紅瞳の秘預言44 開戦
残留していた全員を収容し、再び1号機は空へと舞い上がった。程無く川を渡り、ルグニカ平野北部の上空へと翼は至る。
『それ』に最初に気づいたのは露骨に顔を歪めたガイと、「あ、あれ!」と叫んだルークだった。朱赤の焔が指差す先を不思議そうに覗き込んだアニスが一瞬びくりと震え、口元を手で抑える。
「……ちょ、マジ?」
「え……そんな!」
「……ちっ」
驚愕の表情を顔に貼り付けるティアに対し、アッシュは眉をしかめるだけで済ませた。彼と寄り添っているナタリアは顔面蒼白になり、唇を震わせている。
「そんな……どうして、戦が始まっているのです!?」
眼下には、ジェイドにとっては『2度目』の悪夢が広がっていた。
陸艦から撃ち出される砲撃が大地を抉り、空に砂塵を舞い上げる。
譜術士が描く譜陣から招かれる6つの音素の力が、生命を削り取って行く。
交わされる剣と剣は、互いの動きを止めるまで何度も打ち合わされる。
「開戦……していたようですね」
ち、と舌を打ったサフィールが、するりとジェイドの隣に滑り込む。レンズの奥の視線だけを彼に向け、囁くような声でジェイドは問うた。
「気がつかなかったんですか、サフィール」
「シェリダンと往復するときは、東の航路を取りましたからねえ。この上空は通ってませんよ」
感情を消したジェイドに対し、サフィールはあからさまに嫌な表情を浮かべている。ちらりとナタリアを気遣うアッシュの様子を視界の端に収め、銀の髪を揺らして問い返す。
「……このタイミングでしたか?」
「セントビナーの崩落速度を考えると、少し早いと思います。我々の動きが速かったからかも知れませんが」
「なるほど」
軍人の淡々とした返答に頷いて、科学者は白い頬を細い指でかりかりと掻く。少し思考を巡らせた後ジェイドに視線を戻すと、くすんだ金髪がふらりと揺れた。
「サフィール。セントビナーから先に脱出した住民はどちらへ?」
言葉と表情に、感情が戻っている。そのことにほっと息をつきサフィールは、彼の求める答えを言葉にして提示した。
「第三師団とグレン将軍の指揮の元、チーグルの森を迂回して北へ。チーグルの仔が燃やした跡地があるでしょう、そこに避難民キャンプを展開させています」
「……ミュウですか」
「ええ」
サフィールの提示した地域は、ジェイドの『記憶』を元に避難地域としてピオニーが指示したもの。エンゲーブの北側からテオルの森の南にかけてがルグニカ平野降下時の分断線となっており、かつてミュウが燃やしてしまった森は外殻大地全体を降下させるまではどうにか残っていたはずだ。
故に、ピオニーはその場所を避難民のキャンプ地として指定したのだろう。ジェイドが『覚えて』いる限りでは、キムラスカ軍はエンゲーブにまで到達していた。そこまで来ていながらグランコクマには届かなかったと言うことは、食料の村を手にしたキムラスカ軍が部隊の立て直しをしている最中にルグニカ平野が魔界に降下したと見て良い。故に、その北にある森までは彼らの手は伸びなかったはずだ。第一、グランコクマを攻めるにはあの森は進路から外れているのだから。
「しかし、あの辺りはライガの女王の縄張りだったはずですが、大丈夫ですか?」
「女王でしたら、キノコロード近辺まで北上したとアリエッタが言ってました」
更にジェイドが口にした疑問にも、サフィールは澱み無く答える。そうして人差し指を軽く振り、ふわりとした笑顔を浮かべる。彼にしてみれば、親友を安心させたい一心なのだろう。
「そもそも森が焼けて棲めなくなったから、彼女はチーグルの森まで南下して来たんでしょう? 戻ったところで森はまだ再生していませんから、大型の肉食獣が棲める状況ではありません」
ジェイドの端正な顔を、ほんの僅かくすんだ金髪が隠した。その髪を掻き上げて背中に流してやり、サフィールはなおも言葉を続ける。
「アリエッタの『お兄さん』から、近辺を縄張りにしている『ご兄弟』の方にしばらく別のところに移動しているように、と連絡を入れてくれたようです。あまり長くはいられませんが、1か月ほど落ち着くくらいなら大丈夫のようですよ。ただ、さほど面積はありませんしちゃんと整地されている訳でもありませんから、アルビオールが降りるのは無理なんじゃないですかねえ」
「……陛下が、そうしろと?」
「変なところで頭回りますからねえ、ピオニーは。まあそう言うわけなんで後は頼む、ってアスラン経由で貴方に言伝です」
一気にそこまで言い切って、銀髪の彼はぽんとジェイドの頭に手を乗せた。ネビリム先生が良くこうやって幼い自分や友人たちを慰めてくれていた、その頃のことを思い出しながら。
あの頃ジェイドはどこか超然としていて近寄りがたい雰囲気を漂わせていたけれど、今の彼はそれとはある意味真逆だ。持ち得ぬはずの『記憶』を持ったが故にどこか儚く、寂しげに見える。
「……ありがとう、ございます」
そんな礼の言葉1つにすら、泣きそうな感情が垣間見える。だからサフィールはつい視線を逸らし、ジェイドの顔を見ないようにした。
友人の泣き顔は、もう見たく無いから。
「礼を言うのはこちらの方ですよ。前もって分かってなきゃ、こんな動きは出来ませんものね」
素っ気ない口調でそれだけを彼に告げ、サフィールは操縦桿を握っている青年へと声を張り上げた。
「さて、ギンジ。戦争は始まってますけど、こちらは予定通り動きます。合流地点へ」
「了解です」
ギンジもまた同じように声を張り上げて、両手に力を込める。視界の端で閃光が走り、歩兵部隊の一部が吹き飛ばされた。
やがて1号機が降下したのは、戦火も見えなくなったルグニカ平原の外れだった。そこには2号機も停留しており、セントビナーから避難して来た住民たちが次々に陸艦へと乗り込んでいる。アスランはいなかったが、第三師団と協力して彼らを誘導していたイオンとアリエッタに、ジェイドは開戦の事実を告げた。
「そうですか……宣戦布告の報はこちらにも届いていたのですが、実際に戦が始まってしまったのですね」
気落ちした表情で俯くイオン。同様に気落ちしたままのナタリアを気遣って寄り添っているアッシュは、いらいらした表情で地面を蹴っている。
一方、アリエッタはぷうと頬を膨らませていた。敬愛する導師の落ち込む理由と元凶がはっきりしているだけに、彼女の怒りの矛先はそちらへと向かう。
「モース、意地悪。イオン様悲しませる、悪い人。ヴァン総長も悪い人!」
ぎゅうとぬいぐるみを抱きしめて、少女はかんかんに怒っている。その隣でイオンは、赤い瞳の軍人に小さく頭を下げた。
「済みません、ジェイド。ピオニー陛下はこうならないようにと僕に依頼をされたのに……」
「いえ、イオン様のせいではありません。我々の力不足がこうなった要因です」
「みゅみゅ。イオンさん、悪くないですの。元気出してくださいですの」
軽く首を振って答えるジェイド。足元に駆け寄ってきたミュウの身体を抱き上げて、イオンは言葉無くこくりと頷く。
軍人の隣に踏み出して来た赤い髪の詠師が、導師の緑の髪に軽く手を置いた。
「そうだな。それに導師イオン、この場合悪いのは預言に憑かれたモースだ。あんたが和平交渉を成功させていたとしても、なにがしかの理由を付けて戦争に持ち込んでいたはずだろう。奴にとっては開戦させてキムラスカを勝たせることが、ユリアの預言に適うことなのだからな」
「……はい」
ぎゅ、と杖を握りしめ、それでも力無くイオンは頷いた。アッシュはふんと小さく鼻を鳴らすと、金の髪の王女に身体ごと向き直る。伸ばした指先が、少しウェーブの掛かった髪に触れた。
「だから、ナタリアもしっかりしろ。これ以上、奴らの思うままに世界を蹂躙させるわけには行かん。ここで止まっていては、何も出来ないだろう」
「……アッシュ……そう、ですわね」
深い碧の瞳で優しく見つめられ、力強い言葉で諭されてナタリアは、ほんの僅かだけ表情を綻ばせた。
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