうだったな。じゃあ、事情を知らないか」

 ガイが短い髪を掻き回しながら、納得の表情を顔に浮かべる。アニスがティアの側に駆け寄ると、その手首にある音機関を掲げるように持ち上げて見せた。

「これはですねぇ。マルクト脅威の技術力で開発された、1人用使い捨てタイプ障気フィルターなんでぇす。まあ大佐が中心になって研究してたらしいんですけど!」

 『大佐』の単語に力を入れつつもしれっと言い切ってしまった少女を、ジェイドは思わず半眼で睨み付けた。間違ってはいないのだが、わざわざそこまで言うこともあるまいに。

「……アニース」
「わは。嘘はついてませんよーだ」
「障気フィルター? ジェイドが?」

 『記憶』の世界と違い、ジェイドが睨み付けてもアニスは臆すること無く言葉を返して来る。そうしてルークは、不思議そうにジェイドの顔を見上げた。この軍人が音機関の開発に携わっているのが、奇妙に思えるのかも知れない。彼にしてみれば、譜業や音機関と言えばガイかサフィールなのだから。

「っつーか、何でまたそんなもんジェイドが作ったんだよ」

 そして、少年が口にしたその疑問も至極真っ当なものだ。
 何故わざわざジェイドが、音機関の開発に関わらなければならないのか。彼は軍人であるとは言え本質は譜術士だとルークは認識している。その彼が、譜業開発を手がける理由が分からないのだろう。
 その背後にあるのはジェイドが持つ『未来の記憶』なのだが、それを少年は知らない。ジェイドもそれを理解しているがために、答えは至極簡単なものになる。

「詳しくは後で説明しますが……まあ、言ってしまえばティアのためです」
「ティアの?」
「はい」

 そこに登場するのは、今音機関を腕に装着している少女の名前。障気から守りきらなければならないとジェイドが決めている、ルークにとってこれから大切になるはずの彼女を指し示して彼は頷いた。当の彼女は「ちゃんと後で説明するから」と一瞬だけ済まなそうに眉尻を下げた後、気を取り直しジェイドに視線を向ける。

「大佐、解除します」
「お願いします」

 短い言葉が一往復した後、ティアは音機関に指を触れさせた。その全身を光のフィールドが覆うのを確認してから、彼女は1つだけ佇立する譜石に向かって足を踏み出す。
 と、譜石の先端がぱかりと本のように開き、ふわりと光を放った。その光のほとんどはティアに届く前に消え去ったが、ほんの一部が彼女を包み込むように煌めく。それがトリガーとなったのか、パッセージリングの上部に透明を基調とした映像が出現した。
 セフィロトを意味する10の円形とそれらを結ぶ直線で構成された、外殻大地を守るための譜陣とも言うべき映像。円形のうち5つは『記憶』同様赤いラインで彩られており、既にヴァンによる操作が為されていることをジェイドに教えている。そしてこれも『記憶』通り、警告を示す赤いフォニック文字が譜陣を横切るように記されていた。
 ち、と軽く舌を打ち、ジェイドは眼鏡の位置を直す。それから譜石に歩み寄り、これまた『記憶』と同じく浮かび上がっている文章を読み取った。その内容も、彼が『覚えて』いるままで。


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