紅瞳の秘預言59 覚悟
雪が積もっている。
深く積もった雪の上、自身を守る兵士たちが焦りながら陣形を取り直すのを、ピオニーはぼんやりとした目で見つめていた。
何だ、夢か。
ぼそりと呟くのは、胸の内でだけ。
これは、ジェイドを和平の使者としてキムラスカに送り出す1年も前に繰り広げられた、『過去の現実』。そのくらい、ピオニーにも理解出来てはいた。
「第3小隊! 散開して取り囲め!」
「あああああっ!」
「早いっ!」
上官の命令が飛ぶよりも早く、積もった雪の一部が赤く染まるのが分かる。
近衛兵たちはケテルブルク郊外のこの雪には慣れておらず、すぐに足を取られてバランスを崩す。
こんなことなら、駐留兵を連れて来た方が良かったな。
冷徹な表情で戦況を見つめる皇帝の前で、彼女はまた1つ血の花を咲かせた。と、一瞬だけその足元が滑ったのにピオニーは気づく。
「はぁっ!」
反射的に、身体が動いた。積もったばかりの雪の中、兵士たちが踏み荒らしたために押し固められた部分を蹴ってピオニーは、一気に彼女との距離を詰める。
着地点は柔らかな雪だったが、手袋を付けた手でそこを思い切り叩きその勢いを乗せた蹴りを彼女に振り下ろした。がき、と硬い衝撃が走ったから、頭に命中したかも知れない。
「……へ、陛下っ!?」
「危険です、お下がりください!」
周囲を取り囲んでいる兵士たちが、ピオニーの参戦にやっと気づいた。当の皇帝は蹴りを食らわせた反動で彼女から距離を取り、構える。
「たまには暴れさせろ! お前たちは周囲の警戒を! ちいと暴れるから、雪崩が起きるかも知れん!」
「し、しかし!」
「皇帝勅命!」
鋭い口調でピオニーが言葉を放ったのは、倒れていた彼女がむくりと起き上がる様子が視界の端に映ったから。
普段はジェイドをやりこめるためのわがままに乱用される四字熟語。それを、ジェイドでは無い相手を従わせるために使ったのはどれくらいぶりだろう、とピオニーはおかしなことを考える。
だが、死霊使いジェイドですら従わざるを得ないその言葉は、他の兵士にとって絶対。
「は、はいっ!」
慌てて駆け出し、雪に足を取られて転ぶ兵士たちには目もくれず、ピオニーはその足跡を通路代わりに駆け抜けた。そうして距離を詰めながら、拳をリズミカルに突き出す。
「はっ、はっ、はっ!」
「くああっ!」
辛うじてその拳を受けるのは、ほっそりとした腕。だが、その向こうにちらりと見えた赤い瞳には理性の光が宿っていない。白い髪に返り血で無い赤がにじんでいるのが、恐らく先ほどピオニーの蹴りが入った部分だろう。
と、その細腕が剣を構えた。ぶんと振り回された魔剣は、だが軸が安定していなかったせいかほんの少し捻られた皇帝の身体には掠りもしない。
「その靴で足元は安定しないだろ! こっちゃガキの頃から慣れてんだ!」
素早く足元を払われ、バランスを崩して倒れ込む彼女にピオニーは続けざまに拳と手刀を叩き込む。
ジェイドの『記憶』が正しければ、今の彼女は獣と同じようなものだ。だから、こちらが力で彼女よりも上であることを示す必要があった。
「そら!」
たおやかな手を潰す勢いで殴り、魔剣を外させる。そうして腕を取ると背中側に回し、端正な顔を雪の上に押し付けた。自身の体重を彼女の折れそうな身体に乗せることで、その動きを封じ込める。
「分かったな? 俺の勝ちだ」
「う……ぐ……」
ピオニーの下で、彼女が苦しげに身をよじる。そこまでダメージを加えたかと一瞬考えて、ふと紅瞳の幼馴染みが彼女について語った言葉を思い出した。
レムとシャドウの音素が足りない、そう言っていました。
「……音素乖離が進んでたんだっけな。第一と、第六だったか」
口の中で復唱しつつ、ピオニーは防寒着のポケットに放り込んでいたカプセルを取り出した。白と黒のものであることを視界の端で確認し、彼女の口に押し込む。
「ほら、落ち着け。薬だ」
「ん、ぐむ、んっ」
力負けしたのが影響したのか、彼女はほとんど抵抗することも無くカプセルを飲み下す。続けてピオニーが懐から取り出した小さな水筒を口に当ててやると、ごくごくと喉を鳴らして水を飲み込んだ。
数度咳き込んだ後、女は赤い瞳を何度か瞬かせた。そうして、じっとピオニーの顔を見つめる。化粧もしていないのに赤く色づいた唇が、僅かに震えた。
「あ……あ、なた、は」
その表情が知っている者を見る人間のものであることに、ピオニーはなるほどと眼を細めた。ジェイドが『記憶』に残る彼女について話をしてくれた際の、彼の言葉を思い出したから。
私やサフィールの名を呼んでいましたし、過去について少々口にしていました。
もしかしたら、オリジナルから僅かなりとも記憶を引き継いでいたのかも知れません。
今のルークたちとは、作り方が違いましたから。
「俺が、分かるんだな?」
あの時のジェイドの言葉を再確認するために、わざとそう尋ねる。彼女はじっと彼の顔を見つめ、たどたどしく言葉を口にした。
「ぴ、お、にぃ……?」
「今は皇帝だ。少しでも理性があるなら、そう呼べ」
感情を込めずに、そう命じる。彼女の唇が『陛下』の音を紡いだのを確認して、ピオニーは彼女から降りると力任せに立ち上がらせた。三々五々集まって来た近衛兵の中から隊長の姿を見つけ、彼女の身体を押し出す。
「こいつを極秘にグランコクマまで移送しろ。警備を厳重に。知事にも、ジェイドにも知らせるな。神託の盾にも、情報を漏らすな」
「で、ですが陛下!」
「勅命だ。獣には相応の教育を施してやらねばならん。音素の安定で、少しは理性も戻ってるようだしな」
ジェイドも良く知っていることだが、ピオニーは自身の意見を曲げることは無い。それが国に関わることであれば国を第一に、民を守ることであれば民を第一に考えた意見を唱え、反対する家臣とは激しくやり合う。
そして、今回ピオニーは『彼女を生かす』と言う意見を口にした。無論彼なりに考えがあってのことだが、それを安易に口にすることは出来ない。
何故ならそれは、ジェイドだけが持っている『記憶』に関わることだから。
「……殺さないの?」
不思議そうにピオニーを見上げる彼女の顔には、先ほどまでの殺気は既に微塵も存在していない。単純な勝負でピオニーに負かされたことと、不足していた音素を補充されたために理性を取り戻したことが影響しているようだ。
「お前を殺したところで、失われた生命が戻るわけじゃ無い。それならこれだけの力で、今後奪われるはずの生命を守って貰うさ。先行投資だ」
にい、と歯を見せて笑うピオニーの表情の方が、かえって先ほどの彼女に近い。もしくは獣に近い、と言い換えても良いだろう。
「俺直属の駒が欲しい。単独で敵陣を破れるような、守るべき者を全力で守りきれるような力のある駒が。お前の力はそれに値する」
はっきりとそう言い切る皇帝の顔から、彼女は目を離すことが出来ない。自分を負かした男であると言う以上に、何か引かれるものが見えたから。
なんだろう。
わたし、どうしてこんなにおだやかにいられるんだろう。
わたし、どうしてだれかのためになりたいっておもえるんだろう。
「私に、貴方の駒になれと言うの?」
「俺は、ジェイドの力になりたい。それには、お前の力が要る。俺が勝ったのだから、この俺こそがお前のボスだ。命令に従え」
何の迷いも無くそう断言したピオニーの青い瞳を、彼女はどこかで覚えていた。遠い日、一緒に雪の街で過ごしたのは自分では無いけれど、それでも彼女は知っていた。
彼と、彼を取り囲んでいた友人たちを。
ねえ、わたしをおこしてくれたひと。
だれでもいいわ、ありがとう。
わたしは、だれかのちからになれる。
「──話を聞かせて。ずっと眠っていたはずの私がここにいるのも、きっと何かの縁だわ」
決心したかのように、ゲルダはそう答えた。全身の色素が薄いせいで血の色が透けて赤く見える瞳は、焔のように輝いている。
何だ。
あいつも同じことを思っていたのか。
頼むぞ、ゲルダ。
ジェイドを護ってやってくれ。
そう夢の中で呟いて、ピオニーの意識は更に深い闇の底へと落ちて行った。
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