紅瞳の秘預言44 開戦

 倉庫でトクナガの調整を行っていたサフィールが、ふっと顔を上げた。白い顔にほんの少し油が跳ねているのが、黒子のように見えなくも無い。
 丁寧に解かれていた縫い目を、几帳面に縫い戻す。糸を玉留めにして銀髪の科学者は、人形の持ち主である少女の名を呼ばわった。

「アニス、終わりましたよ」
「ほんと? ありがとーディスト♪」

 すぐさま軽い足取りで駆け寄ってきたアニスに、「はいどうぞ」とトクナガを手渡すサフィール。軽く人形の頭を撫でてやりながら、彼を知る者が見れば驚くような優しい眼差しでアニスを見つめる。

「メンテナンスは製作者の義務みたいなものですからね、気にしないでください」
「そーゆーもんなのかな。でも、やっぱりありがとーだよ、トクナガの面倒見てくれたんだもん」

 まじまじと自分の手にある人形の顔を見つめていたアニスは、サフィールに視線を向けると満面の笑みを浮かべた。年齢相応の無邪気な笑顔は、彼女がモースの手を逃れてから時折見られるようになったものだ。
 神託の盾本部内で出会ってから、六神将の中でも変人と呼ばれたこの科学者は導師守護役である黒髪の少女を自身の友人と認定して何かと気を掛けていた。少女の方もあまり友人がいなかったせいか元からの世話焼き気質なのか、科学者の研究室に食事を届けたりしたこともある。
 そう言ったことから再会して以降、この2人は性別を超えた友人同士としてのんびりと付き合っていた。譜業の研究と親友のことしか頭にない科学者とまだ幼い少女では、恋愛沙汰の1つも聞かれまい。
 携帯用の工具を懐にしまいながら、サフィールは小さく溜息をつく。細い指がつん、とトクナガの頭の縫い目をつついた。

「それにしても、かなり乱暴な使い方をしたようですね。応急処置は済ませておきましたが、本来ならば部品を交換しなければならない部分もありましたよ」
「うは、マジ?」

 サフィールの言葉にアニスの顔が青ざめた。
 彼女は譜術を操る能力は年齢の割に秀でているが、直接的な戦闘はトクナガ頼りである。大元となった人形は母親であるパメラの手になるものであり、己の振動数に反応して巨大化するこの譜業人形はアニスの武器となり盾となる存在だ。
 そのトクナガの状態を今更ながらに知って、アニスはしゅんと年相応にしょげた。人形を腕の中にきゅっと抱きしめて、微かに頭を下げる。

「ごめん、気をつける」
「……まあ、戦闘能力を持たせたのは私ですからねえ。その辺は何とかしますよ」

 『友人』の気落ちした姿を見ていられなかったのか、視線を明後日の方に向けながらサフィールは癖のある黒髪を撫でた。ぽかんと目を丸くしたアニスの視線が自分に向けられていることに気づき、こほんと殊更に大きな咳をしてみせる。

「今は一刻を争う事態ですからどうしようもありませんが、時機を見計らってやりますよ。オールドラント1の譜業博士たる、この私にお任せなさい」

 いつものように偉そうなことを言いながら、白い頬が照れで赤く染まっている。その様子を見て、アニスは笑みを浮かべた。
 この男は彼なりに、少女を元気づけようとしているのだと理解出来たから。

「はは、ほんとごめん。今度一緒にご飯食べに行こうね、もちろんディストのおごりで!」
「おぅわっ!」

 だから、意図的に明るい声を上げてその細い背中を力一杯叩いてやった。子どもにひっぱたかれてぐらつくのもどうか、とは少し感じたけれど。

「あたたたた……な、何で誘った方がたかるんですか!」
「だって、どう考えてもあたしよりあんたの方がお金持ちだしぃ?」
「……まあ、否定はしませんが」

 涙目になりながら自分を力無く睨み付ける銀髪の科学者に、実のところアニスは心底感謝の念を抱いている。
 こんな軽口を叩けるのは、サフィールのおかげでスパイ活動をしなくても良くなったから。
 笑顔を作りながら心の底で罪悪感を持ち続けなくとも良くなったから。

 だけど、あたしだって照れくさいんだからさ。
 だから、面と向かってそんなこと言ってやらないもん。

 心の中だけでそう呟いて、黒髪の少女は一度にんまりと悪戯っ子のような笑みを浮かべた。そこで、気持ちを切り替える。

「話変わるけどさ、ディスト。イオン様やアリエッタ、先にセントビナーに行ってるんだよね?」

 表情も真剣なものに変え、アニスは問うた。口調の僅かな変化に気づいてサフィールも、指先で眼鏡の位置を直す。

「ええ。住民の避難のお手伝いに向かいました。女性であるノエルの方が丁寧に操縦すると思いましたので、2号機をあちらに送っています」

 そのまま指をくるくると回して宙に円を描きながらの説明台詞に、少女は不思議そうな顔をする。自身の周囲にいた女性は、おっとりしている母親を除くと大概がかなり乱暴とも思える性格だったから。この旅を始めてから出会ったティアとナタリアも、丁寧とは言えない節がそこかしこに見受けられる。

「そう言うもんなの?」
「個人差はありますが概ね。それと、いざというときの度胸は女性の方が据わっていましてね」

 対してサフィールの方は当たり前、と言わんばかりに大きく頷いた。そうして、レンズ越しの視線が焦点に据えたのはアッシュと並んで腰を下ろしているナタリアだった。

「ナタリア王女、アクゼリュスでのお話は伺いましたよ。走るライガの背から空を行くグリフィンを射抜くとは、なかなか出来るものではありません」
「え?」

 唐突に話の矛先を振られ、金の髪の王女はあたふたと落ち着かない態度を取った。彷徨っていた視線が自身を見つめるアッシュのそれと絡み合った瞬間、ナタリアの頬がぱあっと赤く染まる。

「そ、その、私は……アッシュと離れたくない一心で、だって大佐が手を離すなと……」
「……ナタリア」

 真紅の焔は一言、彼女の名だけを呼ぶと、その髪を軽く指先で梳いた。愛おしげな眼差しで恋人を見つめ、一転して殺気の籠もった視線でサフィールを睨み付ける。

「ディスト、てめぇ後で覚えてやがれ」
「いつでもどうぞ」

 『死神』と呼ばれていた頃の冷淡な眼差しでサフィールは、大袈裟に礼をして見せた。ぎりと歯を噛みしめ立ち上がりかけたアッシュの前に、ぴょんと跳ねながらアニスが割って入る。既にトクナガは背中の定位置にぶら下がっており、ゆらゆらと揺れていた。

「ちょっとぉアッシュ。ディストは良いけどさあ、大佐にはとばっちり食らわせちゃダメだよ?」

 ちちち、と人差し指を振りながら意地悪そうな顔でアニスはそんな言葉を口にした。次の瞬間、彼女の前後で2人の男の表情が同時に変化する。

「ムキー! 私は良いんですか!」
「む。何で、そこで奴が出て来る」

 キンキン声で叫びながら地団駄を踏むサフィールに対し、アッシュはふて腐れた表情でアニスを睨み付ける。頭の後ろで両手を組んで、少女はにまにまと笑みを浮かべつつ青年の顔を見返した。

「だって大佐、優しいもん。ディストが怪我したらきっと悲しむよ?」
「……ネイス博士を庇って、怪我をなさるかも知れませんわね」

 アニスの言葉を受けて、頬に手を当てながらナタリアが呟く。彼女の顔に浮かんでいた不安げな表情が、ふっと不機嫌なものに変化した。すっくと立ち上がり、アッシュに触れ合わんばかりにまで顔を近づける。

「アッシュ、そんなことになったらどうなさいますの? 国際問題に発展しかねませんわ」
「うっ……」

 言葉の内容に怯んだのか、それとも顔同士の距離にかは分からないが、アッシュは顔を引きつらせた。両手で少女を抑えるように壁を作りながら、こくこくと頷く。

「分かった。分かったからそんな顔をするな、ナタリア」
「本当ですわね?」
「……ああ」

 それでも詰め寄ろうとするナタリアに、青年はもう一度ゆっくりと頷いた。心の中で呟きながら。

 俺が気にしねえ訳がねえ。
 あんな夢を見せられちゃあ、な。


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