紅瞳の秘預言44 開戦

「セントビナーが見えました」

 操縦桿を握るギンジの声に、ルークは窓の外に視線を向けた。風景を空から見ると言う経験はほとんど無かったが、街の中にそびえ立つ巨木にはほんの少しだけ見覚えがあった。

「あ、あのでっかい木、何か見覚えある」
「ソイルの木ですね。樹齢が2000年ほどになるらしいですよ」

 ルークの肩越しに巨木を見下ろして、ジェイドが言葉を口にした。その年数を聞いて、少年が目を丸くする。

「にせんっ!? そ、そんじゃあ外殻大地が上がる前からあれ、生えてんのか!?」
「そうじゃ無いかしら? 世界の激動を見て来た、生き証人なのね」

 ティアも窓越しにソイルの木を見つめ、ほんの少し眼を細めた。アルビオールが生み出す風が、緑の葉をざわざわとざわめかせている。それがまるで彼らを手招きするように見えて、少女と空色のチーグルは意図すること無く同時に手を振った。
 一方、ガイは前方に広がる街の光景をじっと見つめていた。一瞬青い眼を眇めると、肩越しにジェイドを振り返る。

「旦那、まだ残ってる人がいる。あれ、多分もと元帥さんだ」
「おやおや。全員は積み込めませんでしたか」

 手招きに応じ、ジェイドは席を立った。ガイの肩に手を置き彼の指が示す先に視線を凝らすと、独特の豊かな髭がジェイドの視界に入った。こちらに向かって大きく手を振っているのは、間違い無くマクガヴァン翁だ。その周囲には数十人ほどの男性が集まっており、翁と同じように手を振っているのが見える。

「見えるだけしか残っていないなら、この1号機で全員運べそうですね」
「そうだな。ともかく、来て良かったみたいだ」

 顎に手を当てながら少し考え込んだジェイドに、ガイは屈託の無い笑顔を見せる。「そうですね」と頷いてジェイドは、街の周囲に視線を巡らせた。
 『記憶』の世界でアルビオールが到着したときには、既にセントビナーの街はディバイディングラインぎりぎりにまで降下してしまっていた。だが、今真下に見える街は地盤沈下こそ起きてはいるもののまだ落下を始めてはいない。ただ、もうそれは時間の問題であることが見て取れる。

 シュレーの丘はこちらの手に入りましたし、少しだけこちら側が有利ですかね。
 相手はグランツ謡将ですから、甘く見てはいけませんが。

「あまり時間は無さそうですね。ギンジ、あの広場に降りられますか」
「任せといてください」

 ジェイドの心の呟きを知らないまま、ギンジは親指を立ててみせると飛晃艇を街の広場へと降下させて行った。


 大地に激突すると見えた寸前、アルビオールはぴたりと静止する。そのままふわりと、周囲に風を巻き起こしながらほとんど音も無くその身を着地させた。
 タラップを降りて来たルークたちの回りに、マクガヴァン翁を初めとする住民たちが集まって来る。その人数は上から見たときとほとんど変わらず、彼らが街に残された最後の人員であろうことが推測出来た。

「ジェイド! 戻って来たか!」
「元帥、まだ残っておられたのですか?」

 ほっとした表情のジェイドに問われ、マクガヴァン翁は髭を軽く撫でた。彼には珍しく、昔の階級で呼ばれたことに気づいたのだろう。

「もと、じゃ。責任者のわしがさっさと逃げて何とする」
「これは失礼。責任感が強いのはよろしいんですが、ぎっくり腰で逃げられなくなっても知りませんよ?」
「何を言うか。そのためにも若い衆に残って貰っておるんじゃよ」

 間も無く崩落を始めんとする大地の上に立っていながら、どこか暢気に会話を交わす師弟。年老いた師の視線が、ジェイドと並ぶように早足で歩いて来たサフィールに移された。

「おお、サフィール坊やも元気そうじゃの」
「坊やはやめてくださいな。確かに、貴方から見りゃ小童でしょうけど」

 ついふて腐れながら腕を組んで見せるのは、サフィールにとっては癖になってしまった仕草だろう。軽く肩をすくめ、ジェイドは穏やかな笑みを浮かべながら友人をたしなめた。

「無理ですよ、サフィール。私でも坊や呼ばわりなんですから」
「……ジェイドとお揃いなら良いです」

 ──あーはいはい、やっぱりか。

 サフィール本人とジェイド、そしてコクピットから顔を覗かせているギンジを除く全員が同時に心の中で呆れ声を上げた。さすがのマクガヴァン翁も、髭を扱いて大きく溜息をつく。

「まあ、それはそれとして。もと元帥、避難は進んでいますか」

 サフィールの言動に呆れていない少数派の1人であるジェイドは、苦笑しつつ老人に向き直って問いを投げかける。マクガヴァン翁は「うむ」と深く頷いて、彼らのすぐ側に停められている飛晃艇を見上げた

「アルビオール、じゃったか。これがもう1機飛んで来てくれたおかげで、かなりはかどったわい。わしらで最後じゃ」
「そうですか。それは良かった」

 ジェイドもほっとしたように真紅の瞳を細め、軽く首を傾けた。それから金の髪の青年が自身を見つめているのに気づき、ちらりとその顔を伺う。

「どうしました?」
「……旦那、本気で預言士並みだな。本当に預言詠めないのか?」

 青の視線は軍人を疑っている、と言うよりはどこか呆れているような感情を含んでいる。ジェイドは眉尻を下げて、小さく首を振った。
 自分には預言を詠む能力も、傷を治す力も無い。
 あるのは、『未来の記憶』。

「詠めません。買いかぶりすぎですよ、ガイ」
「そっかなぁ……」

 首を捻りながら思考を進めようとする青年から視線を外し、一度眼鏡の位置を指先で直す。それから周囲を取り囲んでいるセントビナーの住民たちに視線を巡らせてジェイドは、凛と声を張り上げた。

「分かりました。では急ぎここを離れます、乗り込んでください」
「承知した。皆、行くぞ!」

 老人の、ジェイドに負けない張りと威厳のある声がすっかり人の少なくなった街中に響き渡る。子どもたちの誘導を受け、彼らは次々にアルビオールへと乗り込んで行った。


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