紅瞳の秘預言 66 地核

 アリエッタがシートベルトを外せなくてもたついているところに、アニスが手を伸ばした。ぱちんと音がして留め具が外れると、桜色の髪をなびかせてアリエッタは椅子から飛び降りる。

「うんしょ、っと。ありがと、アニス」
「気にしない気にしない。さ、行こう。イオン様、大丈夫ですよねー?」
「ええ」

 2人の少女は仲良く笑い合って、それから自分たちが仕える主へと手を伸ばした。素直にその手を取り、イオンも歩き出す。それからふと顔を上げて、やっと座席から降りた譜業人形を振り返った。

「……まさか、タルロウは残るなんてこと無いですよね?」
「当然、一緒に帰るズラ。タルロウはジェイド様をお守りする役目があるズラ」

 するすると移動して、タルロウは当たり前のようにジェイドの横に並ぶ。両腕を振り上げて、楽しそうに全身を点滅させると、ガイがくすりと笑みを浮かべつつその頭にぽんと手を乗せた。そのまま撫でてやるのは、この譜業人形を音機関と言うよりは1人の仲間として見ているからだろうか。

「こいつを直で繋いだ方が艦の駆動とかやりやすいからって、その案も出たんだけどな。俺反対したんだよ」
「そりゃそうだろ。タルロウ、こんな所に置いてったりしたら可哀想だろが」
「まあ、確かにそうですわね。私たちは大変お世話になりましたもの、夢見が悪そうですわ」
「そうよ。こんなに可愛いのに!」

 ルーク、ナタリア、そしてティアが一様に拳を握り、力説してみせた。『前の世界』とは異なるこんな光景が、ジェイドの端正な顔に柔らかな笑みを浮かばせる。

「それに、ちゃんと帰ったらい組やめ組のお歴々に内部構造をちょっぴりお見せする約束になっているズラよ。それでチャラにしてくれたズラ」

 しっかり交換条件を出したらしいタルロウに、全員が呆れたように目を見張る。その中でガイは、彼の創造者でもあるサフィールに視線を向けた。少し眉を下げて、済まなそうな表情になっている。

「そう言うことになったんだけど、良かったかな? ディストの旦那」
「構いませんよ。でも、壊さないでくださいね?」

 仕方が無い、と呆れる大人の仕草でサフィールは、事後承諾して見せた。

 だって、もしかしたらジェイドはタルロウが破壊されても悲しむかも知れませんから。

 そんな理由が、サフィールの言葉に紡がれることは無い。


 仮面を付けた緑の髪の少年は、甲板へと通じる広い通路の途中でルークたちを待っていた。何の仕掛けもせず、たった1人で。推測が当たったのは、ジェイドでは無くサフィールだったようだ。

「シンク! 貴方!」

 その姿を見つけたイオンが、彼の名を呼ぶ。子どもたちも一斉に気を引き締め、戦闘態勢を取った。
 彼らの視線を一身に浴びながらシンクは、仮面の奥で眼を細める。

「上に戻りたいなら、僕を倒して行くんだね」

 僕がどうすれば良いのか、教えてよ。

 悲鳴のような問いかけを口にすること無く、シンクの手にふわりと光が宿る。譜術だと全員の意識が把握する寸前、ジェイドの鋭い指示が響いた。

「下がりなさい!」
「……っ!」

 反射的に飛び退くことが出来たのはアッシュやティアと言った、訓練を受けている軍人のみ。立ちすくむルークの襟をジェイドが掴み、ぽかんと目を見張るナタリアの手をアニスが掴んで引き寄せた。

「遅い! 行くよ!」

 シンクが掲げた手から放たれる光が、巨大な剣の形を取る。その切っ先が向けられた真正面には、タルロウを従えたサフィールが悠然と立っていた。

「譜術障壁、展開」
「了解ズラ!」

 半ば独り言のように弾き出された命令を受け取り、譜業人形は己の腹部から強烈な光を放つ。円を象った光は一瞬後に譜陣を描き、シンクの譜術が生み出した光の剣を受け止める。

「な……」
「砕きなさい、タルロウ」
「ズ〜ラ〜!」

 呆気に取られるシンクの目の前で、サフィールは平然と命じた。主の言葉に応じ、タルロウが放つ光が更に強くなる。ほんの少しの間せめぎ合った光と光は、ばきりと何かが割れるような音を立てて互いに弾けた。衝撃波は強い風となって、その場にいる全員の髪を激しくはためかせる。

「ディスト……!?」

 呆然としたままのイオンが名を呼ばわると、サフィールは肩をすくめてにやりと笑みを浮かべた。どうだ、と言わんばかりの自慢げな表情である。

「ご存じかと思いますが、私は譜業使いでしてね。防御用障壁を展開するための音機関も、元々は私の開発なんですよ。何しろジェイドが攻撃一辺倒なものですから」
「人間様をお守りするくらいの障壁なら、このタルロウ様にも作れるズラ!」

 えっへん、と胸を張るポーズはどこまでも人間臭い。腕を上げて構える譜業人形の頭を撫でてやりながら、サフィールは眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせた。

「まーある意味出落ちですし、本気で使うことになるとは思いませんでしたけどねえ。間に合って良かったですよ、ほんと」

 ジェイドが望む明るい未来へと進むには、こんな所で死ぬわけにはいかない。この場にいる子どもたちを……あるいはたった今ダアト式譜術を放った子どもも含めて全員を、無事に外殻大地へと送り届けなければならない。
 そのためにサフィールは、自身の持てる全てを吐き出すつもりでいた。本来ならば自身を守るためだけに組み込んだ譜術障壁ではあるけれど、こうやって役に立てたのなら何よりだと胸を撫で下ろす。

「アニスとアリエッタはお下がりなさい。こんな狭いところでトクナガは邪魔なだけです」
「だな。イオンとノエルを頼むぞ」

 淡々と吐き出されたサフィールの指示と彼に頷いたルークの言葉に、呆気に取られていたアニスははっと意識を現実に引き戻した。こんなところで死ぬわけにはいかないのだと言うことを、やっと思い出す。

「……あ、うん。りょーかい」
「イオン様、ノエル、アリエッタたちの後ろにいてね」

 アリエッタと顔を見合わせてから頷いて、彼女たちは導師と飛晃艇操縦士の少女を自らの背後へと下げる。それを確認してサフィールは、自分の前にタルロウを進ませた。サフィール自身戦闘は不得手だから、自己防衛に徹するつもりなのだろう。
 一方シンクは、苦々しげにきりと奥歯を噛みしめた。自身の譜術を容易く受け止められたから……では無く、地核突入と同時に彼の目の前に広がった光景を思い出して。

 青い空の下、どことも知れない建造物の頂上。
 幻影のような炎と相対している、紅瞳の譜術士。
 その全身を、刻まれた譜から流れ込む第七音素がじくじくと侵食している。
 正気を失ってしまっているのか、真紅の瞳に理性の光は宿っていない。

 背後から足音が聞こえて、彼は振り返った。端正な顔には満面の笑みが溢れていて、そのまま彼は光の中に身体を解けさせて行く。己が消滅して行くと言うのにその笑顔が消えることは無く……シンクはぞっと背筋を震わせた。

 ごめんなさい。

 不意に、彼の言葉が耳を打った。はっとして耳を両手で塞いだけれど、彼の声は遮られること無くシンクの中に流れ込んで来る。気がつくと恐らく彼の成れの果てであろう光の粒たちがふわり、ふわりと少年の周囲を漂っていた。

 私は、あの子を助けに行きます。
 だからどうか、許してください。

 平坦で感情の含まれない言葉は、それ故にシンクの心にざくりと突き刺さる。感情の無い……否、感情を破壊された彼の思いが余りにも一途だったから、かも知れない。
 今目の前にいる朱赤の焔が喪われたとしたならば、恐らくジェイドはその幻同様に生命を投げ出すだろう。何の根拠も無いけれど、シンクはそう確信してしまっていた。そして、ほんの僅か自分の中に湧き起こった羨望に思わず頭を振る。

 ──何で僕は、あんな幻を見たんだよ。
 何で僕は、羨ましいって思ってるんだよ。

 好機と見て斬りかかってきたガイの刃をかわし、こめかみ目がけて蹴りを放つ。直撃こそしなかったもののかすった衝撃だけで一瞬平衡感覚を失った青年の足元をすくい、転ばせた。
 素早く突き出された槍の穂先に引っかかって服の裾が破れ、シンクはちっと舌を打つと無理矢理飛び退いて距離を取った。ジェイドの視線が一瞬揺らめいただけで、少年は顔をしかめる。その表情に、幻の中で見た最期の笑顔が重なってしまったから。

 だって、僕はあんな風に必要とされていない。
 そんなの、最初から分かってるじゃ無いか。

 斬りかかるアッシュの剣を寸前でかわし、掌底を叩き込む。吹き飛ばされた真紅をかいくぐるように走り込んで来た朱赤の一撃が、僅かに指先をかすめた。

「ちっ!」

 バックジャンプして着地したその足元に、ナタリアの放った矢が突き刺さった。僅かにバランスを崩しながらも床を手で弾き、シンクはすぐ目の前まで迫って来ていたルークの腹にタックルを掛けた。

「こんのぉ!」
「がふっ!」

 そのまま朱赤の焔を押し戻し、譜歌を歌いかけていたティアにぶつける。が、2人の身体が壁となったせいでシンクは、至近距離にいたアッシュの姿を一瞬見失った。踏み込んだ足音も、ルークとティアがもつれて倒れる音に紛れて聞こえ辛かったはずだ。

「烈破掌!」
「が、あっ!」

 故にシンクは攻撃をかわすことが出来ず、アッシュが突き出した手の衝撃をまともに腹に食らった。
 だん、と強く壁に叩き付けられてシンクは、そのままずるずると床にへたり込んだ。その顔から、鳥にも似た仮面がからりと音を立てて落ちる。長い前髪に隠れてルークたちから素顔を見ることは出来ないけれど、何かを悟ったのかイオンは一瞬きりと奥歯を噛みしめた。
 いや、本当はきっと、顔を合わせた時から分かっていたのだけど。


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