紅瞳の秘預言55 思惑

 譜陣の光が薄れ、目を閉じていたアニスはすっと瞼を開いた。その隣では、アリエッタが眩しかったのか目を擦っている。2人は顔を見合わせると無言で頷き、足音を忍ばせながら導師の居室へと駆け出して行った。
 扉が開かれると、大きすぎる椅子に埋もれるように座っているイオンの姿が2人の少女の目に入る。気配に気づいて顔を上げた導師は、そこに己の守り役たる少女たちを認め目を見張った。

「イオン様!」
「イオン様ぁ!」
「アニス、アリエッタ! どうしたんですか?」

 軽く跳ねるように椅子から降りて、イオンは彼女たちの名を呼びながら駆け寄って来た。満面の笑みを浮かべているアリエッタに対し、アニスは周囲に警戒の視線を巡らせながら口を開く。

「どうしたも何も、お迎えに来たんですよう。いつまでもダアトにいたら、また大詠師や主席総長に何されるか分かりませんって」

 ぷう、と頬を膨らませながら訴えるアニス。なるほどと頷いて、イオンは2人の顔を見比べた。

「そうですか。済みません、ここまで来るのは大変だったでしょう?」
「大丈夫。ギンジ、ダアトの空で待ってる」

 アリエッタが口にした人物の名にはイオンも心当たりがあった。アルビオール1号機の専属操縦士である、シェリダンの技術者を祖父に持つ青年。
 つまり彼女たちは、飛晃艇でこのダアトまで自分を迎えに来たと言うわけだ。確かに、定期船などを利用するよりはその方がずっと早い。ヴァンやモースを出し抜くにはうってつけの移動手段である。

「……ところで、掲示してあったの見たんですけど。主席総長、破門しちゃったんですかあ?」

 アニスの問いの声に、イオンははっと意識を引き戻す。そう言えば、今日付でヴァン・グランツはローレライ教団を破門と言うことになっているはずだった。その事実と理由を明記した破門状が掲示されているのを、アニスは目にしたのだろう。

「ええ、実は。おかげで、彼に従うと言って神託の盾兵士が大勢出て行ったようです。組織の再編が必要みたいです」
「うはー、何じゃそりゃ。まるで神託の盾が主席総長の私兵みたいじゃないですかあ」
「破門?」

 肩を落としたイオンを見つめ、アニスは眉間にしわを寄せる。対してアリエッタは、単語の意味が分からなかったのかぱちくりと目を瞬かせた。彼女とて師団長の1人ではあるが、人事権に関してはヴァンやリグレット任せだったとイオンは聞いている。あまり知恵を付けさせても困る、とヴァンは考えていたのだろう。

「ヴァンはとても悪いことをしたので、もうローレライ教団の人間では無いですよってことです」
「……そっか。ヴァン総長、イオン様やルークいじめた。世界をレプリカにしちゃう、悪い人」

 導師の平易な言葉を使った説明に、桜色の髪を揺らしてアリエッタは大きく頷いた。『母』たるライガの女王が存命している上に『レプリカ計画』を知り、イオン自身の真実を知った『今回』の彼女の心はとうに、ヴァンから離れてしまっている。
 ジェイドが『前回』の悲劇を回避しようとして女王を救ったことが、今こうやって世界の進路を異なったものにしていた。もっとも、当の本人はそれに気づいていないのだけれど。

「……って、向こうがたの六神将も出てったんじゃ無いですか? それ」
「ラルゴとシンクの部屋はもぬけの殻だそうです。リグレットはヴァンの副官ですから、言わずもがなですね」

 黒髪の少女が発した確認とも取れる問いを肯定して、イオンは机の上に残してある書類に目をやった。そこには彼らが脱退した後の人事案が殴り書きされている。
 モースが大詠師の地位にある現在、イオンの人事案はほとんど通ることが無いから、これはイオン自身が半ば趣味で書き付けたものだ。その中にはアニスやカンタビレ、そしてアリエッタの名が記されている。
 少女の名を指先でなぞってからイオンは、ふわりといつものように柔らかい笑みを浮かべた。

「でも、アリエッタは残ってくれるんでしょう?」
「もちろん! アリエッタ、イオン様のお側にいます!」

 即座に大きく頷いた少女にほっと息をつき、イオンは壁に立てかけてあった愛用の杖を手に取った。長い旅路を経て音叉型のシンボルや軸、先端などに細かい傷が入ってはいるけれど、これは『イオン』として生まれ育った少年が積み重ねた経験の証でもある。

「なら大丈夫ですよ。ディストやアッシュもいますし、カンタビレが動いてくれているようですから。さて」

 共に進んでくれることを確信している仲間たちの名を呼びつつ懐に入れた小さな譜石を服の上から握りしめ、イオンは表情を引き締めた。
 ほんの僅か成った始祖ユリアとの会話において、分かったこと。
 ユリアもローレライも、惑星預言の成就を望んではいない。
 もう1つの預言も、現実にするわけにはいかない。

 言い方は陳腐ですけれど……世界を救いましょう。
 そのためにまずは、外殻大地を救わなくてはいけませんよね。

 そのために自分はどう動くべきかを、この少年は理解していた。
 自分にしか出来ないことを、誰に命令されるでも無く自分でやると決めたのだ。
 鉱山の街を破壊すると決めた、ルークと同じように。

「僕はこれから、各地のセフィロトを視察に回らなければなりません。六神将アリエッタ、導師守護役アニス・タトリン。導師の名において、僕の供を命じます」
「はい! アリエッタ、お供を仰せつかります!」
「アニス・タトリン、ご命令をお受けします!」

 2人の少女はぴしりと敬礼を見せる。一瞬だけ静寂に包まれた室内は、次の瞬間導師の少年も含めた3人の笑い声で満たされた。


 宿を出ると、街中は昨晩よりもずっと落ち着いているようにルークたちには感じられた。恐らく、ヴァンが神託の盾兵士を引きつれて街を出たためだろう。昨日までそこかしこを歩いていた白い鎧の姿も、今日はまるで目に入らない。作業員たちは相変わらずの様子だったが、神託の盾が姿を消したせいか街の空気はどこと無く柔らかくなっている。

「師匠、ほんとに行っちゃったんだな」

 出る前にアッシュと服を取り替え、元の白いコートに戻ったルークが小さく溜息をつく。ヴァンたちがいないことが分かっていたせいか、今日は2人の焔が髪を隠すことは無い。

「いない方が助かる。リグレット辺りに闇討ちでもされたら敵わんからな」

 六神将の姿に戻ったアッシュも軽く肩をすくめる。譜業銃を操る彼女がヴァンに付き従って街を出てくれたことで、自らの刃が届かない距離からの奇襲を恐れなくて済むから。

「兄さん、教官を連れて行ったのね」
「バチカルに戻った後で、なにがしかの用事を言いつけるのではありませんかしら? 私はあまり存じ上げませんけれど、有能な副官でいらっしゃるのでしょう?」
「ええ。私も教官に軍人としての技能や心得を教わったし」
「……ティアにとっては良い師でしたのね。貴方は彼女の生徒として、胸を張ってよろしいのでは無くて?」

 焔たちのすぐ後ろを歩いているティアとナタリアが、予断無く周囲に目を配りながらひそひそと言葉を交わしている。年齢も近いせいか、すっかり仲良くなっているようだと2人の更に後ろを歩きながらガイは悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「ナタリア、だいぶ落ち着いたみたいだな」
「アッシュがいるからでしょうね。それに、自分のことだけを考えている場合では無いと思っているんでしょう。いろいろ問題は山積していますから」
「だな。ナタリアらしい考え方だ」

 ちらりと青の視線を向けられて、ジェイドは苦笑する。足元をちょこちょこ歩いているミュウが自分を見上げているのに気づき、小さく肩を揺らした。

「みゅみゅ。皆さん、きっと大丈夫ですの。仲良しさんだから、頑張っていけるですの」
「はは、確かに」
「そうですね。ミュウの言う通りです」

 腕を広げることで小さな身体を精一杯大きく見せながら、聖獣は元気いっぱいに言葉を放つ。そうして、耳をぴんと立てて笑って見せることで対照的な色の瞳を持つ2人の顔を綻ばせた。

「ガイー! 何してんだよ、入るぞー!」
「ジェイドー、何してるんですかあ!」

 途端、前方から友人たちの声がした。顔を上げると、既に目の前には音機関研究所の建物があった。そのすぐ手前で、一行の先頭に立っているサフィールが大きく手を振っている。
 サフィールと並び、こちらを振り返って手招きをしているルークの横でアッシュが額に手を当てていた。彼に寄り添うナタリアと、さりげなくルークの側に移動したティアも自分たちに視線を向けている。

「済みません。行きましょう、ガイ」
「オーライ、旦那」

 仲間たちを待たせては申し訳ない。そう視線で語り合って2人は、少しだけ足を速めた。


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