紅瞳の秘預言 65 記憶

「タルタロスが出たか……」

 ラルゴが、苦々しげに顔を歪めた。たった1人の女を相手に、彼と彼の部隊はシェリダンの街に辿り着くこともないままその血をまき散らしている。頼みは別働隊と単独行動しているシンクだが、少なくとも別働隊がシェリダンの街を襲撃出来た気配は無い。恐らくはインゴベルト王がこの事態を予見し、守備隊を増派していたのだろう。
 もっとも、さすがに多数を相手に回してはゲルダも無傷でいられるはずが無かった。ドレスの白はそのほとんどが赤に染まり、激しく肩で息をしている。もっともその足元には、二度と動くことの無い白い鎧たちが大量に転がっているのだが。

「さ、どうするの? 撤収しないなら無駄死にが増えるだけよ」

 それでも彼女は、肉食獣の如き笑みを浮かべた。顔を隠す布はその用途を半ば放棄しており、口元から覗く鋭い牙はラルゴの視界にもはっきりと映し出されている。血が多く流れたことで彼女は半ば理性を放棄しており、赤い瞳は爛々と輝いていた。

「まるで獣のような女だな」

 ラルゴの感想は率直すぎるものであり、ゲルダを苦笑させる。ピオニーと出会い叩きのめされるまで獣そのものだった彼女は、小さく頷いてその言葉に同意した。

「当然でしょうね、元々理性の無い獣だったもの。で? 大人しく引き下がるんだったら、これ以上殺してあげるつもりは無いわ」
「致し方あるまいな。撤収する」

 ゲルダの言葉を聞いてラルゴは頷く。既に大半の部下を戦闘不能状態にされてしまっては、さすがの彼も無理に兵を進めようとはしなかった。ゲルダの方も今回は部隊の足止めが出来れば良かったから、深追いするつもりは毛頭無い。

「そうそう、それが賢明ね。次は容赦しないわよ」
「……さらばだ」

 ひらひらと手を振るゲルダにふっと楽しそうな笑みを向け、ラルゴはゆっくりと森の中に姿を消す。動ける兵士たちが這々の体で逃げ出すのを見送ってゲルダは、軽く肩を回した。

「さてと、シェリダンの街に戻りましょうか。御老人がた、腰抜かして無いと良いんだけど」

 そこまで口にしてしまってから、彼女はふと自身の身体を見下ろした。すっかり血に染まっている衣服を見て、大袈裟に溜息をつく。

「……その前に血を洗い流さないと、これ見て腰抜かされるわね」

 さすがにこのままで街には戻れない。とりあえずは川か海にでも飛び込もうかと、ゲルダは思考を巡らせた。


「斬られそうになった俺を、姉上が庇ってくれた」

 港を出航し、順調にホド跡地への航路を進んでいるタルタロス。その一室でガイは、自身の中に蘇った記憶を淡々と言葉に紡いでいた。
 彼の5歳の誕生日に起こった、血の悲劇を。

「傍にいたメイドたちも、みんな俺を守って次々に……その兵士も根負けしたのか、それともいずれはくたばると思ったのか、俺を掘り起こしてまで殺すようなことはしなかったみたいだな」

 その話を『覚えて』いるジェイドと彼から聞いたサフィール以外の面々は、幼いガイが封じてしまった記憶の中の出来事を聞いて息を飲んでいる。特にファブレの子であるアッシュとルークは、自分たちの父がかつて起こした惨劇に言葉も無い。

「掘り起こして、って……」

 アニスの問いに、ガイはふっと寂しげな笑みを浮かべた。具体的に紡がれたガイの言葉は、それを聞く仲間たちを絶句させる。

「姉上やメイドたちの遺体の下に埋まってたのさ。皆の血に塗れて、気を失ってた。ペールが助けてくれた後ホドを脱出したんだけど……意識が戻ったときにはもう、記憶は消えていた」
「女性恐怖症の原因は、その精神的外傷だったんですね。まあ、無理も無いですが」

 サフィールが告げた言葉は、『前の世界』ではジェイドが口にしたもの。当のジェイド自身は口を開くことも無く、ぼんやりと仲間たちを見つめているだけだ。一瞬サフィールと合った目は、すぐに伏せられた。

「情け無いねえ。生命を賭けて俺を守ってくれた姉上たちを怖い、なんて思っちまうなんてさ」

 かり、と指先で短い金の髪を掻いたガイに、「そんなことねえよ」とルークがその顔を覗き込んだ。ガイが顔を上げると、そのすぐ後ろにはアッシュの少し落ち込んだような顔もある。

「お前、子どもだったんだろ? 軍人が攻め込んで来て目の前で人がいっぱい殺されて、そんなの怖いよ、当たり前だよ」
「そうだな。そんな経験は、封じ込めていなければお前は耐えられなかった」

 2人の焔の言葉に、ガイは肩をすくめるだけで応える。と、おずおずとナタリアが口を開いた。

「ごめんなさい、ガイ。私はそんなこととはつゆ知らず、貴方の恐怖症を面白がってからかっていましたわ」
「ええと、多分あたしも面白がってたと思うんだ。ごめんね」
「私も、ごめんなさい」
「アリエッタも、ごめん、なさい」

 アニス、ティア、アリエッタが口々に謝罪の言葉を紡ぐ。少女たちは、自分に触れることの出来ないガイの女性恐怖症をさほど深刻なものとは考えていなかった。無論それは、ガイ自身が原因を忘れていたこともあるのだけれど。
 だからガイは、海の色の瞳を細めて明るく笑って見せた。誰が悪いのでも無いのだと、言葉にして言えるのは自分だけなのだと言うことが分かっていたから。

「何だよ。はは、君たちが謝ることじゃないだろ? 俺自身ついさっきまで忘れていたんだからさ、気にしないでくれ」
「ガイさん、もう大丈夫ですの?」

 珍しく自身の膝の上からガイを見上げてくるチーグルの仔の視線を受けても、その笑顔は崩れなかった。作ったものでは無い、心の底からの笑みだからかも知れない。

「大丈夫だよ。ありがとな、ミュウ」

 ふわふわと空色の頭を撫でてやると、ミュウは嬉しそうに額を掌にすり寄せる。それから青年の視線は、サフィールとジェイドを捜すようにくるりと室内を見渡した。2人を見つけたことで、その視線は固定される。

「どうせさ、しばらくは大してやることも無いんだろ? なら、その間はゆっくり休ませて貰うさ」
「そうですね。目的地に到着するまでは、艦の航路確認と音機関のチェックくらいしかやることはありません」
「音機関のチェックはガイに入って貰いますけど、それ以外は皆で手分けしてやれば済むことですからねえ。よろしくお願いしますよ?」

 最初はジェイドが、続けてサフィールが説明の言葉を紡ぐ。そうして銀髪の学者の、「では食事の時間まで解散しましょう」と言う一言でその場はお開きになった。


 甲板に出てジェイドは、空を見上げた。少し曇っているけれど、爽やかな潮風がくすんだ金髪を弄ぶ。
 己の後を追うようにやって来た幼馴染みの気配に、肩越しにそちらを伺う。短い問いを聞き逃さなかったのは、ジェイドの意識がサフィールに集中していたからだろう。

「シンク、来てますかね」
「恐らく。私の『記憶』と少し状況は変わりましたが、リグレットの襲撃が結果的に囮になっているでしょうし」

 ジェイドの『記憶の世界』ではこのとき、既にシンクがタルタロス内部に潜り込んでいた。地核に降りる寸前に侵入者の存在が明らかになったのだが、そのタイミングでの対処はまず不可能だった。故に地核潜行を優先し、世界へと戻るためにジェイドたちはシンクとの戦いに挑んだ。そうして、『誰かの代替にすらなれなかった』と吐き捨ててシンクは、地核へと身を投げた。

「先に片付けます?」

 幼馴染みの思いに気づかないかのように、サフィールは平然とそんな言葉を口にする。無論それは、ジェイドの気持ちを理解していてのことなのだけれど。
 ルークが我が子なら、イオンレプリカの1人であるシンクもジェイドにとっては我が子だろう。だから、きっとジェイドはシンクも救いたいに違いない。
 ごく当然のように、サフィールはそう考えている。

「タルタロスが地核に降りるまではあの子も動かないでしょう。だから、後で構いません」
「分かりました」

 ジェイドの答えに素直に頷いて、レンズの奥の目が細められる。彼の隣に歩み寄りぽんぽんと軽く肩を叩いてやると、ジェイドは少しだけサフィールに体重を預けて来た。

「出来れば私は、シンクも救いたい。あの子自身の未来を掴んで欲しい。……わがままでしょうか」

 サフィールの肩に少しだけもたれるようにして、ジェイドはぽつりぽつりと呟く。言葉には余り力が感じられず、何かに迷っているようにも思える。
 『記憶』を得る前の彼には無かったその弱さを、サフィールは喜ばしいものとして受け止めていた。あのジェイドが、いつも自分より数歩は先を歩いていたジェイドが、自分をこうやって頼ってくれるから。
 けれど、苦しむジェイドを見続けているのは辛いことでもある。その相反する感情を胸の内に押し込めて、サフィールはジェイドの頭を腕の中に抱え込んでやった。

「そう言うわがままは言っても良いんですよ。シンクは頑固者ですけど、頑張りましょうね」

 耳元にそう囁いてやると、ジェイドは小さくこくんと頷いた。

「『記憶』って、何なのさ。まるで預言詠んだみたいなこと言いやがって」

 影に身を潜め、シンクはちっと舌を打った。ちらりと向けた視線の先では、サフィールがジェイドの背を支えるようにして艦橋へと入って行くその後ろ姿が見える。

「……本気でばっかじゃ無いの、あいつら」

 2人の会話を聞くとも無しに聞いてしまっていた少年は、仮面の下で顔を歪める。六神将として己を高めていく中で鍛えられた五感は、ジェイドの囁くような言葉をも捉えてしまっていた。

 出来れば私は、シンクも救いたい。あの子自身の未来を掴んで欲しい。

「僕自身の未来なんて、想像もつかないね。導師と違ってポイ捨てされたレプリカに、そんなもんあるもんか」

 ぺっと唾を吐き捨てて、がしがしと森の色の髪を掻き乱した。たった今放たれた言葉に重なるように、ジェイドがかつて彼に投げかけた短い言葉が蘇る。

 一緒に来ませんか。

「……ちくしょう!」

 どんと壁に拳を叩きつけて、シンクは歯を噛みしめる。やがて、その口から言葉がこぼれ始めた。それは少年には似合わない、どこか弱気な口調で。

「ねえ。僕はどうすれば良いんだろう……ヴァン、死霊使い……レプリカイオン、教えてよ……」

 貴方ならきっと、他の誰でも無い自分自身の居場所を見つけることが出来ます。

 商人の街でジェイドが投げかけた言葉は、ずっとシンクの心の中に残っている。ただ少年は、未だにその意味を理解しきれていない。


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