紅瞳の秘預言57 感謝

「はあ、こんな所だったんだなあ」

 草の上に一歩を踏み出して、ルークはくるりと周囲を見回した。ティアも同じように足を踏み出すと、一度大きく息を吸い込む。そうして、はあと吐き出した。

「そうね。あの時は夜だったから」

 そう言って微笑むティアの美しい顔に、一瞬頬を赤らめるとルークは視線を逸らした。
 ここはタタル渓谷。セフィロトの1つが存在しているこの地は、7年の間ファブレ邸の敷地内しか知らなかったルークが初めて踏みしめた『外』でもある。これまでのセフィロトよりも豊かな緑と、清浄な空気に満ちた渓谷の奥に、パッセージリングは設置されている。
 セフィロト操作と地核振動数の測定のためとは言え、ルークは自身の旅が始まったこの地を再び訪れることになるとは思っていなかった。前回とは訪れた時間帯が異なる上晴天に恵まれ、明るい日差しがさんさんと降り注ぐためにまるで初めて見たような錯覚に襲われるけれど……ここは間違い無く、彼が降り立ったその地。
 眩しそうに周囲を見渡す一行の中にあって、アニスは大きく深呼吸をするとくるりとイオンを振り返った。

「空気、美味しいですねえ。イオン様、お加減どうですか?」
「ええ。ここにいるとかなり、気分は楽です」
「良かった。イオン様、しんどかったら言ってね?」

 にこにこ笑うイオンの側に寄り添い、アリエッタも上機嫌だ。
 アルビオールの護衛としてアリエッタが残して来た『兄』やフレスベルグ、グリフィンに代わり今彼女に寄り添っているのは、テオルの森でアスランを案内して来た小さなライガと同時期に生まれた『末妹』のライガである。アニスからプレゼントされたピンクのリボンを首元に止めた『彼女』は、『姉』アリエッタにとって大事な人であるイオンを守るようにその側から離れようとしない。

「ふふ、大丈夫ですよ。でももしかしたら、帰りは頼ることになるかも知れません」
「任せて。ね、大丈夫だよね」
「くるるる」

 素直に答えたイオンの言葉に、アリエッタは満面の笑みを浮かべる。『末妹』も喉を鳴らし、ぱたんと尻尾を揺らして自身の機嫌が良いことを示した。その向こうでアッシュはナタリアと肩を並べ、咲いた花を見ている。眼鏡を外し目を擦っているサフィールは、恐らく眩しくて仕方が無いのだろう。
 そうして、幼馴染みや子どもたちを楽しそうに眺めているジェイドの姿がイオンの視界に入った。視線が合うとジェイドは一瞬真紅の目を見張ったが、すぐにその端正な顔には穏やかな笑みが浮かぶ。

 ああ、こんな笑顔の方がやっぱり良いですね。

 『預言』の中で見た消える瞬間の彼の笑みを思い出し、イオンは軽く首を振る。
 少年導師は、悩みや不安を1人心の内に留めておくことを出来るだけやめよう、と決めていた。
 ジェイドに関する秘預言はルークたち第七音譜術士の子どもたちと共有することが出来ているし、己の出生も既に明かされた上で皆は受け入れてくれている。
 だから、1人で内側に抱え込んで悩むのはやめることにしたのだ。イオン1人だけではどうにもならないことでも、皆で力を合わせればきっと何とかなると分かったから。

 ジェイドも、分かってくれていますよね?

 ぽつんと、イオンは心の中で呟いた。
 来たるべきで無い未来の光景の中で、光に解けたジェイド。それはきっと1人で悩み、考え、辿り着いた道だったから。
 今この世界に生きているジェイドは、サフィールやピオニーの力を借りてここにいる。
 だから、きっと大丈夫だとイオンは自分に言い聞かせた。


 きょろきょろと周囲の風景に視線を向けているルークの顔を、アリエッタが見上げた。

「どうしたの? ルーク」
「いや……何て言うかさ。俺の旅の第一歩、ここから始まったんだなって思い出して」
「おや、そうなんですか?」

 ルークが口にした答えに、サフィールが眼鏡のレンズをきらりと輝かせた。ちら、とこちらを伺う視線に気づき、ジェイドは眼を細めつつ口を開く。

「バチカルのファブレ邸からここまで、ティアとの共鳴による疑似超振動で飛ばされて来たんだそうです」
「ほう。それで、俺たちがタルタロスを襲撃した時そこにいたんだな」

 その話は初耳だったらしいアッシュが、自身の顎を撫でながら感心したように声を上げる。アニスが肩をすくめ、思い出しながらうんうんと頷いた。

「タルタロスに乗り込んだときそんなこと言ってたっけ。改めて聞くと、疑似超振動ってすごい威力なんだ」
「それでも、『疑似』なのですわよね……」

 頬に手を当てながら、ナタリアが半ば呆れた表情を浮かべた。ティアが苦笑しつつ、微かな風に流れる髪を手で押さえる。

「不完全な超振動だったからこそここまでしか飛ばされなかった、のかも知れないけれどね」
「そうかもなあ。あと、再構成されたおかげで助かったって前にジェイド言ってたよな。そうでなきゃ、うちくらいは吹っ飛んでたって」

 靴の裏から伝わる踏みしめた草の音を楽しみながら、ルークが懐かしそうに眼を細めた。それぞれのペースで彼の後を歩きながら、ジェイドもほんの少し唇の端を上げる。

「ええ。疑似超振動でその程度の破壊力は出せますから、本来の超振動であれば……」
「バチカル上層部がまるごと吹っ飛んでてもおかしくないですねえ。あっはっは、アッシュとルークが良い子たちで良かったですよ」

 ことさら明るい口調で、サフィールがジェイドの言葉を引き取る。それから日に焼けていない手を伸ばし、軽く朱赤の髪を撫でた。
 ローレライの力を借りることの出来る子どもがこの子たちで良かった、とサフィールは言いたいのだろう。
 2人はそれぞれにヴァンの支配を逃れ、自分たちと共に明るい未来を目指している。
 それはつまり、ジェイドが望んでいることだから。

 ざわり、と木の葉が一瞬の強い風にざわめいた。その風は朱赤と真紅、2色の赤い髪を舞い上がらせる。ティアの栗色の髪やアリエッタの桜色の髪、そしてジェイドのくすんだ金髪もふわりと揺らめいた。

「でもさあ、何か不思議な感じぃ」

 癖のある黒髪を風に揺らしながら、アニスが溜息混じりに言葉を紡いだ。突然何を、と言う雰囲気の中、少女はマイペースに言葉を続ける。

「ルークがここに来てなきゃあたし、一生ルークに会わなかったかも知れないんだよねえ」
「そっか。ティアと会ってここまで飛ばされて無かったら俺、マルクトに来ることも無かったんだ」

 アニスの言葉に気づかされたかのように、ルークは目を見張った。全ての始まりはあの日、ティアと共にこの少年がこの地に降り立ったことなのだと。

「そだよー。ルーク、何も知らずに親善大使として担ぎ出されてさ、今頃アクゼリュスと一緒に死んじゃってたかも。あたしもずーっと、イオン様のそばでモースのスパイやってたんだと思う」

 頭の後ろで手を組んで、にこにこ笑うアニス。仲間たちも、彼女の言葉にそれぞれなるほど、と頷いた。

「そうか……俺はルークを憎んだままで、ヴァンの良いように操られていたかもな」
「私は……兄に返り討ちにされていたか、それとも見つかるはずも無い第七譜石を探し続けていたかね」

 顎を撫でながら呟くアッシュを視界に入れながら、ティアが口元に指を当てる。その足元で、ミュウが空色の小さな身体を精一杯伸ばしながら声を張り上げた。

「ええとええと、ボクはずっとチーグルの森にいたと思うですの。ご主人様にもきっと、会えなかったですの」
「それか、私が実験用に捕まえてたかも知れませんね。私はまあ、多分ヴァン総長の計画に乗ってたままでしたでしょうし」
「アリエッタも、ヴァン総長の部下だった。アリエッタのイオン様がもういないこと、知らないままで」

 銀の髪を掻き回しながらサフィールは、アリエッタと顔を見合わせた。少しだけ表情がほぐれたのは、そうでは無い現状を再確認したからだろうか。

「私は、何も知らずにルークの死を嘆いていたか……マルクト憎しと叫んでいたのかも知れませんわね。もしかしたら、キムラスカを仇と睨んだガイと刃を交えていたかも知れません」
「僕は全てのセフィロトを開かされて……その後はきっと放置、ですね。ダアト式封咒を全て解いてしまえば、ヴァンは僕にはもう何の用もありませんから」

 ウェーブの掛かった金髪に指を絡め、ナタリアが呟く。イオンは杖を握りしめて、僅かに下唇を噛んだ。
 そんな彼らの上に一度視線を巡らせて、ジェイドは僅かに瞼を閉じる。何も知らぬまま、エンゲーブでルークと会うことも無ければ自分は、きっと。

「私は……ああ、きっとルークと一緒に、アクゼリュスで死んでいましたね。マルクトを戦乱に引きずり込むために」

 マルクトを滅ぼし、キムラスカをつかの間の繁栄に導くための生け贄として自身は、鉱山の街で生命を落としていただろう。『前の世界』でそうならなかったのは、そのずっと前にルークと出会っていたからだ。


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