紅瞳の秘預言53 一念

 音機関研究所を出た一行は、そのまま宿に部屋を取ることにした。
 念のため周囲に警戒の目を巡らせては見たものの、ヴァンの指示でもあったのか神託の盾兵士がルークたちを監視しているような様子は見受けられない。それを確認し、ジェイドは小さく溜息をついた。この辺りは『前回』とさほど変わらない状況とは言え、さすがに敵の手中にあると言っても過言では無い状況なのだから。
 本来ベルケンドは、アッシュとルークの父であるファブレ公爵の領地だ。つまり半ば国王直轄領に近いとも言え、キムラスカ上層部と繋がりの深い神託の盾の主席総長であるヴァンが研究所に執務室を持っていることもそれが関係しているのであろう。さらに音機関の研究が盛んな都市であるベルケンドは、譜業開発が盛んなキムラスカにとって重要都市の1つに位置づけられる。
 だが、領主であるファブレ公爵は夫人シュザンヌの身体的問題や嫡子ルークの身辺警護などを理由にバチカルの最上部に屋敷を構え、ベルケンドには知事を置いて統括させている。一方ローレライ教団は音機関研究所を実質的に支配し、ルークがレプリカであることを隠蔽するために彼の身体測定データの改ざんを図る一方でレプリカ研究を着々と進めている。つまり、この都市は現在事実上ローレライ教団の……はっきり言ってしまえば、ヴァン・グランツの支配下にあると言って良いだろう。

「とは言え、バチカルからすっ飛んで来てすぐですからねえ。アルビオールもありませんし、皆さんもお疲れでしょうし。ヴァン総長もアッシュのご機嫌を取りたいでしょうから、手は出さないんじゃ無いですか?」

 研究所の出口で再合流したサフィールは、あっけらかんと言ってのけた。やたら上機嫌な顔をしていることにアッシュは露骨に眉をしかめたが、彼の言うことには一理あると頷く。

「万が一を考えて、見張りを立てれば問題は無いだろう。ディスト、死霊使い、てめえらはダアトから持ち出した禁書の分析もあるんじゃねえか?」
「はっはっは、そうなんですよ〜。と言うわけで、私とジェイドだけ別室に籠もります」
「部屋が空いているとは限りませんよ?」

 アッシュの言葉に首を縦に振り、部屋割りの要望を出して来たサフィールにティアは小さく溜息をついた。
 ルグニカ平野を中心とした地域の魔界降下によりなし崩しに休戦状態に陥っているとは言え、今は戦時中だ。普段宿を取るような客こそ少ないだろうが、戦時需要を狙った商人や出向中の技術者などが宿を占拠している可能性もある。

「既に3部屋ほど確保しておきました。これでも音機関研究所の責任者ですしね、顔は利くんですよ」

 だが、名目上は未だ六神将であり技術者のトップに立っている銀髪の学者は平然と胸を張ってみせた。思わず額を押さえたアッシュの横で、ナタリアが「まあ」と目を丸くする。

「さすがはネイス博士ですわ。細かいお気遣いが行き届いているのですね」
「どうだか。部屋を取っておかないとジェイドが疲れるから、じゃねえの?」
「何でバレたんですか?」

 両手で頬を押さえほんわりと微笑んだナタリアの背後で、頭の後ろで手を組んだルークが半ば呆れたような声を上げた。途端ぎくりと身体を震わせたサフィールの反応に、ジェイド当人以外の全員が『ああ、やっぱりか』と言う感想を心の中でだけ呟く。
 その中で、金の髪の青年はちらりと真紅の瞳に視線を向けた。

「俺の前であんなこと言わせてて良いのかよ、旦那。ここで1泊とか、禁書の話とか」
「何故ですか? ガイ」

 知らぬ振りをして、ジェイドはガイに問い返す。本当は、彼の言いたいことを分かっているのだけれど。
 ほんの僅か前、ルークたちの前に立ちはだかる敵であることがはっきりしたヴァン・グランツは、ガイ・セシルを『ファブレ公爵家への復讐を誓った同志』と呼ばわったのだから。

「俺がヴァン謡将側のスパイだったりしたら、どうするつもりなんだ」
「信じていますから」

 けれど、ガイの問いにジェイドは何の躊躇いも無くそう答えた。
 『知って』いるから……と言うこともあるのだが、それ以上にジェイドはガイのルークに対する親愛の情と信頼を信じている。この世界では無い世界で同行者たちから見放されたルークを親友と呼び、ユリアロードまで迎えに行った彼の思いを。
 ガイはルークを友として、養い子として信頼している。だからこそグランコクマで自分が本当は誰であるか、何故ファブレの家に入り込んだのかを明かして見せたのだ。そうすることで、自分を信じて欲しかったから。

「……っ」
「みゅ〜。ボクもガイさんのこと、信じてるですの。ガイさん、ご主人様とすっごく仲良しですの、悪い人じゃ無いですの」
「ふふ、そうね」

 思わず息を詰まらせたガイに、ミュウが無邪気に笑いながら大きく両手を振った。ティアもふわりと笑みを浮かべ、それから少し真剣な表情に戻って口を開く。

「兄が貴方を諜報役として使うのなら、私たちの前で貴方との繋がりを明言するなんてことはしないわ」
「私も、ガイを信じますわ。今までのガイの言葉、行動が全て芝居だとは思えませんもの」

 ナタリアも真剣な眼差しで頷き、胸元で軽く手を握る。いつものように彼女の隣に姿がある真紅の焔は、言葉こそ口にはしないものの表情がナタリアへの同意を示していた。

「昔話ぶっちゃけたんですか、ヴァン総長。なら、確かにティアの言う通りでしょ」

 呆れたと肩をすくめながら、サフィールもまた同意する。そこからちらりと向けられた視線に、ルークは小さく頷くとじっとガイの顔を見つめた。

「グランコクマでさあ、ガイは俺に自分のこと信じてくれって言ったじゃんか。俺は元からガイのことを信じてるし、みんなだってそうだと思うぞ」

 当たり前のように、朱赤の髪の子どもはそんな言葉を口にした。自分の親を仇と狙いあまつさえ自身の殺害をも心の片隅に置いていた青年を、ずっと信じていると。

「な、アッシュ?」
「……まあな」

 そうして、彼に名を呼ばれた真紅の髪の青年も小さくだが頷いた。彼にしてみればガイは幼い日に世話になった守り役であり、自分とルークの間を何くれと無く取り持ってくれている友人である。神託の盾騎士団の特務師団長として世界の裏側を多く見て来た彼からも、ガイを疑うべき要素は見えない。
 だが、裏で生きて来たからこそアッシュには、素直に渡してやるべき言葉を紡ぐことは出来なかった。

「万が一裏切ることがあれば、俺が殺してやる。それで良いな」
「……ありがとう。期待には応えるさ」

 精一杯の思いを込めたアッシュの言葉に、ガイはほっとしたように感謝の意を述べた。彼には元より、アッシュの手を自身の血で穢させるつもりは無い。無論アッシュ自身、己の言葉が成就することを願っている訳でも無い。それは互いに、言葉にせずとも分かっている。
 ほんの僅か空気が沈んだところで、ぱんと手を打ち鳴らす音が響いた。発信者であるところの銀髪の学者は、1人だけ上機嫌な顔のままくるりと全員の顔を見渡す。

「はいはい。話が落ち着いたところで皆さん、さっさと宿に入りましょう。ご飯を食べて風呂に入って、気持ちを切り替えないとね」
「まあ、確かにそうですね」

 ジェイドは頷いて、幼馴染みの側に歩み寄る。穏やかに微笑んで、柔らかくくるんだ指示の言葉を口にした。『記憶』の中でもヴァンの襲撃は無かったし、今回は仲間も多いため危険度は低いと踏んだのだ。
 万が一があれば、自分が盾になれば良い。

「私とサフィールは禁書の読み込みがありますから、貴方がたは明日までゆっくり休養を取ってください。良いですね?」
「みゅみゅう。ご主人様、ボクお腹空いたですのー」

 身体の小さな聖獣が、大きな耳を上下させながら主張する。ナタリアはほっと息をつき、軽く己の腹に手を当てた。頬が少しだけ赤らんでいるから、もしかしたら微かに音が鳴ったのかも知れない。

「そう、ですわね。何だかお腹が空いてしまいましたわ。アッシュ、食事に参りましょう」
「その前に軽く湯を浴びておけ。髪と肌が台無しだ」

 アッシュは僅かに眼を細め、ウェーブのかかった金の髪に軽く指先で触れた。




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