紅瞳の秘預言47 母性

「アリエッタは普通の人よりも五感が発達しているでしょうし、ミュウはチーグルですからね。我々にはルークとアッシュの匂いの違いなんて、ほとんど分かりませんよ」
「使ってる石鹸とかも、バチカルとダアトならともかくここんとこそんなに違わないしなあ。タルタロスの備え付けのやつとか宿に置いてあるやつとか使ってた訳だしさ」
「大佐は時々香水をお使いのようですけど、そうでも無ければあまり他人の匂いなんて気にしませんしね」

 ルークは腕を組んで考え込み、ティアは自分の頬に手を当てた。ライガの女王の娘として育てられたアリエッタと元々魔物であるミュウは、その出自の関係で匂いや音には敏感だ。故に、普通人間には分からない僅かな匂いの違いにも反応するのだろう。

 だから、深夜のタタル渓谷で焔の青年を迎えた聖獣は、彼に近づこうとはしなかった。
 彼が、帰還を待ち望んでいた主では無いと気づいていたから。

 ジェイドがそんなことを言っていたな、とサフィールは頭の隅で呟いた。その言葉を口には出さず、音律士の少女に視線を向ける。
 今は、『来るべきでは無い未来』を論じている場合では無い。
 ここは既に仮想敵の手中であり、自分たちはその手から仲間を救うためにこの地を訪れたのだから。
 そのためには、彼女が奏でることの出来るユリアの譜歌の力が必要になる。

「ああ、ティア。貴方は打ち合わせ通り先行してください。ジェイドをお願いします」

 アッシュとナタリア王女は恐らく、ジェイドたちとは分けられて閉じこめられているはずです。
 先に地下牢に降りて、ジェイドたちと合流してください。貴方の譜歌で見張りを眠らせれば可能でしょう。
 多分ジェイドは、アッシュたちがどこにいるか分かっているはずですよ。

 ジェイドの『記憶』における状況は、現在においてそう変化があるものでは無いだろう。そう考え、サフィールはアルビオールの中でティアに指示を下していた。ジェイドがナタリアの私室の位置を『知って』いることはこの際、大した問題では無い。最悪自分が知っていた、とでもすれば良いことだ。
 そう言ったサフィールの思考には気づかずに、ティアは真剣な表情で頷いた。そうして、朱赤の焔をじっと見つめる。彼女の視線には弟を見る姉のような、それでいて少し異なった色が混じっていた。

「分かりました。ルーク、先に行ってるわ」
「気をつけろよ、ティア」
「危なくなったら、逃げて」
「みゅみゅ。ティアさん、頑張ってくださいですの。ご主人様はボクに任せてくださいですの」

 ここからしばらくの間単独行動になる彼女の身を案じるルークとアリエッタに対し、ミュウは無邪気に笑って応援の言葉を贈る。言われたティアの方は一瞬目を丸くして、それから少しだけ頬を赤らめた。恐らく心の中では、ミュウ可愛いと言う言葉が反響を起こしているのだろう。

「ふふ。ミュウ、ありがとう。ルーク、アリエッタ、ネイス博士、早く来てくださいね」

 それでも現実からの乖離を何とか免れて、ティアは空色の頭をふわふわと撫でた。それからルークに一度微笑んで、すぐに駆け出して行った。長い髪が一瞬鼻先をかすめた瞬間漂ってきた香りに、ルークは目を瞬かせる。

「……うわ。良い匂い、した」
「うん。お花の匂い」
「作った匂いじゃないですの。咲いているお花の匂いですの」

 同じ香りを嗅いだらしいアリエッタとミュウが、同じ表情をしてこくこくと頷く。その彼らを一歩離れたところで見つめていたサフィールは、苦笑を浮かべつつ髪を掻いた。

「ケセドニアで花屋やハーブショップを覗いてたみたいですから、その匂いかも知れませんねぇ」

 その間に、ティアの姿は見えなくなっていた。それに気づき、サフィールがこほんと1つ咳払いをする。

「さ、ぐずぐずしてはいられません。急ぎますよ、ルーク」
「あ、うん」

 名を呼ばれて朱赤の焔は、自身がこの場所まで戻って来た理由を思い出した。一度拳をぐっと握り、そうして視線を巡らせる。
 こうやって外から見るのはやっと2度目になる、自身が7年の時間を過ごして来たファブレ公爵邸。

「……母上……」

 ぽつんとルークがこぼした言葉を、すぐ側で聞いていたミュウは拾わないことにした。まだ幼いチーグルであっても、その言葉に籠められた主の思いはそれなりに分かるから。


 捕縛されたナタリア一行がケセドニアを離れて少し経った頃、ルークたち一行は無事にザオ遺跡地下のセフィロトの操作を終えた。それによりルグニカ大陸一帯を魔界へと降下させてすぐ、ノエルのアルビオールを駆って彼らはケセドニアへと帰還した。
 ルークがアッシュの姿をしていたために、街に残っていた神託の盾兵士たちは何の疑いも無く彼らに情報を提供してくれた。そこで彼らは、アッシュとナタリアが『王位簒奪を企んだ重罪人』として囚われたことを知ったのである。無論、サフィールだけは事前にジェイドから知らされていた話ではあったのだが。

「モースのことですから、ユリアの預言を忠実に再現するための口実みたいなものなんでしょうねぇ」

 外殻大地へと戻るために再び飛び立ったアルビオールの機上で、サフィールは大きく溜息をつきつつ額を手で抑えた。
 客観的に見てみれば異様な展開だが、ユリアが遺した預言の遵守を第一に考えるあの大詠師にとってはこれもまた、世界のためを考えてのことなのだろう。
 その預言の最後を、知ることも無いままに。

「だからと言って、何もナタリアまで……」
「すり替えが事実かどうかはともかくとして、その問題が表沙汰になる前にアクゼリュスで殺すつもりだったんでしょうね。そうすれば問題は立ち消えになりますし、何より国民に愛されている王女がマルクトの陰謀で殺されたと言うことで戦意高揚も出来ますからねえ」

 ぎりと歯を噛みしめるティアの言葉に、サフィールは意識して感情を抑えつつ答えを紡いだ。『前回』の世界ではその愚かな企みに己も荷担していたことを知っている銀髪の科学者は、だからこそ彼らをジェイドの望む未来に導くためにも自身だけは冷静でいなければならないのだと心に言い聞かせている。

「モースさん、意地悪ですの。ボク、モースさん嫌いですの!」
「アリエッタも、モース嫌い。イオン様も、ルークも、みんなみんないじめるんだもん。許せない」
「くそったれ。狙うなら俺だけにしろっての。何でナタリアまで巻き込むんだよ、あの野郎」

 ティアの膝の上で、ミュウは小さな両手を振り回して怒った。アリエッタも不機嫌そうに眉をひそめながら、ぬいぐるみで自分の口元を隠す。そしてルークは、座っている席の肘掛けに拳を叩きつけた。

「全くですねぇ。ああ言う阿呆に権力持たせちゃいけませんよ、ほんと」

 どうにか冷静を保っているサフィールは、感情を抑えているのかあまり口を開こうとしないティアに目を向けた。固く閉じられた唇が、小刻みに震えているのが分かる。『世界を救うため』と称して何の罪もない友人たちの生命を断とうとしているモース、その裏に世界を滅ぼそうと画策している実兄ヴァンの姿を見ているからか。
 この状況で現在直面している問題を全て解決するのは、さすがに『未来』を知っているジェイドにも骨が折れる作業だろう。

「で、ですねぇ。まずはバチカルでジェイドたちを助け出した後、ベルケンドかシェリダン辺りに逃げることにしましょう。一休みしてから、他のセフィロトを回ります」

 だから、まずは最大の問題をひとまず片付けることにしようとサフィールは結論づける。セフィロトへの操作を行う過程で彼らの気を落ち着け、それから向き合うことになるであろう他の問題をゆっくりと解決していけば良い。

「インゴベルト陛下も多分、モースの上手い口に騙されているんだと思いますよ。少し落ち着いて考えれば、ナタリア王女が王位簒奪なんぞやるわけ無いって分かるでしょうに」

 細い指で空にくるくると円を描きながら、サフィールは子どもたちにも分かりやすいように言葉を選んで口にする。彼の言葉に「それもそうだよな」と頷いたのはルークだった。

「ナタリアは王位だ何だって言う前に、国民のことを考える奴だもん。それに、王位を継ぐのは俺……じゃないや、アッシュだろうしさ」
「赤い髪に碧の瞳、でしたっけ? 王位継承権における優先順位」
「うん。だから、陛下の娘であるナタリアがそうじゃないから、その形質を持ってる俺……じゃ無くってアッシュと婚約、ってことだと思う」
「で、モース様はそのアッシュをルークだと勘違いして処刑しようとしている訳ですよね」

 頬杖を突きながら、ティアが怒りを抑えるように低い声でぼそりと呟いた。おお怖い、と軽く背筋を震わせてからサフィールは、冷酷な笑みを浮かべて見せた。

「だからこちらは、その勘違いを嘲笑いに行くんですよ。で、皆を助けてさっさと逃げます」
「まあ、それが妥当なんだろうな」
「でも、逃げる時きっとキムラスカ軍、邪魔する」

 難しい顔をしながら頷いたルークをちらりと見て、アリエッタがぷうと頬を膨らませる。無論、その問題もサフィールと、そしてジェイドは考えに入れてある。ジェイドの『経験』ではアッシュと白光騎士団、そしてバチカルの市民が力を貸してくれた。だが『今回』はアッシュ自身が囚われており、バチカルの市民を扇動するには時間が足りない。

「そうですね。その辺もちゃんと考えてありますから」

 それでも残る1つの要因は動かせる。ジェイドはサフィールに、その起動を託した。それはつまり、自分自身の生命を銀髪の友に託すと言うこと。

「それにはルーク、貴方の協力が必要になります。良いですね?」
「俺?」

 自分の顔を指差した少年に、もう1人の生みの親とも言える彼はにこやかに微笑んで「はい」と頷いた。
 要因を起動させるためのキーとなるのは、自分たちの研究の成果として生まれたこの少年なのだから。


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