紅瞳の秘預言55 思惑

「あー、お待たせしました。お連れしましたよ」

 いつものようにどこか脳天気な台詞を口にしながら、サフィールが入って来た。それに気づき視線を向けた全員の表情が、次の瞬間強張る。

「……」
「スピノザ!」

 銀髪の学者の背に隠れるようにして入室した技術者の名を叫び、ヘンケンがつかつかと足音も高く詰め寄る。そうしてひょいと脇に避けたサフィールには目もくれず、スピノザの胸倉をぐいと掴んだ。

「貴様、どの面下げて出て来おったんじゃ!」
「す、すまんかった!」

 怯えつつも謝罪の言葉を口にして、スピノザは必死にヘンケンの顔を見つめる。その目をじっと見返していたヘンケンだったが、しばらくして手を離した。

「……何がすまんかったのか、それをはっきり言わんかい」

 床に倒れ込み、げほげほと咳き込むスピノザを仁王立ちで見下ろしながらヘンケンが言葉を吐き出した。ルークたちがじっと見つめる中、スピノザは床に座り直す。

「……わ、わしの勝手な好奇心で禁忌の技術に手を出したこと、じゃ」
「ふん、どうだか」
「ちょっとヘンケン、やめなさいな。あんた、スピノザがどういう人間か分かってるでしょう」

 おずおずと言葉を口にするスピノザに、ヘンケンは鼻息も荒く吐き捨てる。キャシーが呆れたようにたしなめると、ぷいと視線を逸らした。
 と、ルークが動いた。すたすたスピノザの前まで歩み寄って来ると、嬉しそうに顔を綻ばせる。

「スピノザ!」

 名を呼ばれ、顔を上げた技術者の視界に入ったのは、この前会ったときと同じように笑う朱赤の焔。そうして少年の言葉も、同じように彼の耳に入って来た。

「ありがとう。話、聞いた。俺、生きられるって」
「……良かったの。方法が見つかって」
「ああ!」

 ジェイドから頼まれた研究、そしてサフィールから頼まれた検証。2つを結びつけ、大爆発で消え去るはずだったレプリカの少年を救うことが出来たのは、他でも無いスピノザの存在があったからだ。それを分かっていたからルークは、何の迷いも無く彼に礼の言葉を述べた。
 少年の言葉の意味が理解出来なかったらしいキャシーが、首を傾げながらサフィールに視線を向ける。スピノザを連れて来た彼ならば、事情を知っていると踏んだのだろう。

「何の話かね? ディスト様」
「スピノザに研究結果の検証をお願いしたんです。フォミクリー関連のものでして」

 しれっと答えたサフィールの言葉の中に出て来た単語。それにいち早く反応したヘンケンが、一瞬にして顔を紅潮させた。拳を振り上げ、座ったままのスピノザに振り下ろそうとする。

「なんじゃと! スピノザ、お前まだ!」
「ま、待ってくれ!」

 慌ててヘンケンとスピノザの間に割り込んで、ルークはヘンケンを振り返ると大きく手を広げた。その目の前で、ヘンケンの拳はぴたりと止められる。少年の動きに慌てたように足を踏み出したビリジアンが、眉をひそめ彼の名を呼んだ。

「ルーク様?」
「違うんだ。その……聞いてくれ。俺、レプリカなんだ」

 事情を説明するためとは言え自身が複製体であることを口にする時、一瞬ルークは口ごもった。だが、きりと奥歯を噛みしめると顔を上げ、言葉を続ける。

「俺、このままだと死んじゃうらしいんだ。それで、ジェイドやディストやスピノザが、俺が死ななくてすむようにってそう言う研究してくれたんだよ。だから、スピノザは悪くない。俺を助けるためなんだ」
「……それは、本当ですか」
「本当だ」

 知事のかすれた声が紡いだ問いに答えたのは、真紅の焔だった。ルークの横に並び、前髪を掻き乱してみせる。

「こいつのオリジナルは俺だ。今のまま放置しておくと、俺がルークを食い潰すらしい」
「何と……」

 鏡映しと言っても良いほどそっくりな2人を見比べて、ヘンケンが思わず息を飲んだ。ビリジアンも目を見張り、アッシュの次の言葉を待っている。

「だから、こいつらは俺たちがそうならないよう研究を重ねた。スピノザがいなければ、第三者的立場からの検証が出来なかっただろう」
「何てこったい。スピノザ、あんた……」

 少しだけ表情を和らげたアッシュが、視線をちらりとスピノザに向ける。その視線を追うように、キャシーもまた旧友である技術者の顔を見つめた。
 その当人は膝の上で拳を握りしめていた。真剣な眼差しは、彼が嘘をついていないことを何よりも雄弁に物語っている。

「謝って許されるわけでは無いことくらい、わしにも分かっとる。もう取り返しのつかない事態があることもな……じゃから、せめてこれからは後悔の無い研究をして行きたい。この子がわしに礼を言ってくれたときに、わしはそう思ったんじゃ」

 ありがとう!

 レプリカであることをスピノザが隠蔽してくれていたからこそ、自分はごく普通の子どもとして育てて貰うことが出来た……ルークはそう言った。
 禁忌の研究に溺れ、旧友たちと仲を違えたことを後悔しながらどうすることも出来なかったスピノザがこうやって頭を下げることを選んだのは、偏にルークの存在が大きい。
 だからスピノザは、ジェイドの説得やサフィールの言葉に応じることにしたのだ。自分が手にした禁忌が生み出した子どもの笑顔を、消さないために。

「はいはい。もう分かったでしょう?」

 ぱん、と乾いた音が室内に響いた。
 一斉に視線を己に集中させて、サフィールは満足げににっこりと笑う。これでまた1つ、ジェイドの笑顔を消す要素を潰すことが出来たから。
 もう少し、念を押しておいても問題は無いだろう。

「第三者には聞かれたくないこともあるでしょうから、話の続きは研究室でおやりなさいな。思うところもあるんでしょうけど、喧嘩しちゃ駄目ですよ?」
「済まんの……礼を言いますぞ、ディスト様」
「構いませんよ。私も似たようなもんですから」

 まだ少し怯えが残っているらしいスピノザの、それでもほっとしたような礼の言葉を受けてサフィールは軽く首を振る。ちらりと視線を向けた先は、この部屋の主でありながら半ば放置された格好の知事だった。

「で、知事」
「分かっている。私はここには来ていない。ルーク様はあくまでルーク様だ」

 一連のやり取りをじっと見ていたはずのビリジアンは、しれっと答えてみせた。この場に存在していない人物が、ここで交わされた会話を知るはずは無い……つまり口外することは無いと言う意思表示である。

 ジェイドの『記憶』だと、この連中ヴァン総長に殺られちゃうんでしたっけ。
 どこからか情報が漏れていないとも限りませんし、何とか対策を考えた方が良いでしょう。

 ふうむ、と考え込みながら窓の外を見上げたサフィールの視界を、一瞬だけ白い鳥の姿がよぎる。彼が目を瞬かせた時には既にその姿は消えていて、だから彼はその存在をすぐに記憶から消去した。


 森の緑の中にびしゃり、と赤い血が飛び散った。苦も無くひねり潰された白い鳩の身体を貪りながら、女はつまらなそうに独りごちる。

「伝書鳩って筋肉がちがちで、あまり美味しく無いのよねえ」

 ばりばりと骨までも平らげてしまい、血に染まった口元を手で拭う。白く細い指先が小さな紙を広げ、色素がほとんど無いために赤く見える瞳がにいと細められた。

「まあ、技術者の中にスパイがいてもおかしくは無いわよねえ。この名前は……最近来た下っ端さんかしら? 見つけて締め上げておかないと駄目ねえ」

 ルークとナタリアのベルケンド滞在と彼らが禁書を持っていることを記した紙は、一瞬にして譜術の火で燃え尽きた。灰すらも残さず白い煙と化した紙に意識を向けること無く、彼女は空を見上げた。メジオラ突風の影響を受けたのか、今日は雲の動きが速い。その間から、眩しい太陽とうっすら光る譜石帯がよく見える。

「ふん、強襲しようったってそうは行かないわ。私がここにいるんだもの」

 大きく手を広げた彼女の背中で、白と黒の翼がばさりと広げられる。日の光を全身に浴びながら、ゲルダは楽しそうに笑った。

「ベルケンドは私が守ってあげる。貴方の見た血を2度と見ないように、私が戦うわ。だから……頑張ってね、『父上』」

 ジェイドの『記憶』を知るピオニーは、サフィールの感じた危惧を予見して最強の守りを派遣していた。紅瞳の譜術士が遠い日に生み出した、『最初の娘』を。


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