紅瞳の秘預言60 一夜

「遅くまで起きてるなんて悪い子ね? 導師イオン」
「いっ!?」
「あ、ばれちゃいました?」

 慌てて振り返ったガイの目に、森の色の髪が映る。ぺろっと舌を出したイオンと、その両脇を固める2人の少女が建物の影から歩み出て来た。アニスは暢気にひらひらと手を振っているが、アリエッタは強張った表情のままじっとゲルダを見つめている。

「な、何でこんな所にいるんですか?」
「外を見たら、ガイがどこかに行くところだったのでつい、ついて来ちゃいました。済みません」
「ガイが女の人に優しいってのは知ってたけど、ご飯の後にこっそりだもん。興味ありあり〜」
「……ったく」

 あたふたしながらのガイの問いにイオンは無邪気な笑顔で答え、アニスはにたにたと腹黒い笑顔で言葉を繋ぐ。口を開かないアリエッタを心の端で気に掛けながらも、ガイは短い金髪をかりかりと掻いた。ゲルダのことを、導師たちに説明しなければならないと思ったのだろう。

「彼女はベルケンドで知り合ったゲルダさん。い組のみんなと一緒にこっちに来た時に、キャシーさんのサポートに回ってくれてね。俺が女性に触れないからさ。助かったよ」
「ゲルダ?」

 その名が記憶のどこかに引っかかったのか、イオンが僅かに眉をひそめた。ほんの少し考えて、同じ名を持つ女性の記録を呼んだことを思い出し、はっと顔を上げる。

「まさか、神託の盾元師団長のゲルダ・ネビリム?」
「オリジナルはね。私は違うわ。年齢だっておかしいでしょう?」
「オリジナルは、って……」

 くすりと肩を揺らし、イオンの言葉をやんわりと否定する。その意味に気づき、アニスが目を瞬かせた。
 イオンを挟んでその横から、アリエッタがゲルダを見つめたまますっと足を踏み出した。イオンを僅かに背に庇い、白と黒の衣装を纏う彼女を指差して強い言葉を投げかける。

「その人、血のにおいがする。ママやお兄ちゃんたちと近いにおい」
「あら、やっぱり気づいちゃった? 安心して。貴方と貴方のお友達に手は出さないわ」

 軽く肩をそびやかせ、背中の翼で夜の空気を叩く。そうしてゲルダは、イオンに真っ直ぐ向き直った。彼らには、自身の正体を明かしておいても問題は無いだろう。

「導師イオン。私はゲルダ……貴方の一番上の『姉』に当たる存在、とでも言えば良いかしら」
「一番上の『姉』……」

 彼女が口にした言葉が何を意味するものであるのか、イオンにもすぐに分かった。アリエッタも姉という言葉自体の意味は理解出来るようで、目を丸くしている。

「では貴方が、ジェイドが生み出した最初の生体レプリカなのですね」
「イオン様のお姉ちゃん? 悪い子じゃ無い?」
「悪い子だったら、こんなとこにいないと思うよー」

 アニスが笑って友人の肩を軽く叩いてやる。彼女たちは、かつてゲルダ自身が起こした血の惨劇を知らない。それ故のアニスの言葉だったのだが、ゲルダは己の過去にこの場で言及するつもりは無かった。いずれ知られることになってもおかしくは無いけれど、その時は今では無いだろうから。

「正確に言えば、昔は悪い子だったのよ。でも、私を怒ってくれる人がいてね……だから、悪い子はやめたの」

 故に、そんな風にゲルダはさらりと答えた。それから全員の顔を見渡して、不意に表情を真剣なものに改める。

「……ガイにはお願いしてあるのだけれど……導師、お嬢さんたち。1つ、お願いを聞いてくれない?」
「お願い?」
「何ですか? 聞けることであれば」

 少女たちは声を揃えて首を傾げ、少年はふわりと優しい笑みを浮かべて頷いた。同じレプリカと言うことで、さほど無理を言うことは無いだろうと言う判断が働いたのかも知れない。
 無論ゲルダは、無茶な願いを聞き入れて貰うつもりは微塵も無かった。ただ、大切な人を傷つけたく無いだけ。

「ジェイドとサフィールには、私の存在を秘密にしてちょうだい。私は、あの子たちの心の傷だから」

 少しだけ寂しそうに微笑んだゲルダの表情に、イオンは一瞬だけジェイドの『最期』の笑みを重ねてしまう。2人の守り役に知られぬよう少年は僅かに首を振り、その表情を消し去った。

 きっとこの人も、ジェイドには笑っていて欲しいんですよね。
 だったら、その願いを叶えましょう。
 僕たちだって、思いは同じなのだから。


 夜の海をじっと見つめているのは、金の髪を揺らす少女。技術者たちの往来もこの辺りには余り見られず、だから彼女は自身の背後に真紅の焔が現れたことにすぐ気づいた。

「アッシュ……」
「どうした? ナタリア」

 振り返った彼女の表情が僅かに沈んでいることに気づき、アッシュはほんの少しだけ声を落とした。そのまま肩が触れ合うほどの距離で並び立ち、暗い海を見つめる。
 もっとも、彼女が1人物思いに耽っている以上その理由などアッシュには分かり切っているのだが。

「……まだ、伯父上のことが気になっているのか」
「そう……みたいですわね。吹っ切れているつもりだったのに、いけませんわ」

 青年の言葉に小さく頷いて、ナタリアは己の腕をぐっと握りしめた。唇を噛みしめかけて、その痛みに意識を引き戻される。
 その表情を視界の端だけで確認して、ぽつりとアッシュが呟いた。さわと風が流れ、長い真紅の髪が闇の中を溶け込むように舞う。

「まあ、仕方の無いことだ。それまで築いた世界が、真実とはまるで違うものだったと気づかされたのだからな」

 アッシュの言葉にこくんと頷き、ナタリアも海へと視線を戻した。ウェーブの掛かった柔らかな金の髪が風に揺れ、微かな光を反射させる。

「婚約者と信じたルークはレプリカで、私は父と慕った王の娘では無かった。大地が空の上に存在して、今にも崩壊寸前などと言うことも私どもは知らなかった」

 祈るように目を閉じ、少女は預言を読む預言士のように事実を羅列する。真紅の焔は無言のまま、彼女の言葉に耳を傾けている。

「ですが、きっとこれで良かったのですわ。何も知らず、秘預言のままに世界の破滅を迎えるよりは、よほど」

 瞼を開いたナタリアの顔は、それまでの憂いを吹き飛ばすかのように晴れ晴れとしていた。にっこりと微笑んで、互いの肩が触れ合うほど側にいるアッシュへと視線を向ける。

「ルークには、カーティス大佐やティアがいます。私のアッシュは、こうやって戻って来てくださいました」
「ああ。死霊使いとディストのおかげで、俺は戻って来ることが出来た」

 ジェイドの願いを受け、サフィールが処置を施して洗脳を解いたことで、アッシュは今こうやってナタリアの隣に佇んでいることが出来る。ジェイドの知る『前の世界』で自分がずっと単独行動を取っていたことをアッシュは知らないが、もし彼らの助力が無ければ少なくともルークたちと共に歩んではいないだろうと言うことくらいは彼にも推測出来た。

「そして何よりも、私は私なのです。名が違おうとも、王族の血が通っておらずとも」

 凛とした表情で、ナタリアは言葉を続けた。幼い頃より赤い髪も碧の目も持たぬ王女として苦労を重ね、己の力で今の立場を造り上げた彼女である。インゴベルト王の実の子で無かったことはショックだったけれど、それでもすべきことに変わりがあるわけでは無い。

「お父様の元で育って、この目で世界を見て、自分の心に決めたことを実行するのは他の誰でも無い、私です。そこに生まれも名前も、必要ではありません」

 そこまで言い切ってしまってからナタリアは、ほんの少し距離を開けてアッシュが身体ごと自分に向いていることに気づいた。彼女が向き直るのを待って、青年はふわりと穏やかな笑みを浮かべる。
 一度すうと息を吸い込んでから、アッシュはゆっくりと口を開いた。

「──いつか俺たちが大人になったら、この国を変えよう」

 一瞬、ナタリアの目が見開かれた。
 遠くに聞こえていたはずの技術者たちのざわめきも、譜業の稼働音も、この場には届かない。
 まるで世界に彼と彼女だけしか存在していないかのように、青年の声だけが響く。

「貴族以外の人間も貧しい思いをしないように、戦争が起こらないように……」

 忘れない。
 一言一句、忘れるわけが無い。
 幼い彼が、自分の精一杯の思いを込めてくれた言葉なのだから。
 この言葉をずっと胸に秘めて、ナタリアは生きて来たのだから。

「……死ぬまで一緒にいて、この国を変えよう」

 だから、最後の言葉は無意識のうちに、ナタリアの口からもこぼれ出ていた。
 自身の言葉を覚えていてくれたことに、アッシュは幸せそうに顔を綻ばせる。そうしてゆっくりと足を進め、伸ばされたナタリアの手を取った。

「王の子であろうと無かろうと、国を変えることは出来る。皆で力を合わせて、世界を変えることだって出来る」
「……はい」

 微かに頬を染め、ナタリアが小さく頷く。幸福を描き出したような笑顔で、碧の瞳をじっと見つめた。

「世界を守り、国を変え、星の未来を紡ぎましょう。……ずっと隣にいてくださいましね、アッシュ」
「当然だ」

 どちらからともなく回された腕が、しっかりと互いの存在をその中に確認し合う。恋うる相手の体温を確かめながら2人は、言葉に紡ぐこと無く思いを通じ合わせた。

 預言を違え、未来を変える。
 自分たちを再び結びつけてくれた真紅の瞳のあの人が、消えない未来を作り出そう。





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