紅瞳の秘預言 70 火山
急に、ナタリアを包み込んでいる空気の温度が下がった。はっと周囲を見渡す前に、自分が弓を構えていることに気づく。恐らくはたった今矢を放ったところなのだろう……弦の震えが、それをナタリアに教えていた。
また、『夢』!?
きりと奥歯を噛みしめながら、ナタリアは今自分が見ている光景を素早く確認した。ザレッホ火山のセフィロトとは違う、落ち着いた神秘的な光景。パッセージリングを見ることは無かったけれど、第七音素の流れを感覚として受け取ることは出来る。ここは間違い無くセフィロトだ、とナタリアは確信した。
今まで見たことの無いセフィロト……どちらかのゲートでしょうか。
ナタリアの疑問を他所に、『夢』の物語は展開する。彼女が矢を放った相手はその巨体を透き通った床に横たえ、今にも息絶えようとしていた。ナタリアが知るのとは異なる鎧を纏っていたけれど、間違えるはずも無い。
六神将の1人、『黒獅子ラルゴ』。今まさに最期の時を迎えようとしている彼の口から漏れた言葉が、ナタリアの耳朶を捉えた。
「大きくなったな……メリル」
「お父様……っ」
「……え?」
一瞬、ナタリアの思考が停止した。
自身は、インゴベルト王とは血の繋がらぬ親子である。それはつまり、彼女には他に血の繋がった父親が存在していると言うこと。
元々はメリルと言う名であった彼女の実母は王妃に仕えていた使用人だ、と聞いている。だが、父親について話が出ることは無かった。
「私の、本当のお父様は……」
ナタリアがインゴベルト王の娘で無いことをはっきりと知らされたあの場に同席していたラルゴ。『夢』の中の自分は、彼が実の父だと言う確信を持っている。恐らくそちらの世界では、何らかの証拠や証人が存在するのだろう。そうで無ければ自分が敵である彼を父と呼ばないだろう、とナタリアは確信している。
だからと言って、現実世界でもそうであると言う証拠は無い。だが、否定する材料もまた存在しない。
「これが本当なら、私は……父と戦っているんですの?」
薄れ行く幻の光景を見送りながら、ナタリアは呆然と立ち尽くしていた。
「これで、ローレライの鍵がどこにあるのか奴らに知られたって訳か。気をつけろ。ヴァンは……それを全力で奪いに来る」
唐突に己の口が紡いだ言葉に、アッシュは目を見張った。目の前にはルークがいて、自身を心配そうに見つめている。自分が知るルークとは違う短い髪の彼の姿を見て、真紅の焔はこれが『夢』であることに気づいた。
こいつの中に、ローレライの宝珠がある。
自分では無い自分が事実として理解しているらしいその言葉を、アッシュは脳裏で反芻する。そうして、顔をしかめながらぼそりと呟いた。
「コンタミネーションか……第七音素同士だ、あってもおかしくはねえ」
ローレライの宝珠。
『夢』の世界でジェイドがアッシュから奪った『ローレライの鍵』を構成する2つの要素の1つである、第七音素で出来た響律符だ。両極のゲートでローレライ自身が渡すと言っていた、その片割れに当たる。それらの知識をアッシュは、『夢』の自分から受け取っていた。彼と固有振動数を同じくする第七音素意識集合体がそれを望み、伝えたのだろう。
第七音素がもたらす『夢』の世界でのルークは、ローレライの宝珠をジェイドの槍と同じように自らの身体の中に溶け込ませていた。無論、現実の世界でルークは未だその宝珠を受け取った訳では無い。地核で接触した意識集合体は両極のゲートにて鍵を託すと明言しており、彼らはまだそこへと辿り着いてはいないのだから。
まさか、宝珠とのコンタミネーションが音素乖離の原因って訳じゃねえよな?
アッシュの疑問に答えることの出来る人物は、ここにはいない。唯一ジェイドが回答を知っていることを焔は知らず、彼が死す『夢』の物語を伝えるつもりは無いのだから。
やがてルークの作業は終了し、ふうと大きく息をつきながら朱赤の焔は腕を降ろした。サフィールがその頭を軽く撫でてやり、満足げに笑みを浮かべる。
「お疲れさま。良く出来ました」
「へへ、ありがとうなディスト」
普段とは違い、サフィールの指示を受けての作業だったことでルークの顔に浮かび上がった疲労の色も濃い。それでも少年は、あと一息の所まで作業を進めることが出来たと言う満足感に微笑んだ。少年の作業に集中していた同行者たちも一様にほっと胸を撫で下ろす。
「これで、残るはロニール雪山か」
低く、落ち着いた声が空間内に響き渡った。
この場にいるはずの無い、ユリアの血を引く男の声。
それは入口の側に立っていた、ジェイドのすぐ背後から発せられていた。
「ジェイド!」
「──!」
イオンが悲鳴を上げる。反射的に振り返ろうとしたその前に、ジェイドの左腕をヴァンの手が背中側に捻り上げた。そのままジェイドはヴァンの腕の中に抱き込まれ、口元をがっしりとした手で押さえ込まれる。
「く、うっ!」
辛うじて自由の利く右手でヴァンの手を掴み引き剥がそうとするが、力の差は歴然としていた。元よりジェイドは槍を自在に操り戦うことが出来るとは言え本業は研究者であり譜術士だ。それに今のジェイドは体調を崩してしまっており、アルバート流の剣術を極めたヴァンには到底敵わない。
「一緒に来ていただこうか、バルフォア博士。貴方には受けて貰わねばならん罰がある」
呼吸もままならない彼の耳元で、低い声が告げた。ヴァンの言葉はそのままジェイドの中に音も無く滑り込んで、その心をばきりと打ち砕く。
瞬間、ジェイドの動きがぴたりと止まった。レンズの奥の瞳は見開かれ、だがその焦点はどこにも合っていない。自分の研究が元で故郷を失った男の声が、思考を支配する。
そうか。
そうですよね。
ルークを見捨てて殺した私に、幸せな未来なんてあるはずも無いのに。
ほんの少しでも望んでいたなんて、馬鹿ですよね。
ごめんなさい。
自分に向かって何事かを叫んでいるルークの姿を見たのを最後に、真紅の瞳はゆっくりと瞼の中に消える。耳元で奏でられるナイトメアの旋律が、抵抗する気力を失ったジェイドの意識を闇の奥底へと引きずり込んだ。
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